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婚約破棄された王太子妃候補シリーズ

第一王子の挫折と栄光 ~彼女を手に入れるまで~

作者: 永野水貴

※これ単品で読めますが、「婚約破棄された王太子妃候補は第一王子に気に入られたようです。」とあわせてお読みいただくといっそう楽しめると思います。

 ――なぜ、という思いは幼少期からあった。


 ジルベルトはこの国の王の第一子、しかも男児だった。

 生母譲りの、深みのある美しい赤毛。英明さをうかがわせる切れ長の目。高貴な者によく見られる整った鼻梁。体格にも恵まれていた。

 生まれのみならず容姿にも優れ、この世界に生まれて数年の間、彼は次代の王として育てられた。


 しかし弟、ジョナタが誕生したときにそれはにわかに変わった。

 唯一無二たる王としての心構えを説かれていたそれが、王族として気高くあるように、という微妙なものになった。

 それは、鋭敏な少年であったジルベルトに時勢の変化を教えるには十分だった。


(――私は、王の子ではないのか?)


 幼いジルベルトはそんなふうに自らの血筋を疑った。だが、そうではなかった。

 王の第一子という特別な立場であるはずなのに、次代の王と扱われなくなったのは。

 あれほど、次代の王となるべくふさわしくあれ、未来の王はあなただと言っていた者たちはなぜ――。


 しかし、やがて変化は露骨なものとなり、ジルベルトの未来は完全に変形させられた。


 王太子は弟のジョナタに決定し、その兄であり第一王子である自分は()()()王子にすぎなくなったのである。

 ジョナタの以後、何人か生まれた弟たちと同じ身分だった。


 原因は生母の地位にあった。

 ジルベルトの生母は王の側室で、ジョナタの生母は王妃だった。

 ただ、それだけのことだった。


(――なぜ)


 本人の能力でもなく功績でもなく、ただ生まれという不可抗力の原因によって優劣を決められてしまう。

 なぜ、とジルベルトの内に強い反発と不満が生まれた瞬間だった。




 ジルベルトの生母は、その情熱的な赤毛に反して控えめで善良な女性だった。

 己の身を弁え、(おご)らず出しゃばらず、ジルベルトに会えば、王太子殿下をよくお助けするように、と言い聞かせた。


 ジルベルトは何度かはその言葉に反発し、ときに陰鬱に沈黙したりした。

 ただ子供じみた反発があっただけではない。弟であり王太子であるジョナタは、自分より優れているとは思わなかったからだ。


 ジョナタは決して愚鈍ではない。むしろ自分より明るく、人に好かれるような愛想の良さがある。そういった意味では、人の上に立つ資質はあるだろう。

 ただの弟としてならば、ジルベルトも決してジョナタが嫌いではない。

 だが、それだけなのだった。


 歴史、地学、戦略、戦術、政治学、音楽、乗馬、狩猟――どれ一つとっても、ジョナタはジルベルトを上回っていない。

 すべてに優れた王であれという教育係の言葉を信ずるなら、次代の王にふさわしいのは自分であるはずだった。


 ジルベルトは努力した。結果も出した。

 けれど生母の地位が邪魔をする。ジルベルトの体の半分を流れる血が邪魔をする。


(どうして、私ではいけない?)


 何度そう叫んでも、答えてくれるものはない。

 否。血筋――そういったものですべて封殺されてしまう。

 どうにもならない。


 最終的にただの第一王子、王太子の兄というそれだけのものに押し込められてしまった。

 ジルベルトがそれに鬱屈を爆発させることなく――させることはできなかったのは、母の存在ゆえでもあった。


 母のせいで、と(なじ)ることはたやすい。

 しかし詰るには、母は善良で誠実でありすぎた。母はただ、自らの境遇に満足し、ひたむきに生きているだけだ。

 いまの自分に与えられたもので満足し、たまに息子が顔を見せることを唯一の楽しみにしている人に、どのように不満をぶつけろというのか。


 どのように自分を高めても、結局は第一王子止まり――そのことはときにジルベルトを無気力にさせ、絶望させもした。

 事実、一時ジルベルトは荒れたことがあった。優秀だっただけに、教師たちがことごとく呆れかえるほどの悪童となった。


 だがこのときもやはり、母のためにジルベルトは生活を改めた。

 温厚な母が悲しげな顔をし、涙ながらに諭してくると、もう何も言えなくなってしまう。

 ジルベルトがいかに優秀であるかを聞くのが、高望みしない母の唯一の楽しみであるらしかった。

 ――とはいえ、ジルベルトは改心したのではなく、自分の内に秘めておくことを覚えたのだった。


(……何のために、)


