なにも、ずるくない
クレリア伯爵家には長男と長女、そして次女の三人の子がいる。
長男はいずれ伯爵家の跡を継ぐ事が決まっていて、長女と次女はいずこかの家へ嫁に行く事が決まっていた。
別に、何もおかしなはなしではない。
貴族の家ならよくある話だ。
昔に比べて政略結婚の数は減りつつあるけれど、それでも完全になくなったわけでもないのだから。
未だ身分は重要視されている部分もあって、気軽に貴族と平民が結婚する、というのはそうあるものではない。
「まったく、わたくしこういう事を言っていいものか悩みますけれど、それでもあえて言わせていただきますわね。
お二人とも、お馬鹿さん」
長女であるミレニアは、その声に何の感情も乗せないまま言葉を発した。
長男であるサンソンと、父親であり現当主であるバダックはそんなミレニアに反論できなかった。
「言ったじゃありませんか。メディナをあまり甘やかしすぎてはいけませんよと」
そう言うミレニアの声にはやはり何の感情も込められていない。
怒りも悲しみも、何も。
バダックの妻であり三人の母であるオデッサは、メディナを産んで間もなく亡くなってしまった。
それ故に、メディナには母の記憶など何も残ってはいない。ただ肖像画で若かりし頃のオデッサが描かれたものが屋敷に飾られているので、顔を知らないというわけではないがそれだけだ。
だからこそ、可哀そうだと思ったのは確かだ。
それ故に甘やかしてきた自覚がバダックにはある。
これでその自覚すらないなどと言おうものなら、目の前のミレニアの視線は更に冷たさを増した事だろう。
母親が亡くなって不憫で哀れだと、使用人たちももしかしたら陰で言ったのかもしれない。
メディナは、自分は可哀そうな存在なのだと本気で思っていたようだった。
ただ、それは姉であるミレニアも、兄であるサンソンも同じだ。
二人だってまだ幼いうちに母を亡くし、ましてやバダックは最愛の妻に先立たれてしまっている。
そういう意味で言うのなら、クレリア家は皆愛する者を失った悲しみという点では同じなのだ。度合が違いこそすれども。
だがしかし、メディナは違う。
彼女は生まれて早々母を失い、母の思い出も何もない。声すら記憶に残っていない。
いくら幼かったとはいえ、兄も姉も母の思い出がある。
母に名を呼んでもらい、頭をなでてもらったり抱きしめてもらったりした事だってあるだろう。
けれどもメディナにはそれすらないのだ。
それもあって、父はメディナを殊更甘やかした。
母の分まで愛情を、と思ったのだ。
しかし、それが最悪な方向に突き進んでしまったという事実に、今更のように頭を悩ませる事になってしまったのである。
メディナだって最初のうちは、自分には母がいなくて可哀そうなのだと周囲の言葉をそのまま受け止めていただけだったように思う。
けれどもそれがいつしか微妙に歪みを生じさせ、矛先は姉に向いた。
お姉さまばかりずるい。
お母様との思い出があるお姉さまはずるい。
そんな風に、母との事を持ち出してはずるいずるいと喚くようになってしまったのである。
幼い頃のミレニアとて、そう言われても……という気持ちになった。
ずるいと言われても……自分だってまだまだ母に甘えたかった。それができないメディナは確かに可哀そうかもしれないけれど、でもそれは自分のせいではないのだから自分にずるいと言われても困る。
それに、もっと言うならでは一番ずるいのは兄であるサンソンではないのか。
ミレニアとメディナの年は二つしか離れていない。
サンソンはミレニアの四つ上だ。
メディナが産まれて母が死んだとき、ミレニアだってまだ物心つくような年齢ではなかった。
もう母の思い出など朧げすぎて覚えていると思えるそれが本当の事かもわからないくらいだというのに。
そんな、あやふやで不確かな思い出をずるいと言われてもミレニアだって困ってしまう。
幼かったミレニアは勿論メディナの言い分に納得いかず、ずるくないもん! と言い返したりもしていた。
ただ、お前のせいでお母様が死んだとか、お前が産まれてこなければ、などといった本当に言ってはいけない言葉は向けなかった。母が命を懸けて産んだ子なのだ。ミレニアはそれを漠然とではあったが理解はしていた。
母が生きていたならば。
きっと兄も自分も妹も、皆同じように愛情を注がれて育っただろう。
そう思えたからこそ、心無い言葉を向ける事だけはしなかったのだ。幼い頃の自分、なんてできた人間なのでしょう、と大きくなってからもミレニアはそう思っている。
妹はとにかく姉にずるいと言い募った。
