目には青葉 山ほととぎす
『初鰹』
白地の紙に、赤いインクで印字されたチラシ。
大特価の文字と共に描かれた魚のイラスト。
その裏側には、今日の日付とレストランの名前。
その文字を確認し、ジャケットの右側のポケットへ入れた。
孝吉は今、市街地のレストラン入り口に立っている。
腕時計を見て、顔をあげると、入り口のガラスに映る自分の顔が見えた。顔の下半分が日に焼け、伸びた眉毛の上には、だいぶ薄くなった髪。歳相応の皺と頬のあたりにはシミ。
白を基調とした建物の前で、着慣れない肩の浮いたジャケットに、やけにぴかぴかの革靴を履いた孝吉の姿は浮いている。孝吉の横を通り、若い女性の二人連れがレストランの中へ入っていく。
「んんっ」
孝吉は咳払いをして、右手で頭を撫で付けて、後ろを振り返ると、近くの駐車場から歩いてくる娘の姿を見つけた。
「お父さん、早かったのね。」
「道に迷うと困るからな。」
そのまま、二人はレストランの中へ入り、予約をしていた奥の個室へ向かった。
その個室からは、隣の公園の緑がよく見えた。若葉色の光が白い壁によく映えている。
そこで孝吉は、娘と共に人と会った。
帰り際に、娘の楓が孝吉の車まで駆け寄ってくると、菓子折りの入った紙袋と、藤の花が描かれた封筒を差し出した。
「これ、お母さんにお供えして。あと、手紙。後で読んで。」
楓は、少し赤い目で、無理矢理に笑顔を作り、孝吉に言った。その目尻には、いつの間にか亡くなった妻の撫子に似た形で笑い皺が出来ていた。
「わかった。」
「お父さん、明日から田植えでしょ。体、気をつけてね。」
「わかった。お前も、気をつけてな。もう四十なんだから。」
「もう、またそんな…」
言いかけた楓が言葉に詰まり、一度大きく息を吸うと、
「うん、分かった。」
少しだけ声を震わせながら答えた。
その目からは一筋の涙が落ちた。
孝吉は、それを見なかったふりをして、車のエンジンをかけて、「じゃあな」と、片手をあげた。
車を一時間ほど運転して、孝吉は自宅に帰ると、すぐにジャケットを脱ぎ、作業着に着替えて長靴を履くと、軽トラックで田んぼへと向かった。
五月の連休が始まり、例年なら今日から田植えを始めているはずだった。
しかし、娘の楓が四十を過ぎて、急に結婚が決まった。お互いに初婚同士だが、式は挙げないと決めたらしい。
田んぼに着き、農作業用の帽子を被ると、孝吉は水の入り具合を確認する。
隣の田んぼでは、田植えが終わったらしい。陽光を反射する水面には、頼りなく萌黄色の苗が揺らめいている。この田んぼからの光で、孝吉の帽子で隠れない顔の半分は焼けてしまう。何十年も積み重ねた結果だ。
ひとつ、ため息をついて隣の田んぼとは反対側の土手の上を眺める。
無秩序に伸びた木々の上に、藤の花がいくつもいくつも揺れていた。
西の空に浮かぶ雲に朱色がうつるようになった頃、孝吉は家へ帰った。
湯船にお湯を満たし、体を沈めてから、天井を見上げた。いつの間にか、古びていた。
浴槽の中に浮かぶ自分の体も、だいぶカサが減っている。昔は、子どもの楓とふたりで窮屈だったのに。
風呂を上がり、脱いだままだったジャケットをハンガーに掛ける。
ポケットの中身を取り出すと、白地に赤い文字。
初鰹
孝吉は、まだ濡れた髪のまま、木綿のシャツとズボンに着替え、軽トラックで出掛けた。
手には財布。
十五分ほどかけて、古びたペンキの看板に鮮魚店と書かれた店に入る。
チラシの切れ端を見せ、一人分の刺身を頼む。他の客も多いのか、すぐに品物が出てきた。ビニル袋に入った氷と共に、刺身を持ち帰る。
帰り道の助手席で、氷が溶けて僅かに音を立てた。
月は無く、星がよく見える頃になって、テレビの前で孝吉は晩酌を始めた。
飯台の上には、薄はりのガラスのコップと、一升瓶、そして鰹の刺身。
孝吉は、コップに酒を注ぐと、半分ほどをひと息に呑んだ。
米の味がする。少し経って広がる芳醇な香。そして、するりと喉を落ちる感触。
ふう、と息を出す。
薄はりのコップは、父の日にと数年前に楓が妻の撫子の分と一緒にプレゼントしてくれたものだ。綺麗だけど、割ってしまいそうで怖くて使えないわねと、撫子が言っていた。結局、撫子は使わないままに逝ってしまった。
箱に入っていたコップをわざわざ出して使うのは、孝吉には不似合いな事だった。
それでも、思い出してしまったら、使う他ない。
口の中に酒の香りが残っている。
手元の小皿には、擦り下ろしたニンニク。
そこに醤油をたっぷりと垂らし、よくかき混ぜた。
鰹を一切れ、小皿に沈める。
楓は翌日の口の匂いを気にしていつも生姜だった。
ニンニク醤油を絡ませた鰹をゆっくりと口に頬張る。
酒で熱くなっていた口の中に、ニンニクの香りが広がる。舌をあてると、鰹がじんわりと熱を冷ましてくれる。
咀嚼をして、鰹の冷たさと味がニンニクの香りと醤油の塩っけに混じったころ、飲み込み、ゆっくりとコップに手を伸ばす。口の中の鰹が消えたところに、酒を含む。
鰹の生臭さと、ニンニクの香りが酒で流されていく。
喉には酒の熱さ。
空になったコップに、酒を注ぎ、一升瓶の奥に置いていた藤の花が描かれた封筒を手に取った。
嫁に行った楓からの手紙だった。
感謝の言葉と、これからもよろしくと、そういった事が書いてあってた。
孝吉は、老眼の入った目を何度も瞬かせて、しばらく手紙を凝視していた。目元を手紙を持っていない方の手で拭う。
拭っては、手紙を見つめ、また目元を拭う。
終いには、片手で鼻の上から額まで覆うと、動かなくなった。その孝吉の日に焼けた顔の下半分では、唇がへの字型になって震えていた。
日が昇るにはまだ時間がある頃、孝吉は布団から起き上がり、便所に向かった。
遠くから蛙の鳴きわめく声が響く。
便所から部屋に向かう途中、盛りのついた猫が外で喚き、何か落ちる音がした。サンダルを履き、外へ出ると東の空に半分の朧月。
薄雲のかかった月はぼんやりと大きく、その上にわずかな晴れ間。
二本の飛行機雲を挟む三つの星。
孝吉は、亡くなった妻の撫子に似た形の笑い皺をした楓を思い返した。
楓の一筋の涙を見た時に、孝吉は別の言葉を言うべきだったなと思った。
「おめでとう」
少し考えて、
「ありがとう」
と、月に話しかけるように呟いた。