 その強い疑問に答えを出せないまま、ジルベルトはなかば惰性で、教育を受け続けた。




「ジル、また背が大きくなりましたね」

「……そうでしょうか」

「そうです」


 国王主催の昼餐後、招かれた王侯貴族は王宮の広大な庭園を思い思いに散策していた。

 ジルベルトも招かれた一人で、昼餐のときには母の対面に座った。


 よく晴れた秋の日だった。ジルベルトは母とその侍女に伴われながら、だがいまこのときも鬱屈したものを抱えていた。


 本当は今日この場所にも来たくはなかった。

 国王の子息や妃が集まれば、いやでも思い知らされる。王子王女の中でも、ジョナタ一人が特別であることを。


 ジョナタはひとり、春をふりまくような明るさを放っていた。

 見る者を和ませるような明るさだった。

 しかしその明るさはジルベルトの中の澱んだものをかき乱す。そして、奥底に沈めていたものが攪拌(かくはん)され水面にあがってくるように、暗い考えが浮上する。


 ――この弟から王位を奪ってやったらどうだろう。


 明るく屈託の無いジョナタは、自分から何かが奪われるということを考えもしないだろう。並ぶ者がないのだ。

 兄上、と明るく呼ぶその弟から、王位を奪うことはできるだろうか。


(……おそらく、できる)


 ジルベルトの心の中で、冷たくそうつぶやく声があった。能力でいえば自分が上だ。

 むろん、叛逆ということになるから一人でいくら優れていても意味はない。


 だがジョナタは、策を巡らせるということには不向きな性格をしている。よくいえば裏表がなく、悪く言えば単純なのだ。

 人の心の裏を読めない。


 ジルベルトは物心ついたときから、人の言葉と本心は必ずしも一致しないことを悟っていた。人の心は想像以上の複雑さを持ち、人も環境も、たえず変わるのだ。

 ――自分が、次代の王からただの王子になったときのように。


(……馬鹿馬鹿しい)


 ジルベルトは長く息をついて、暗い考えをひとまず脇に置いた。

 こういった考えは誰にも漏らしたことはないし、実行に移そうとしているわけでもない。ただ、鬱屈したものがはけ口を求めてそう考えさせるだけだ。


「ジル、あなたもそろそろ伴侶を見つけないとね」


 隣を歩いていた母は穏やかにそう言った。

 ジルベルトは間もなく十五になる。婚約者の一人もいないのは、王太子であるジョナタの婚約者が決まってから、という暗黙の了解があったからだ。

 だが――そのジョナタは最近、婚約が決まった。


「……然るべき相手がいれば、それを受け入れます」


 ジルベルトはただそう言った。それ以外に答えようがない。恋愛などといったものは端から興味がないし、王族であれば結婚とは政略上の意味でしかありえない。


 しかし母は嬉しげにうなずき、ふいに何かに気づいたように視線を逸らして目元を和ませた。


「ほら、ご覧なさい。王太子殿下とエヴェリーナ嬢の仲睦まじげなこと」


 その言葉に、ジルベルトは苛立ちでかすかに肩を強ばらせた。だが顔に出す愚は犯さず、不自然にならぬよう、母の見るものにゆっくりと目を向けた。


 そこには、大人の真似をして胸を張りながら少女に腕を差し出すジョナタと、差し出された腕におずおずと手を触れさせる少女の姿があった。


 侯爵令嬢エヴェリーナ。

 比較的新しい侯爵家だが、もっとも経済的に豊かな貴族の令嬢だと聞いた。当代侯爵の熱心な売り込みがあったという噂だが、エヴェリーナ自身、優秀な少女であるという。


 ジルベルトは露骨にならぬようつとめながら、エヴェリーナに注意を向けた。

 決まったばかりの、弟の若い婚約者の欠点――()()()()()()()()()()()と考えられるようなところを探す。


 我ながら辟易する陰湿さだと思ったが、そうでもしなければこの不快感をどうにもできそうになかった。


 だが陰湿な視線をはねつけるかのように、少女は矢車菊を思わせる美しい瞳と、華やかさのなかに深みのある金褐色の髪をしていた。長い髪の上に、陽光が金色の冠を投げかけている。