お姉さまの方がぬいぐるみ多く持っててずるい、だとかお姉さまは前にもこのお菓子食べててずるい、だとか。
言わせてもらえば別に何もずるくはない。
ぬいぐるみは誕生日の時に親戚から贈られてきたものだし、メディナだって誕生日を迎えた時に贈り物をもらっている。自分の方が多いのは、メディナより少し先に生まれてきたからその分であって、二年後、現時点でのミレニアと同じ年齢になればミレニアと同じだけの贈り物を手にする事はほぼ確定なのである。
ミレニアだけが贔屓されてプレゼントをたっぷりもらった、なんていう事実は無い。
お菓子にしたってそうだ。
前に食べた事あると言っても、それだって贈り物と同じような理由だ。
先に生まれていて、その分お菓子を食べるようになったのが妹より少し早かっただけ。
それを言うなら兄なんてもっと色んな種類のお菓子を食べているし、量だってそうだ。
けれどもメディナにとって兄はずるいと言う矛先ではなかったようだ。
薄々察していたのかもしれない。
跡取りと、嫁に行く身と。
その差はどうしたって存在する。
だからこそ、同じ状況である姉に矛先が向かったと言えなくもない。
成長して、ぬいぐるみだとかで喜ぶような年齢ではなくなってからはドレスだとかアクセサリーだとかでお姉さまずるい! は言われるようになった。
姉妹なので顔立ちが似ているのは言うまでもない。若干妹の方が目元が父に似てはいるけれど、そのせいで不美人だなどという事は勿論ない。
ミレニアは年を重ねるごとにどんどんオデッサに似ていったけれど、メディナはそれとは少し異なるもそれでも充分に美少女として成長した。
お姉さまばかりずるい、と言ってはミレニアから何かを奪おうとしていたメディナだが、ミレニアはそれを良しとするはずもなかった。
今は姉に対してだけやっているが、もしこれがそのうち他の家のご令嬢相手にやらかしたら、と考えるととんでもない事になるからだ。
家格が下の相手ならこちらから謝罪してどうにか事を丸く収める事はできるかもしれない。けれども、マトモな教育ができていない、と噂になるのは目に見えているし、そうなったら我が家の評判は一体どこまで落ちる事やら……
家格が上の相手にやらかそうものなら一発アウトだ。
それもあって、ミレニアはいくら身内であろうともいずれ他人にもやらかしそうな事は決して譲ろうとはしなかった。
だがしかし。
生まれてすぐに母を亡くした可哀そうなメディナ、という事実でありフィルターが搭載されてしまったバダックはメディナが欲しがる物を惜しみなく与えるようになってしまった。
ミレニアが持っている物であっても、後で新しいのを用意するから……とミレニアに言ってメディナにミレニアの物を渡したりしたのである。
そうやって甘やかすのはよろしくありませんよお父様、と言ったけれどバダックはわかったわかったと軽く頷くだけだった。
だから……今現在こんなことになってるわけなのだが。
ミレニアは冷めた眼差しでもって父を見た。
とてもしょげている。
けれどもちっとも可哀そうだと思わなかった。
兄もまたしょぼーん……としているが、こちらもあまり可哀そうだと思わなかった。
薄情と言うなかれ。
今まで散々苦言を呈してきたのだミレニアは。
メディナがもたらすあれこれの一番の被害者だからというのもあるが、それでもただ大人しく抵抗せず妹に何もかも奪われるような姉にはならなかった。
妹がやらかすたびにきちんと父には苦情を申し立てていたのだ。
けれども家庭内の事だからと甘く見たのは父だ。
その結果、手遅れになってしまったわけだ。
つい今しがた、ミレニアは父に問うてみた。
もしお母様が生きていらしたら、メディナのあの我儘そのままにしたと思います? と。
肖像画でしかもうその顔を見る事ができないオデッサ。
彼女はまさしく薄幸の美女と言わんばかりの儚さを漂わせていたが、しかしその中身は決して儚くもなんともない。
ミレニアの言葉を聞いて、バダックはやや沈黙した後、
「いいや……」
とゆるく首を振ったのである。
でしょうね。
母が生きていた頃から仕えていた使用人たちの話を聞いていたら、絶対そんな事許されるはずがなかっただろうなとミレニアも思ったからこそあえて聞いたのだ。
「お父様がこの後、寿命で天に召されたとして、死後の国でお母様と出会えたとして。
お父様、胸を張ってお母様と向き合えますか?」
その質問に、先ほどよりも更にバダックの顔色は悪くなった。
「お母様にも顔向けできないような事をしでかしておいて、何今更被害者ぶってらっしゃるの?
