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お姉ちゃんとお手々つないで1

 学校の帰り道、僕はお姉ちゃんと手をつないで一緒に歩くことになった。

 夏休みの一日、例のお化け屋敷の後片付けの関係で遅くなった日のこと。もう日も暮れ、街灯や看板や家の窓なんかがぽつぽつと光り始めた頃、自動車のヘッドライトが点灯し自転車の明かりが時折すぅーと飛んで行くようになった頃のこと。それにしても、どうして僕はお姉ちゃんと仲良くお手々をつないで家に帰ることになったのか――大体こんなことをするのは何年ぶりだろう――それは実はこんな理由から。


      *    *    *    *    *    *    *    *


 その日、お化け屋敷実行委員会の集まりが午後から学校であった。前日、前々日の本番は滞りなく行なわれ、大盛況のうちに無事終了、おかげさまで評判も上々で大成功と言ってもいいと思う。お疲れ様でした。で、その後だけれどしっかりと残務整理がある。これがなかなかに大変だ。所謂祭りの後の、達成感を味わいつつもちょっと寂し気な反省会が済んでからじわじわと現れて来るこのお仕事、まあ誰もやりたがらないよね。けれども誰かがやらなきゃならない。だから今日実行委員のうち十五人くらいで集まって一階の二つの教室を使わせてもらって作業を始めた。この中に僕も入っていたわけ。本当はこの日ピアノの稽古日だったから外してもらうこともできたんだけど、敢えて加えさせてもらった。たまにはピアノの練習をさぼるのもいいかなと思って、こちらを選んでしまった。けれど実を言うと、あまりピアノの方へは行きたくなかったんだ。と言うのも前回の稽古日、次の発表会の曲の練習中先生から小言を言われたのを根に持っていたから。表現の仕方がどうしたとか曲の表情がどうこうとか、そんなこと分からないでしょ。随分一生懸命練習したんだけど、小学生だったら取り敢えず譜面に書いてあることを何とか正確に音にすることくらいしか出来ないでしょ、などとねちねちくさっていたので、お化け屋敷の残務整理にかこつけてさぼってしまったわけです。

 教室は、職員室の近くにある二つを使わせてもらった。時間は午後三時から。始まりがこんなに遅くなったのは、お世話係の先生がこの日の午前中岐阜市で研修をされていたから。急いで帰って来てもこれくらいの時間になってしまうらしい。けれど、ただ教室を生徒に開放するだけなんだから別の先生に立ち会っていただいてもいい、と思うんだけどそれは出来ないんだって。先生の世界も融通が利かないんだね。

 それで三時に実行委員が学校に集合、いろいろな仕事を手分けして片付けるためにそれぞれ担当の割り振りをした。そしてここで僕に割り当てられたのは一番面倒なもので、アンケートの整理と集計、及びそれらをまとめて来年の実行委員への報告書を作成するというものだった。僕は、これはまずいと思った。根がまじめな僕がこんなことをするとなると、時間がかかるに決まっている。制限時間一杯、六時半までかかるに違いない。となると学校の規則の関係で、家族の誰かに迎えに来てもらう必要がある。

 それで僕は先生にお願いして職員室の電話を借り、家に電話をした。お母ちゃんが出て、あらそうご苦労様、あんたの仕事が終わる頃に誰かを迎えにやったげるで、待っとりん、との返事、自分が行くとは言わなかったな、けれどこれで安心だ。僕は教室に戻ると、腰を落ち着けて早速仕事にとりかかった。

 ここは一年生の教室。ほんの数か月前までは幼稚園児だった子たちの教室。造りは僕らの教室と同じなんだけど、後ろの壁に貼ってある絵とか黒板のわきにある時間割表とかを見ると何となく教室全体が小さく見えてしまうから不思議だ。一緒にお仕事をしている友達連中もそんな風に感じているんだろう、小っさいなあ、俺らも一年生のときは、とか言いながらがやがや楽し気にやっている。―――五年前は自分達がこの教室でしゃちこばっていた。当時の自分達にとっては、六年生なんておにいさん、おねえさんを跳び越えておっさん、おばさんに見えていたものだ。幼稚園に比べたら校舎も大きい、校庭も大きい、それからその校庭から見上げる青い空がまた大きい。当然教室も広く大きく見えたものだった。先生もやたらいかつくて、そうそう、男の先生のまた大きかったこと、幼稚園では皆女の先生だったから小学校に来て男の先生を見たときは少しばかりおっかなかった。鬼が島に来たみたいだった。やっぱり緊張してたんだ。皆そうだったんだなあ。