 あどけなくも整った顔立ち。穢れのない雪を思わせる肌。

 将来は、王太子妃にふさわしい美女になるだろう。


 しかし、ジルベルトに臓腑をぎゅっと絞るような痛みを与えたのは、少女の美しさだけではなかった。


 まだ若く、ジョナタとほぼ同じ年であろうというのに、子供っぽい振る舞いが見えない。

 笑顔を見せてもどこか一歩引いたところがあり、所作もいちいち完璧だった。よく教育されている。

 無邪気とさえいえるジョナタと比べると、あのエヴェリーナという少女には責任感や緊張感が既に芽生えているように見えた。


 気を張り詰めている様はわずかに痛々しくも見えたが、同時にそれに耐えうる強さをも感じた。一本の芯が通っているような、真っ直ぐな強さだ。


 ジョナタが暗闇を知らぬ無邪気な太陽だとすれば、彼女は暗闇を見つめ、なおそれを照らす月になりうるかもしれない。

 粗探しをしようと観察すればするほど、ジルベルトは逆に嫉妬と羨望で苛まれてゆく。


 ――自分もいずれ妃を得なければならないにしても、あのような女がいい。

 否、そうでなくてはならないと思えてくる。

 伴侶を補いうる女性は、どんな財宝にも優る。


 ジョナタはその類い希なる宝を与えられていながら――それに気づいていない。

 ジルベルトは歯噛みした。


(……何をしなくとも、あいつはもっとも優れたものを与えられる)


 ジルベルトが自らの目で見極め、考え、一つ一つ己が手でつかみ取ってゆくものを、ジョナタは何もしなくても与えられるのだ。

 それがどうしようもなく心を苛んだ。




 十五を迎えてから、ジルベルトは女性と関係を持つようになった。

 これまで避けていたわけではないが、肉欲に溺れる危険性を考えて積極的ではなかった。だが青年といわれる年になってゆき、経験豊富な侍女をあてがわれて最初の手ほどきをされたあとは、しばらく様々な相手と一時的な快楽に耽った。


 だがどの女も肉体の喜びを与えてくれるだけで、ジルベルトにとってそれ以上にはならなかった。これに溺れることは、己の将来を見誤らせることだということは理解できた。


 脳裏にはあの――エヴェリーナという少女の影がちらついていた。

 伴侶を選べるというのなら、ああいう女がいい。

 美しく、英明さを感じさせる女。母のように出しゃばらず、かといってただ分相応のために汲々とするだけにおさまらぬ女。


 先日の昼餐で見かけて以来、ジルベルトはエヴェリーナという少女について少し情報を集めた。――見かけや印象はいいが、本当はただそれだけで、実情はさほどでもないのではとねじれた期待をしていた。


 だが聞こえてくるのはどれもエヴェリーナの優秀さ、忍耐を称えるものばかりだった。

 未来の王太子妃として厳しく教育され、それが着実に結果を出しているという。


 ああいう女が自分にも欲しいとますます思い、(ジョナタ)は既に得たのだという焦燥と苛立ちが合わさると、他の女で気を紛らわせなければどうにかなりそうだった。


 手に入らないのなら、エヴェリーナという少女を頭から振り払わなければならない。彼女を上回る、あるいは同等の人材を探した。


 王位を得ることは無理でも、せめて伴侶だけはジョナタの妃に劣るなどということはあってはならない。

 