メディナがああなってしまったのは、本人の資質も勿論あるでしょうけれど、増長させたのは紛れもなくお父様ですよ。あとお兄様も」
「俺も!?」
「自分は無関係とばかりにメディナごと見て見ぬふりし続けてきたじゃありませんか。
次期当主がそれを見過ごしたのだから、何も問題ないとメディナの中でそうなってしまった事は否定しませんわ。
そうなれば、いくらわたくしが咎めたとしても聞く耳持つわけないじゃありませんか」
メディナの中で姉であるミレニアは敬う相手ではなく、搾取していい相手だと思っているだろう事は否定できない。実際そうだったのだから。
そして、バダックは口では注意をすれども、しかしミレニアからドレスやアクセサリーを持ち出してメディナに与えていた。いくら後から新しい代わりの物をミレニアへ渡していようとも、メディナはミレニアから物をとっても良いと学習してしまったのである。
そしてサンソンの態度も増長させる原因の一つだっただろう。
自分に被害が及ばないからこそ、サンソンは無関係を装った。外でやらかさなきゃまぁいいや、くらいに放置を決め込んだ。
次期当主がそんな態度なら、メディナの事だ。己の行動は正当性があると思い込んだって不思議ではない。
結果として、意識してか無意識かはさておき見下していい相手だと思ったミレニアがいくら常識を説こうともどこ吹く風であったのだ。
淡々と指摘されて、二人は同時に頭を抱え込んだ。
けれどももうミレニアはそれを見ても何の感情も湧いてこない。何を今さら、という言葉くらいは出てきそうだったけれど。
「正直な話、わたくしこの後はもうこの家と縁を切ってもいいかしら、くらいに思ってるんですけれどもね?」
「そんな……」
「えっ、でもお父様、被害者面してますけれど、真の被害者ってわたくしですわよ?
本当だったらさっさと修道院にでも行って早々に縁を切ろうと思ってましたもの」
しれっと言われて、真っ青通り越してバダックの顔色は紙のように真っ白になった。
「その、ミレニア、メディナもきっとあれだ、ほら、肖像画のお母様みたいにそっくりになってくミレニアを母のように思って甘えていただけとか」
「は? お兄様何言ってらっしゃるの? 甘えで何してもいいわけないでしょう。実際やらかしたんですのよ!? 母の代わりに思うなら、やっていい事と悪い事を教えた時点で覚えて成長するっていう産んでないけど母性をくすぐる程度には可愛げをみせていただきたかったものですわ」
母に瓜二つな顔で冷ややかに告げるミレニアに、サンソンは失言だったと早々に悟り口を噤んだ。
産んでないけど我が子のように扱ってほしかったなら、せめてそれ相応の可愛げをみせていただきたいものである。何故に産んでもいない可愛げのない子にありもしない母性をかき集め慈愛の精神で接しなければならないのか。
いくらミレニアが叱り、常識を説いてもそれ以外の身内がメディナを甘やかすものだから、ミレニアの言葉だってすっかり軽んじてしまったのだ。メディナは。
母親代わりにさせるならさせるで、余計な邪魔をしないでほしかった。
既に済んでしまった話ではある。
メディナは少し前にやらかした事が原因で戒律の厳しい修道院へ送られる事が決められてしまった。
要は体のいい厄介払いである。
家に置いておくにしても、後を継ぐサンソンの嫁となる相手とあのメディナが上手くやれるとは思えないし、ましてやもう貰い手もなさそうな小姑がずっと家にいるとなると、サンソンの妻になるだろう女性からしてもとても目障りだろう。
いくらでもいてくれていいのよ、と言えるくらい可愛げのある娘で、仲良くやっていける相手ならともかく醜聞しかない相手だ。将来的にサンソンとの間にできた子の教育にも悪い、と妻になる女は思うであろう。
何故ってミレニアですらそう思うのだ。身内であっても。
であれば、身内ですらない何の情も持ち合わせていない相手なら、もっと厄介に思ったって何もおかしくはないのである。