 皆楽しそうに喋っていた。僕も時折あいづちを打ちながら会話に参加する。けれどもやらなきゃならないことがたっぷりとあるものだから、ほどほどにしておいた。ただ皆もその点は同じこと、あんまりさぼっていると今日中に終わらない。教室内は段々静かになって来て、皆仕事に集中し始めたようだった。

 そんな具合で教室の中は、ひっそりとまではいかないけれど、ぶつぶつぼそぼそと静かにざわめいているという状態になった。すると教室の前の方から何やら楽し気な会話と笑い声がしているのに気が付いた。

 顔を上げてみると、丁度教壇の傍らあたりに僕のクラスの女の子と級長が談笑しているところだった。女の子は派手な手振り身振りで盛んに喋っている。級長は机の上で手を組んで、しかし楽し気に話している。僕は思わず苦笑した。女の子の方は明るい活発な子で、身体は――太ってはいないけれど――筋肉が少し勝った感じで大柄で、おまけにその少し大きめの顔にこれまた大きな目としっかりした鼻と大きな口が付いている。その笑顔は実に壮観だ。僕もこの子とは仲良くしていて、よく一緒に遊んでいる。そう言えばこの間は一緒にサッカーをやって、同じチームでパス交換などもしたっけ。そんな活動的な子だから、今回のような行事では主に当日の進行の方で頑張っていた。だから今日はあまり仕事がないわけだ。どうやらその少ない仕事も早々に終わらせてしまったと見える。どんなことでもてきぱきとやる性格だからとっとと済ませてしまったんだろう。お見事でした。

 級長の方は、あまり付き合いがないから良く知らない。やせ型の長身で細面、頭は良さそうだし性格も温厚そうだ。いつも微笑みを絶やさない、といった印象。こちらの方は確か仕事の割り振りは無かったはず。事前の仕事が大変だったから、今日は免除されたんだ。けれど一応責任者の一人だからというので様子を見に来ているんだろう。立派な心掛けですねえ。

 こういう二人が向かい合って楽し気に話しているものだから、僕はやたらと可笑しかった。それにどうやら、随分と前からこんな風だったらしい。これまでは周りが賑やかだったから目立たなかったんだろう。成程ね、と納得して僕は再び仕事に集中した。

 聞こえてくるのは相変わらず、遠慮がちなひそひそ話とさらさらと鉛筆を滑らせる音、時折机の上で何かを移動させる音、それから例の二人の話し声笑い声ばかり。何となく人を落ち着かせる環境音楽のようで心地良い。仕事も良くはかどった。

 それからどれくらい時間がたったのかふと、今日中に終わらせられるかしら、という考えがぼんやり浮かんできた。すると体の方が勝手に、座ったままううんと背伸びをやらかした。どうも疲れてきたらしい。時計を見るともう五時を指している。二時間か、そりゃそろそろ疲れる頃だ。不慣れな作業を根詰めてやっているんだから。―――その時、「お先に失礼します」という声、自分の仕事を終わらせた子が一足先に帰るところだ。僕は皆と一緒に「お疲れ様」と言って見送った。帰って行く子は、やれやれといった顔をしている。それを見て僕はまた心の中で、『お疲れ様でした』と呟いた。そして視線を戸口から黒板の方へ移すと、例の二人が相変わらず楽し気に話しているのが目についた。僕は少し不愉快になった。この二人が残務整理に付き合う必要はない、それは納得できる。これまでしっかりやるべきことをやってきているのだ。けれど他の皆が一生懸命仕事をしているというのに、自分達だけ遊んでいていいのだろうか。勿論それはいいんだけど、これ見よがしといった印象を人に与えかねないのじゃないか。僕はおおよそそんな風に考えて少しいらいらとした。けれどこれはあまり高級な感情じゃないということも自分でよく分かっていたものだから、取り敢えずそこのところは置いておいて、また仕事の方に集中した。

 そうしていると作業を終えて帰って行く子がぽつりぽつりと出始めた。「じゃあね」「ご苦労様」「お疲れ」「お先に」「気を付けてね」「また今度」「さよなら」と静かな挨拶が飛び交う。僕も口だけはそれに参加する。人数が次第に減って行く。僕にも少し焦りがあったのかも知れない。比較的順調に進んではいたけれど、まだちょっとかかりそうだ。いい加減端折っちゃおうか、いやいやここまでちゃんとやって来たんだから、ああ根が真面目というのも辛いものだ、などと頭の中で一人芝居みたいなことをやりながらこつこつと作業を進めて行った。