 自分について来られる女が必要だった。ジョナタよりも優れると言われる自分についてこられる女が。


 そういった思いを抱いたがゆえか、いままでなんとも思っていなかった結婚というものに妙にこだわりを持つようになってしまった。

 もとより第一王子という微妙な立場で、これ以上強力な後ろ盾を得てしまうような政略結婚はあまり望まれていない。

 かといって、王からすれば、露骨に後ろ盾のない家などと結ばせてしまえば、ジルベルトを蔑ろにしていると見られてしまう。

 国王はそのあたりの微妙な機微をわかっていて、また悩みもしているようだった。それだけに、ジルベルトに結婚を急かすことはしなかった。


 そのようにしてひとしきり女性との関係を持ったあと、ジルベルトは飽いた。

 まるでそれを見計らったかのように、王はジルベルトに公務を与えるようになった。

 ジルベルトのほうも他に気を紛らわせるものができたことで、黙々とこなした。

 王の傍らで他国の使者と会うことからはじまり、王の名代として遠地に赴いて視察し、優れた観察眼と思考を活かして、汚職を摘発し、不穏の芽を摘み取ることもした。時に各地の領主に政策の助言を与えることもした。

 その中でジルベルトが悟ったのは、叛逆は割に合わないということだった。少なくともいまの治世下では成功しない。

 もしや、とジルベルトは思う。


(……父上は、それを私に悟らせようとして公務をお与えになったのか)


 暗に、叛逆がいかに無意味なものかを悟らせるために。

 ジルベルトは自嘲する。

 ――もしそうだとしたら、父は大層効果的な教えをくれたのだった。




 ジョナタが十五を迎える前に、ジルベルトは王に願い出て、王都から遠く、国境に近い地を賜った。

 その頃には、叛逆などという考えはすっかり捨てていたが、ジョナタの側にいるのはあまり好ましくないと思っていた。自分が腐ってしまう。


 それに、一人の力で何かをなしてみたかった。

 国の運営は無理でも、その一部分ならばと思った。

 定期的に王に使者と贈り物を贈り、莫大な税をおさめ、とくに自ら出向いて連絡を絶やさぬようにしながら、ジルベルトは王都から遠いところで日々を送った。


 領地を経営する多忙さは存外心地良いもので、いつしか、充実感を得られるようになっていた。なぜというあの心の声ももう聞こえない。

 英邁な領主。優れた第一王子。

 向けられる崇拝の眼差し。情熱的な賛美の声が、自分の中の暗い声をかき消していた。

 己のもてるすべての力を使ってつかみとった名声だった。


(――無駄などではない)


 これまで自分が積み重ねてきたものは、決して無駄などではない。

 玉座はなくとも、人々の声がある。

 そして、何よりも自分自身が誇りを持って生きている。

 そう思えるようになっていた。




 多忙さの中でジルベルトは時折女性と関係を持ったが、側室も正室も迎えなかった。いまだ、自分の傍らに立つにふさわしい女が見当たらない。

 そうしていつの間にか年を重ね、あるときいきなり、懐かしい名前を聞いた。


「……ジョナタが、エヴェリーナとの婚約を破棄した?」


 側近の報告に、執務机にいたジルベルトは目を瞠った。

 ――侯爵令嬢エヴェリーナ。

 久しく忘れていたその名が突然、記憶の底が浮かび上がってきた。


 王太子に与えられた最適な人材。ジョナタを補うであろう、優れた妃候補。かつて羨望と嫉妬で遠くから見つめた少女だった。


 そのエヴェリーナとの婚約を、ジョナタが解消したという。


 国王がジョナタを溺愛していることは元からわかっていたが、まさかこんな要求まで通すとは思わなかった。

 それも、ジョナタが婚約破棄を求めた理由が理由だ。


(真実の愛だと……? 気でも狂ったか)


 側近の報告内容を、ジルベルトはにわかには信じられなかった。巷間の噂をそのまま拾ってきたのかと思うほどだったが、どうやらそれが真実であるらしい。


「相手はマルタという女で、後見を持たぬ平民であるそうです。王太子殿下がひとりお忍びで城下町に赴かれた際、知り合ったとか。マルタという女の背後で何者かが糸を操っているというような情報はいまのところありません。引き続き調査する予定ですが、現在では真に、ただの酒場の娘だとか……」