何も知らないうちなら仲良くできたかもしれない。
けれども、知った後はきっと仲良くできないだろう。
メディナのやらかしは少し前にさかのぼる。
ミレニアに婚約者が決まった、という話が出た頃だ。
メディナにも勿論婚約者を決めるつもりではいたけれど、それより先に姉のミレニアの相手が決まった。ただそれだけだというのに、ここでもメディナはお姉さまずるい! とのたまったのである。
ミレニアの結婚相手にと決まったのはミュール公爵家のローグであった。
他の家からもうちの娘を是非嫁に、と言われるようなある意味で引く手あまたの相手だ。
決まった、というか選ばれた、が正しい。
しかしそれに不満爆発させたのがメディナである。
お姉さまずるい。
私は選ばれなかったのに。
そんなとても子供じみた理由だ。
ローグ様みたいに素敵な方に見初められるなんてずるい。
どうして自分じゃないの。
そんな風に屋敷の中で喚き散らした。
メディナが昔からローグ公爵令息に想いを寄せていた、というのであればミレニアだってそんな恨み言のような言葉をもうちょっと真剣に聞いていたかもしれない。
けれどもそうではなかった。
というか、メディナとローグ公爵令息が関わるような事がまずそもそも無い。年が少し離れているので、貴族たちの通う学校などでも同じ学年というわけでもないのだ。仮に同年代だったとしても、恐らく成績ごとによるクラス分けで一緒のクラスになる事もないだろう。
メディナが知るローグ公爵令息の事なんて、友人たちとの茶会だとかで知る噂程度だ。
ちょっといいな、素敵、と思う感情があったとしても、それは精々劇団の花形スターに向けるようなものに近い。
顔合わせの段階で、メディナは姉の婚約者に挨拶を……ととてもしおらしい態度で近づいて、将来兄になる人なのだから、とローグへ纏わりついた。
ミレニアが嫁に来た時点でメディナとの付き合いはそこまで多くはならないだろうけれど、それでも一応義妹になる相手だ。ローグは常識の範囲内で接していたが、メディナは押せ押せとばかりにぐいぐい接近していったのである。
ミレニアは勿論苦言を呈した。
けれどもミレニアの事など軽んじている妹だ。素直に聞くわけもない。
父も今だけだろうから、と甘くみて、兄に至っては仲が良いのに越した事はないんじゃないか? なんてとても日和った発言をしてくださった。
ローグがクレリア伯爵家に来たとき、メディナの邪魔が入らなかったのは恐らく一度か二度くらいだろうか。それ以外は大体いた。しつこい油汚れのようにこびりつくが如く存在していた。
ローグはというとメディナは姉であるミレニアの事が大好きなのだな、と誤解をしていたようではあるがそんなはずもない。邪魔なメディナをどうにか遠ざけようとしたものの、それでメディナがめげるはずもなく。
何があっても姉から離れるものかとばかりに二人の逢瀬に割って入ったのだ。
これで普段のようにお姉さまずるい、で一体何がずるいのかさっぱりわからない理論を振りかざしてくれれば話はもうちょっと早かったのに、こういう時ばかり猫を被るのが上手なメディナは簡単に尻尾を出す事もなく。
ローグの目にはどうやら仲の良い姉妹に見えていたようだ。
そんな中でミレニアがメディナをこっぴどく叱りつけて追い出せば、ミレニアの評判が下がるのは目に見えている。お互い内心でピキピキしながら水面下で牽制しあっていた。
ローグにそれを気付けというのは酷な話だ。
女性同士のあれこれを即座に察しろ、と男性に言うのは中々に無茶振りなので。
これがローグにとってのライバルと呼べるような相手や素直に恋敵と言える相手だったならまた違っただろうけれど、結婚相手予定の女性の妹だ。ローグ本人に敵意を向けていない相手の、密やかな棘を察知しろというのは流石に無茶振りが過ぎる。
だからこそ、ローグはメディナ相手に油断していた。
まぁ常に警戒し続けろというのもやはり無茶振りだろう。