 また時間が気になってそっと時計の方を見やると、五時四十五分になっていた。教室の中にはもはや数えるほどしか残っていない。取り敢えず六時半までやってあとは宿題か、僕はいささかうんざりした。そして随分と寂しくなった教室内に、やっぱり楽し気な会話が続いていた。あの二人だ。実はずっとこの騒々しい会話が気に障っていた。それにあの不快感はずっと続いていたのだ。だからその間、作業の進捗がかなり妨害されてもいた。流石にちょっと問題なのじゃないか。実行委員会が始まってから二時間四十五分、というかもう三時間になろうとしているのにまだ喋り続けている。飽きもせずに、よくもまあそんなに話すネタがあるものだ、と言うよりそういうことじゃなくて、ここで作業をしている人達に対して失礼なんじゃなかろうか。

 この時すでに僕の不快感は怒りに変わっていた。あんまり他人に対する配慮がなさすぎる。自分達は楽しくて面白おかしくて、そりゃいいかも知れない。それに、それが理屈の上では問題ないかも知れない。けれど人間、筋を通せばいいというだけのものじゃないだろう。心配りというものも必要なんじゃないのか。することがなければさっさと帰ればいいんだ。僕は実際はしたなくも、怒り心頭に達していたのでした。

 こんな状態だったので、仕事になんて集中できっこない。僕は自分の努力をひたすら、この怒りを鎮めるために用いていた。これじゃあ仕事にならないじゃないか、という内部からの自分自身の声も聞こえることは聞こえる、聞こえては来る。けれどなかなか思うようにはいかないものだ。僕はいらいらし、爪を噛み、歯ぎしりをし、ちっという舌打ちをしないよう自分を抑えながら怒り狂っていた。怒って怒って、激情を腹の中へ抑え込みながら、ふと目を上げて午後六時を指している時計の針を見た、その拍子にいきなり何の前触れもなく頭の中にピカピカとある一つの明瞭な考えが、いや考えではなく直観かも知れない、どちらでもいいけれど兎に角一つのはっきりとした映像みたいな命題みたいなものが、僕の頭の中にぽっかりと浮かび上がって来たのだ。

 それは、自分は今嫉妬しているぞ、というものだった。

 これは絶対的な宣告だ。自分自身によって自分自身に対して下された、決して抗うことが出来ないような判決だった。そして僕は―――あせってしまった。この時、恐らく僕の顔は歩行者信号みたいに青くなったり赤くなったりしていたのかも知れない。僕自身、自分の頭がすぅっと冷たくなって、次の瞬間さっと沸騰し始めたように感じられたのだから。嫉妬してるんだって?ええっ!嫉妬なんて小説の中でしか見たことがない言葉なのに。現実世界で、しかも僕自身が?ということは、僕はあの女の子に惚れているってことじゃないか。僕はますます焦ってしまった。確かに僕はあの女の子のこと前から好きだったけど、そういう意味じゃないと思っていた。と言うより、そんな風に考えたことなんてなかった。でもこの宣告は事実だ。自分のことだからよく分かる、間違いない。間違いはないけれど、いきなりこんなことを宣告されても‥‥‥僕はひたすら焦ってしまった。

 さあ、こうなったらもう何もできるわけがない。僕はここにこう座って今こうして仕事を一生懸命していますよ、という体裁を繕うのに精一杯だった。けれど内面は、どぎまぎしてのぼせ上って縮み上がって、そして相変わらず怒りは止まず―――と言っても、その『怒り』がどういうものであるのかは、これ以上ないくらい明らかになってしまったものだから、これまで偉そうにほざいていた大義名分も遥か彼方に飛んで行ってしまい、もう二度と戻って来ることもないだろう。後には、嫉妬と言うかやきもちと言うか妬みと言うか、どれにしてもこれまたあまり上等でない感情が、沸き上がり続ける怒りが残されてしまったわけで、どうにもこうにもまるっきり情けない有様でした。

 これ以上恥ずかしい話をするのも何ですから、ただ、それから十分間くらい悶々としていた、そしてどうにも我慢ができなくなって、取るものも取り敢えずそそくさと帰り支度をし、挨拶もそこそこにもうほとんど人が残っていない教室からほうほうの体で逃げだした、ということだけ報告させていただきます。


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