 男は淡々と続ける。蔑む響きはなく、私情を挟まず、ありのままに情報を集め、伝えるという任務に徹している。

 ジルベルトは知らず、常にも増した渋面をつくっていた。


「その女は、よほどの才気を持っているのか? あるいは国を傾けかねないほどの美女か?」

「……いいえ、特に美貌をうたわれることも、教養もないようで……」


 率直に評すると王太子への間接的な侮辱になりかねないと思ってか、男が口を濁す。

 ジルベルトにはそれだけで十分だった。


 ジルベルトは知らず眉をひそめ、かすかに頭痛を覚えてこめかみに手を触れた。


(……馬鹿め)


 内心で吐き捨てた。純朴も過ぎればただの愚者だ。

 王太子の妃ともなれば、ただの妻ではありえない。

 将来増えるであろう側室たちを前にしても嫉妬に狂うことなく醜態をさらすことも許されず、女達をとりまとめなければならない。あるいは側室を迎えないことで統率の責任を免れるとしても、未来の国母であり、王が不在のときには代理として権力を持ち、人臣をまとめねばならぬ立場なのだ。ただの女で務まるものではない。


 ましてやジョナタのあの性格が幼少からそのままなら、脇の甘さや隙はありあまるほどだ。有能な側近が必要なのはもちろん、妃の補佐も求められる。


 ()()()()などといって、何の力も教養もない女を王妃に据えればどんな災いを招くか。

 ――なんのために、婚約者エヴェリーナが王太子妃として厳しく教育されていたと思っているのか。


 秋の陽射しの下、なんの苦労もなくジョナタに与えられた、あの矢車菊の瞳をした少女の姿が鮮やかに蘇ってきた。


 ジルベルトは立ち上がっていた。


「――王都へ行くぞ」


 側近の男がかすかに驚きを露わにする。

 これまで国境の安定につとめた労をねぎらうといって、国王からしばしば都に招かれていたが、ジルベルトはできるかぎり辞していた。


 だがいま、ジルベルトには一刻も早く王都へ行かねばならない理由ができた。


(エヴェリーナ――)