結婚相手の妹を敵とみなせ、というのはその家の内情が余程アレならともかく、そうでなければまず思うはずもない。
とある日、ミレニアが諸事情でもって外に出ていた時にローグが訪れた。元々連絡はしてあったけれど、ちょっとした手違いでローグはクレリア伯爵家で少しばかり待つ事となってしまった。
その隙を突いて、メディナはなんとローグを手籠めにしてしまったのだ。
手籠め、という言い方もとてもアレだが。
だがしかし、そうとしか言いようがないのだ。
こういった事を想定していたらしきメディナは、なんと媚薬を入手していた。
媚薬と言っても精々がちょっと性的な興奮しやすくなる、くらいの依存性もない代物である。
夫婦仲が冷めきってきた相手などがたまには……といった感じでまんねり回避のために使うような、合法のものだ。勿論用法と容量を守った上で、という言葉がつくが。
相手の意思も何もあったものじゃない非合法の惚れ薬のようなものでなかったのは良かったのかもしれないが、知らぬ間にそんな物をお茶に盛られ、あれよあれよといううちにメディナによって客室へ案内され、そうしてそこでメディナはローグを襲ったのである。
襲ったのはメディナだが、しかしぱっと見はその逆に見えた。
何故ってメディナはこの時まで純潔であったので。
これが男と見れば誰でも、というような節操なしのふしだらな女であったなら話はまた違ったのだろう。
しかしメディナは純潔で、ローグが初めてのお相手だったのである。
シーツについた純潔だった証。
意識が若干朦朧としていたとはいえ、ローグは婚約者の妹と関係を持ってしまったわけだ。
ローグの婚約者としてまだミレニアは周囲に発表されるような事もなかった。
それは、ある意味で救いだったのかもしれない。
婚約者がよりにもよって結婚予定の相手の妹と関係を持った、という噂が流れれば、正直誰も幸せにならないのだから。
媚薬のせいで興奮状態にあったローグは、効果が切れた後それはもう酷い有様だった。
その場で腹でも切って死ぬのではないかと思う程だ。
婚約者の妹に手を出したのだ。いくら薬を盛られて不可抗力な部分もあったとはいえ。
けれども、まだ世間的にローグの婚約者は発表されてすらいなかったので、ではローグとメディナが結婚すればいい、となったのだ。発案者はミレニアである。
ミレニアの婚約者を奪ってやった高揚感で一杯だったメディナは、その案にあっさりと飛びついた。
流石に外でローグ様は姉の婚約者だったのですよ、などと言えば、自分が婚約者を寝取ったというのもバレるというのは理解していたようだ。
そうなればメディナなどあっという間に社交界からも総スカン食らったっておかしくはないのだ。
外で吹聴はしないけれど、しかし内心で婚約者が選んだのは自分だという優越感――ローグが自ら選んだわけではないというのに――で、ローグと結婚するその日までメディナはご機嫌だった。
婚約者と二人きりになろうとしてメディナを遠ざけようとしていた姉は、しかし今となっては遠ざけられるのは自分である……なんて思えばメディナの気持ちは高ぶる一方。
平静を装っているように見える姉の、しかし内心での惨めさを思うと笑いが止まりそうになかったのである。
やらかした経緯を思えば褒められたものではないけれど、しかしローグもまたこうなってしまった以上は……とメディナを愛そうと努力はした。
メディナの内心を正確に理解していたならば別に愛など必要ないと判断しただろうけれど、ローグからすれば姉を押しのけてでも自分と一緒になろうとした女だ。そこまで想われていたのか、とローグは思ってしまったのである。
やり方はまずかったとはいえ、そうまでして……と思ったわけだ。
ミレニアに対しては誠心誠意謝罪をして、そしてミレニアもまたそれをあっさりと受け入れたので二人の仲が拗れる事もなかった。
そもそも拗れる程の関係を作っていたとも言えなかったが。
