27.初恋(ランドール)
初めてマティルドと会ったのは、マティルドが五歳の時だった。
マティルドが神殿でスキル判定を受けた帰り、ルブラン伯爵夫妻に伴われてケルテス家を訪問したのだが、その時、マティルドはすでに兄上の婚約者に内定していた。
母上は不満らしく、父上に「いくら長老たちの進言があったからと言って、それをそのまま受け入れるのはいかがなものでしょうか。ルブラン家には大した資産も人脈もありませんわ。それより、リヴィエール侯爵家からのお話を受けたほうが、よほどシモンのためになります」と文句を言っていた。
だが父上は、
「ルブラン家とケルテス家の繋がりは重要だ。それに、リヴィエール家の娘はまだ正式に認知されておらん。焦って婚約を結んで、侯爵家に認知されない娘をシモンの妻に迎えるつもりか?」
と言って母上を黙らせた。
マティルド・ルブラン。
将来、兄上の妻としてケルテス家の女主人となる人。
俺の知っている女主人は、母上だけだ。マティルドも母上のような人物なのだろうか。
いつも怒っている母上を思い、俺は少し憂鬱になった。
あんな人が屋敷に増えるのか。その前に独り立ちできるよう、手段を講じたほうがよいのかもしれない。
しかしマティルドは、俺の予想とはまったく違う少女だった。
「はじめまして。マティルド・ルブランです」
たどたどしく挨拶を口にしたマティルドは、とても小さかった。椅子に座っても首から下はテーブルに隠れて見えないくらいだった。こぼれそうに大きな紫色の目が、テーブルに置かれた菓子に釘付けになっている。
マティルドは、親同士の話など耳にも入らぬ様子で、ただ菓子だけをじっと見つめていた。その様子は、まるで川辺で辛抱強く獲物を狙うヴィオラガンバのようだった。
ヴィオラガンバは、力は弱いがすばしっこい魔獣だ。金色の艶やかな毛並みを持っており、売ればかなりの金になるが、人の気配に敏感だから捕えるのが難しい。
よく見ると、マティルドもまだ幼いのに体幹がしっかりしていた。鍛錬を積んでいるのだろう。身のこなしに隙がない。
「どうぞ召し上がれ」
母上の言葉に、マティルドはルブラン伯爵夫人の表情を窺った。ルブラン伯爵夫人が頷くと、マティルドは焼き菓子を両手に持って頬張った。
途端、マティルドの顔がパアアと輝く。
お行儀よく一つしか口にしなかったが、もっと食べたいと思っているのはその表情からたやすく読み取れた。
兄上と俺がケルテス家の庭を案内する際も、マティルドは名残惜しそうにテーブルに置かれた菓子を見つめていた。
帰り際、俺はマティルドに自分の分の焼き菓子を手渡した。
「やる」
そう言うと、さっきと同じようにパアアとマティルドの顔が輝く。
「ありがとう!」
元気よく言ってマティルドは帰って行った。
それから頻繁にマティルドはケルテス家を訪れるようになった。
母上は相変わらずルブラン家との縁談に不満のようだが、俺はマティルドをすっかり気に入った。
マティルドは母上とはぜんぜん違う。俺を蔑んで怒鳴ったりしないし、菓子をあげただけで律儀に礼を言う。最近は、俺を見ると嬉しそうに笑ってくれるようになった。大きな紫色の目を輝かせ、美味しそうに菓子を頬張る姿は、とても可愛い。
それに、マティルドは隙のない身のこなしをしている。きっと強いだろう。
一度、打ち合いをしてみたいがそのような機会はないだろう。残念だ。
と思っていたら、なぜか兄上とマティルドが打ち合いをすることになった。
マズい。
どう考えてもマティルドのほうが兄上より強いが、二人ともそのことに気づいていない。
兄上は負けるのに慣れていないから、打ち合いの後、マティルドを理不尽に責めるだろう。
そうなる前に、なんとかしてこの打ち合いを終わらせなければ。
そう思っていたのだが、驚いたことにマティルドは、たった一撃で兄上の手から剣を打ち落としてしまった。
マティルドも兄上も呆然としていたが、一番驚いたのは俺かもしれない。
強いだろうとは思っていたが、まさかここまでとは思わなかった。
それにあの速さ。マティルドのスキルは『俊敏』なのかもしれない。
しかし、この打ち合いのせいで、マティルドは兄上との婚約を解消されてしまった。その上、ルブラン家はケルテス家に出入りすることも禁じられてしまったのだ。馬鹿な。
「父上、マティルドには何の罪もありません。マティルドはただ、兄上に剣の試合を申し込まれ、それを受けただけです」
「お黙りなさい、ランドール! 誰があなたに発言してよいと言ったの!?」
久しぶりに父上が晩餐の席にいたから、今しかないと思って訴えてみたが、やはりすぐ母上にさえぎられてしまった。
父上は俺と母上の諍いには無関心な様子で、食事を終えると無言のまま席を立ってしまった。
執事や家庭教師は父上を優れた領主だと褒めたたえるが、俺にはそうは思えない。
どのような判断を下すにしても、まずは人の話を聞かねば問題を把握できないだろう。だが父上は、そもそも人の話を聞こうともしない。
それとも、父上はただ俺に興味がないだけで、領主としてはまた違った一面をお持ちなのだろうか。
どちらにしても、俺には何の力もない。
あんなに小さな女の子を、守ることもできないのだ。
「ランドール。王立学院を出たら、あなたはケルテスの名を名乗ることはできません」
王都に出立する前日、母上が俺の部屋を訪れて言った。
「卒業したら、ケルテス家に迷惑をかけぬよう、自分で生きていく術を見つけなさい」
「かしこまりました」
何の感慨もなく俺は頭を下げた。
王立学院を卒業すれば、騎士団に入団できるかもしれない。剣術のスキルを持っていない俺には厳しいかもしれないが、チャンスはあるのだから、やるだけやってみよう。
王都へ行けば、何かが確実に変わる。
少なくとも、この屋敷に充満する閉塞感からは逃れられるだろう。今はそれだけで十分だ。