 あの少女は、どのように成長しているだろう。

 優秀な、といわれた彼女のまま成長したのだろうか。

 かつて欲しいと思い、だがかなわなかった彼女のままでいるだろうか。

 ――もしそうであるなら。




「さあ、みなのもの。このジルベルトを大いに祝ってもらいたい」


 国王の言葉に続き、周囲から明るい賞賛の声と拍手とがあがった。

 ジルベルトは最低限の微笑をつくりながら、だが心の底では冷ややかに見ていた。


 集まったのは高位の貴人と国王夫妻、そして王太子とその新しい婚約者だ。

 自分の目で見たマルタは、側近から受けた報告以上でも以下でもない女だった。――つまり、まったくの市井の女だった。


 生きる活力のようなものは漲っていて、ジョナタがそこに惹かれたであろうことは理解できた。だが、それだけだった。

 地に生きる女である以上、宮廷という別世界で生きられるとは思えない。

 とても王太子妃にふさわしい女ではなかった。


 救いようがないのは、ジョナタもマルタも恋愛という強い目くらましによってそれが見えていないということだ。

 この婚約を許した父の気も知れなかった。この場にいる何人が、王太子の新たな婚約を真に祝福しているだろう。


 そう思えば、華やかさに満ちたこの場もひどく滑稽なものに思えた。

 胸中で冷ややかに場を眺めながら、ジルベルトは視線を動かす。この王都にまで赴いた目的の相手を探す。

 ――そして、見つけた。


 目が合った。

 あの日に見た、青い目はそのまま驚いたように見開かれていた。


 視線が絡み合う。互いの存在に驚き、打たれたような硬直。

 先に目を背けたのはエヴェリーナの方だった。


 ジルベルトは、自分の唇が歓喜につりあがりそうになるのを抑えた。

 全身がざわついている。


 不自然に思われぬよう、一度ジョナタと言葉を交わした。ジョナタの傍らのマルタは緊張しているようだったが、ジルベルトからすればうるさく感じられるほどによく喋った。


 最低限の会話を済ませたあと、歩き出す。

 エヴェリーナのほうへ。

 数名に囲まれている。王太子の新たな婚約者に対する配慮や微妙な関係のためか、取り巻きは少ない。


 エヴェリーナは品良く曖昧な微笑を浮かべて応じていたが、そこにある陰はジルベルトにははっきりとわかった。


 嫉妬や怒りに狂った女の顔ではない。

 自分を律し、高めていた者が突如として目標を奪われたときの、あの無気力さが覆っている。

 その底には、理不尽に奪われたものの静かな怒りが横たわっている。


 ――かつての自分と同じ。あの胸の中にはきっと、“なぜ”という声が何度も響いているのだ。


 ジルベルトには、それが深く理解できた。


(変わっていない)


 はじめて目にしたときの印象から、エヴェリーナは変わっていない。否、むしろもっと磨かれているとさえ思った。

 だが、ジルベルトは実際に確かめる労を惜しまなかった。


「あなたがエヴェリーナ嬢か」


 直接、そう声をかけた。

 取り巻きとエヴェリーナ自身とが驚いたように顔を向ける。取り巻きは、ジルベルトに威圧されたかのように静かに散っていった。


 ジルベルトの前に、エヴェリーナ一人が放り出される。


(……美しい)


 間近にエヴェリーナを見て、ジルベルトは素直に驚嘆した。

 美しい蕾は、見事な大輪の花となって咲き誇っているようだった。


 柔らかく肉付きのよい体は色香に満ちているが、卑しい手が触れるのを拒むかのように白い肌が輝き、落ち着いた態度と品の良い美貌が気品で全身をくるんでいる。


 翳りのある碧眼も、奥行きの深さを感じさせるようでジルベルトをひどく惹き付ける。

 だが美しさだけで流されるほどジルベルトは無垢ではなかった。


 ――第一王子。

 自分が話しかけたその意味をエヴェリーナがどう捉えるか。どう反応するかを冷徹に観察する。


 ジルベルトに叛逆の心はない。しかし立場からすれば微妙なものであることは、少し頭の回るものならわかるはずだった。


 エヴェリーナは、戸惑いや媚態を見せるかわりに、はじめて貴人と相対したときにすべき完璧な対応――優雅で落ち着いた一礼――を見せた。


「お目にかかれて光栄です、ジルベルト殿下」

「こちらこそ、エヴェリーナ嬢。これは美しい。王太子妃候補()()()()のも納得できるな」


 内心でもらした感嘆の息とは別に、ジルベルトはわざとエヴェリーナを試すような言葉を放った。

 王太子妃候補であった――その露骨な物言いに、近くにいた者たちのほうが動揺する。


 だが、エヴェリーナはまたも正しい対応をした。

 柔らかく、受け流すように曖昧な微笑を浮かべたのだ。相手に感情を悟らせず、見る者の心証によって如何様にも受け取れる表情を。


 悲しみや怒りを押し隠すことのできる女の顔だった。平民の女に追い落とされるという類を見ない屈辱を受けたにもかかわらず、冷静さを失っていない。

 否、内面がどうあれ、耐えることができている。


 ジルベルトの体に大きなさざなみがはしった。うめきがこぼれそうになった。

 ――完璧。

 彼女は、確かに完璧な女だった。

 肌が粟立つ。


 しかしエヴェリーナが完璧だと思う反面――不思議なほど、この仮面をはぎ取ってみたいとも思わせる。

 この仮面の下にあるものを見られるのは、彼女の内奥に触れられる者だけだ。


(欲しい)


 この女が、欲しい。

 かつての自分の直感は完全に正しく、自分にふさわしい女を求めて結婚しなかったことも、いまこの瞬間のためであったような気がした。


 ジョナタは、とてつもない宝を自ら放り出した。

 もはや何にも遠慮する必要もはばかることもない。


 久しく感じなかった飢え、あるいは闘争心にも似た衝動が全身を駆け巡る。


(――必ず、この女を手に入れる)


 ジルベルトが求め続けたものはいま、手を伸ばせばすぐ得られるところにあった。


 典雅な楽曲が流れ始める。

 ジルベルトは、己の伴侶にすべき女に向かって手を差し出した。


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