ミレニアとしてはメディナが公爵家に嫁ぐのであれば、まぁしばらくは公爵夫人として必要な心構えだとかを覚えるのが大変そうだわ……なんて思っていたけれど、同じ屋敷で過ごしていた今までと比べれば関わる事もそうなくなるだろうし、そうなればお姉さまずるいという言葉も聞かなくて済む。
結婚相手だって元はミレニアの相手だったという部分を詳しく深堀しておさがりだなどと思う事もなければ、とてもいい相手だ。現時点で考えられる限り、最高の結婚相手と言っても過言ではない。
もし既に世間にローグの婚約者がミレニアであると知られていたならば、世間はもっと冷ややかだっただろうけれどその事実は当事者だけが知っているようなもので。
だからこそ、ローグとメディナが結婚すれば全てが丸く収まる――はずだった。
実際に結婚式当日までの間、メディナの機嫌は上々だったのだ。
意味深にミレニアを見てはくふくふと笑ったりもしていたけれど、結婚そのものを拒絶するような事はなかった。
いやまぁ、やらかしておいて拒絶するようなら流石に今まで甘やかしてきた父だって黙っちゃいなかっただろうけれど。
だがしかし、メディナはそれでもやらかしたのだ。
結婚式当日である。
ローグが婚約者を決めたという話は社交界であっという間に広まって、そしてそこから結婚式までもあっという間だった。
大勢の人に祝われて、ローグとメディナは教会で愛を誓いあい、そうして夫婦となるはずだった。
ところがだ。
今の今まで本来は自分が婚約者だったのにそれを妹に奪われて悔しいのう、悔しいのうとばかりに草を生やす勢いでキャッキャしていたメディナは、そこで気付いてしまったのだ。
姉が、心から祝福しているという事実に。
ここでせめてもうちょっと悔しそうにこちらを見ていれば、メディナもご機嫌で誓いのキスをしたことだろう。
けれども、周囲の祝福いっぱいの笑顔で見ている者たちと同じように、姉もまた笑顔であったのだ。
内心で悔しさたっぷりなのかもしれないが、それを感じさせないレベルの笑顔。
弾けるような笑顔でもって「幸せにね!」なんて声までかけられて。
生まれた時からミレニアの妹をやって来たのだ。だからこそメディナにはわかる。
その声が、本心からのものであるという事を。
その途端、メディナの中で様々な感情がよぎった。
最初に思ったのはお姉さまずるい、だった。
どうしてそんな風に幸せそうに祝福できるの。
自分だったら絶対にそんな事できないのに。
どうして笑顔でいられるの。
そこはもっと憎むべきじゃないの。
もしかして。
もしかして、姉は本当は結婚したくなくて、自分にそれを押し付けた……?
そんなはずはないというのに、メディナの中でそんな考えがちらっとでも浮上して、そしてそれは一瞬で正解のように思えてしまった。
決してそんな事はないのに、メディナの中では姉に利用されたという気持ちが一瞬で一杯になってしまったのだ。
そこからは、一瞬だった。
ローグの体を押しのけるように両腕を突っ張らせて、
「わ、私やっぱりこの結婚できません!」
そう叫んでしまったのである。
そこからは散々だった、としか言いようがない。
あとは誓いのキスだけ、という状況で突然花嫁がそんな事を叫んだのだ。
周囲のざわめき、何事かと問う人々。
おおよそ結婚式とは思えない不穏な空気に、神父はなんとか場を収めようとした。
動くには向かないウェディングドレスのまま身を翻して逃げ出そうとするメディナと、突然の拒絶に呆然とするローグ。
ミレニアは思う。
あの時、よくあの状況が収まったな……と。
誰がどうして収まったのか。
正確には覚えていないのだ。
ただ、メディナがいらん事を喋ったのもあって、式は中断という形になってしまった。
もっと言うなら、メディナが既に純潔でない事まで暴露した。
結婚したくないならそこはせめて言わない方が良かっただろうに、しかし冷静な判断力はなかったのだろう。ミレニアにはわからない。何故突然メディナが結婚をしないと言い出したのか。
したくないならなおの事、既にローグと身体の関係があるだなんて言わない方が良かったのに。
ぶちまけられた事実に、周囲はそれはもう騒然としたものだ。
結婚前の令嬢に何てこと、とローグにも非難の目が向けられたが、しかしテンパったであろうメディナはご丁寧に自分が媚薬を盛った事まで暴露した。
そこまでしておいて、直前で結婚できませんなんて叫ばれても……と思った者は果たしてどれくらいいただろうか。
最終的にやらかしたメディナが最後の最後で精神的に追い詰められたみたいになって、そうして式は中断したのだが。
あの場はあれで収まったと言えなくもないが、全体的に見れば何も収まっていない。
あれから数日が経過している。
社交界ではそりゃあもうこの話題で持ち切りである。
姉の婚約者を奪った妹。
薬を盛ってまでやらかした妹。
結婚前に純潔を失わせてまで奪った相手と、しかし直前で結婚を拒否。
どこからどう見ても醜聞たっぷりである。
この場合悪いのだーれだ? ってなったら間違いなくクレリア家だ。
やらかしたのはメディナ。
メディナはクレリア家の令嬢。
ミュール公爵家との結婚を直前で拒絶したという醜聞。
ローグに何らかの非があるならともかく、彼の非を無理矢理にあげるのであれば盛られた媚薬に気付かなかった事だろうか。
だが、それを非とするのはあまりにも酷な話だ。
わかった上で飲んだならともかく、本当に知らないまま薬を盛られて婚約者の妹という事もあって警戒などする必要性も感じていなかった。具合が悪そうなので客室に案内して休んでもらおうと思った、というメディナの言葉もそこまでおかしなものではない。
案内した先がメディナの私室であったならともかく、客室だったのだ。
姉の婚約者を妹が丁重にもてなそうとした、というのであれば部屋に案内する事そのものに関してはおかしな話でもない。
ともあれ、ミュール公爵家に対する非礼は消しようのない事実だ。
一度広まった醜聞を綺麗さっぱりなかった事にはできないだろうし、それら含めての慰謝料を支払うのは言うまでもなくクレリア伯爵家だ。
メディナが傷物になった、という言い分は勿論誰も聞いちゃくれないだろう。
自分から率先して襲ったのだから、傷物も何もという話だ。
婚約者を妹に奪われた、というミレニアの事情も知れ渡ってしまったけれど、ミレニアはそこまでダメージを負っていない。
確かにローグという結婚相手として見るならこれ以上はないと思える素敵な相手との縁がなくなってしまった事は勿体ないなと思うけれど、しかし男はローグだけではないのだ。
とはいえ、あの結婚式でクレリア家の評判など地の底まで落ちたようなものなので、マトモな結婚相手が現れるとは思っていない。
けれども、ミレニアは早々に――それこそローグとメディナの婚約が決まった時点で修道院に行く事も視野に入れていたのだ。
表立って噂になっていなかったけれど、それでも婚約者を奪われた女性なんてそれはもう面白可笑しいネタではないか。
もしローグとメディナが結婚していたとして、もしかしなくてもメディナがそれとなく噂を流す事だって考えられた。そうなる前に破綻したけれど。
「新たな結婚相手に本来の婚約者であるわたくしをローグ様がお望みであれば、わたくしに否やはございません。けれども流石に醜聞が過ぎるので、どうでしょうねぇ……
妹に婚約者を奪われてしまった哀れで可哀そうなわたくしは、傷心のため修道院で今後慎ましく過ごしていこうと思うのです」
「見捨てるのか!?」
「見捨てるも何も。それこそ昔から言ってきたではありませんか。メディナを甘やかしてはいけませんよと」
今まで散々妹に対して口を出してきたけれど、それをなぁなぁにさせてきたのは父と兄だ。
今までの事を思えばミレニアは姉として充分頑張ったと言える。
「公爵家への慰謝料を支払うにしても、家が傾くのは言うまでもないでしょうし……あ、慰謝料の足しにわたくしを娼館へお売りになったりなさるのかしら?
そうなればますますお二人の立場は低くなるかと思われますが」
妹のやらかしを今まで窘めてきた姉を売り飛ばすとなれば、間違いなく二人は鬼畜外道と罵られるだろう。
「ついでに申し上げますとわたくし、少し前に友人たちとのお茶会で、それとなくお話をしてありますの。
ローグ様の本来の婚約者だった事、けれども妹に奪われた事。それでも、妹の幸せを祈って結婚式では笑顔で見送った事。
実際、あの場でわたくしの事を見ていた方はいらっしゃいます。
笑顔で祝福していたわたくしの事は少なくとも数名の記憶に残っていると思います。
だからこそ、今後わたくしの立場はそこまで悪い方には転がらないと思うのです」
妹のためにあえて身を引いて祝福した姉。
けれどもそれを結局台無しにした妹。
既に周囲はそういう風に受け止めている。
ミレニアは、いつかそのうちメディナが家の中だけではなく外でもやらかすかもしれない、と思ってはいた。だからこそ口煩く今まで言ってきたというのもある。
言い聞かせた甲斐あって外でやらかさなければそれで良し。しかし、父や兄がなぁなぁにし続けてきたのもあって妹が外でやらかさないと断言できる程の安心感はどこにもなかった。
だからこそ、いつかそうなった時の事を考えてミレニアは自分の立ち位置に気をつけていた。
やらかした元凶であるメディナは、もうどこに出しても恥ずかしい娘だ。
それ故に戒律の厳しい修道院へとっくに送られている。
ミレニアも修道院に行くのであれば、妹とは別の修道院へ行くつもりだ。
そうなれば二度と会う事はないだろう。
そうして残るものに目を向ければ。
妹を甘やかして大惨事を引き起こした父と、自分には関係ないとスルーしてきた兄。
公爵家への迷惑料はそれこそとんでもない金額になるだろう。
サンソンに当主の座を譲った後はのんびり引退生活を送ろうとしていた父は、そんなのんびりした老後とは無縁になるし、醜聞広まりきった後だ、サンソンの妻になろうという女性もまずいないと思っていい。
事実上のクレリア家の終焉と言っても過言ではない。
けれども、ミレニアはもうどうでも良かった。
そんな中でもミレニアだけは、まだこの家の中でマシな評価だろうから。
妹のかわりに改めてローグの嫁として公爵家へ行ったとして、最初のうちは周囲の目も厳しいかもしれない。けれども、メディナ本人に向けられるものに比べればマシだろう。
妹の幸せのために身を引いて笑顔で祝福しようとした、という事もある。公爵家からすればローグは完全なる被害者だろうけれど、ミレニアもまた被害者だと言えなくもない。
そうやって被害者同士である、と周囲に思わせればあとは印象操作などそう難しい事でもない。
傷の舐めあいと言われようとも、元々は婚約者だったのだ。心を通わせられないはずもない。勿論、妹が割り込む以前とは思いのカテゴリが異なるかもしれなくとも。
そうでなくとも修道院へ行くとしても、自分だけは悲劇の令嬢として見られなくもないのだ。
露骨に自分可哀そうおよよよよ……! と周囲にアピールするつもりはこれっぽっちもないけれど、修道院で慎ましやかな生活をしていればそれなりに悲劇のご令嬢扱いはされるだろう。自分にそんなつもりがこれっぽっちもなかったとしても。
もし、慰謝料の足しにとミレニアを父や兄が娼館へ売り払ったならば。
いっそそこで自分はその悲劇性をネタにのし上がってやるくらいに思っている。
話題性があるうちは客もそれなりにやってくるだろう。
身持ちの悪い金だけは持っている男のところへ嫁として売られる可能性も考えてみる。
まぁ、命があればどうにでもなる。
男の人間性次第でこちらも取るべき態度が異なるけれど、それでもどうにだってしてみせよう、という思いがあった。
結局のところ。
ミレニアは今後どう転ぼうとも生きてさえいればそれなりにどうにでもできると確信していた。
母親譲りの美貌と、身内のせいで不幸になってしまった悲劇の令嬢。
そんな薄幸の美少女然とした女を華麗に救い上げてみせようというヒーロー願望持ちの男だって世の中にはそこそこいる。
見た目はいくら儚くとも、内面はとんでもなく太々しいのがミレニアという女であった。
そうじゃなければあの妹を今までマトモに相手にできるはずもない。
今後どうにもならないのは、父と兄だ。
流石にミレニアが頑張ってもこの二人を華麗に救うのは無理があった。
今までそうならないようにそれとなく苦言を呈したりもしたのだが、きっとこんなことになるだなんて思いもしていなかったのだろう。だからこそ、ミレニアの言葉を軽く受け止めていた。だが仮にこういった未来を想像して事細かく伝えてあったとしても、考えなしのこの二人はきっと間違いなく「大袈裟」だとか「考えすぎ」なんて言って今までと同じようになぁなぁにしただろうとも思っている。
結果として二進も三進もいかなくなっているのだから……
「もう一度、わたくしから言えることはとなると……
お二人とも、お馬鹿さん」
これからどうしようと頭を抱える二人に向けて、ミレニアは肖像画に描かれているオデッサそっくりの笑みでもってそう言ったのである。