15-2 仮想世界シュミレーション~彼女の場合~
朝。
いつものようにコウは独りで登校して、誰にも声をかけずに席につく。
現在時刻、八時二〇分。
ホームルームが始まるにはまだ若干の時間があった。
授業の予習をする、という選択肢はコウにはなかった。ポケットからスマホを手に取り、メガネをくいと直してからニュースサイトをチェックしていく。
『日銀、大幅為替操作か』
『米中会談実現 親密関係の両国の狭間で』
『経済政策功を奏す? 求人倍率上昇』
世界のすべてを見渡すかのように、情報の海をもぐって見聞を広めることがコウは好きだった。教室の隅からクラス全体を観察していればそこに人間の真相が見えるのと同じように、ニュースを介して世界を観察すれば、やはりそこにも人間の本性が現れてくる。
(動物)
コウはいつも、人間の本性とはそれだと思ってしまう。
人と犬は違うとうそぶいてみても、交尾をしたいといって男女が引きあうのも同じだし、隣人よりも優れた地位を勝ち取りたいと願うところも同じだ。
サバンナは野蛮な場所だと言われるが、人間社会とサバンナにどれほどの違いがあるのだろう、とコウは思っている。
とはいえ、そんなことを話して共感してくれたクラスメイトは委員長の大和リンくらいのもので、だからコウは基本的にクラスメイトと話が合わないのだった。別に世界情勢に詳しいというわけではなく、哲学の勉強をしているわけでもないので真面目で優秀な生徒と話すと逆について行けなくなってしまうのも問題だった。
『え、付き合うことにしたの? へえ』
『まあ一応ね。はあ、うまくやれるかどうか、ちょっと心配だわ』
『とか言っていますっごく幸せなんでしょ。アツアツなんでしょ!』
『そんなことない……いや、ごめん。あるかも』
『ふざけんなよー、リア充め!』
ニュースサイトをみながら、クラスメイトたちがどんなことをしゃべくっているのか聞き耳を立てている。
視線はスマホ画面に据えたままだから、誰もコウに話をきかれているとは思ってもいないだろう。
『九籠くん、おはよ』
『あ、おは、よう』
だからコウはいつも、委員長がお節介にもクラスでひとりぼっちになってしまっている男子、九籠英治くんに話しかけるのも聞いてしまう。
その時だけ、コウはつい気になってスマホ画面から顔をあげ、二人の様子を見てしまう。
(クソ女……私だって)
リンは可愛らしい女子だと、コウはそう確信している。生真面目でうるさいところはあるが、男子からも女子からも評判が高い人間はそうそういない。リンはその“そうそういない人間”のひとりであり、従ってクラスの偉人のひとりということだ。
それが何故、ひとりぼっちの九籠くんに話しかけるのだろう? コウはそれが気になって仕方がなかった。
(!)
不意に、ちらとこちらの様子をうかがったリンと目が合った。リンはすぐに「むっ」と睨んできたが、しかしコウがにらみ返した瞬間、「ぷっ」と笑ってしまう。
(?)
つくづくよくわからない女だと思う。クラスの中心にいるなら、それ相応のイケメン男子と付き合えばいいのに……そうは思っても、しかしコウは彼女を認めてもいる。九籠くんの魅力に気がつく人間ということは、少なくとも悪人ではないと思うから。
『じゃあ、またね。九籠くん』
『うん。ありがとう』
満足したのかリンはやがて九籠くんから離れて、もともと彼女が所属しているクラス最大の最上位女子グループへと戻っていく。
(はぁっ。私には、できそうにないな)
九籠くんの横顔は間違いなく笑顔になっていた。話しかけられる前は全体的にどんよりしていて、それでいて不良たちの様子をうかがってキョロキョロしている可哀想な感じだった。
そんな彼に、いつもリンが笑顔を与えてくれる。クラス中を照らす大輪の花だからこそ
そしてクラスの隅でひっそりと息を殺して生きている雑草といっていい自分には、できそうもないことだった。
それでもコウは思っている。いつか、リンのように自分も九籠くんに話しかけることができたら、どれほど幸せだろう、と。
コウはいつも、ふとしたとき九籠くんを見つめてしまう。
彼には感謝しかなかった。
『またスマホ見てる。本かスマホか、ほんっとぼっちだよね』
気づけばまた、自分のことを言っているのだろう冷たい言葉が流れてくる。
目を向けなくてもわかる、さっきリンが戻ったクラス最大の女子グループの方からだ。
ためしにちらと覗いてみれば、リンは気まずそうな顔をしているものの、その他一〇人もの女子全員がためらいもなくこちらを指さして笑っていた。
声音こそコソコソ話の体で絞っているが、耳をすませているコウには余裕で聞き取れる。
『でもなんか不良には人気みたいじゃん。ほんっと目の上のたんこぶ。タケトくん、あたしになびけばいいのに』
『はは。アンタにゃ無理。せめてわたしでしょ』
『なにお!』
『まあまあ二人とも。タケトくんはそんなにいい男じゃないし』
『リン、あんたのそういう好み、あたしわからないわ。九籠くんなんかより絶対、タケトくんの方がかっこいいでしょ。っていうか九籠くんとか趣味悪いは。全然ダメそうじゃん』
『そう? ははは』
(うるさいメスどもめ……クソ)
内心で毒づきながら、コウはしかし目線はスマホに固定するように努める。そうしないと、女子グループに憎悪の視線を向けてしまいそうだからだ。
コウの悪口を言う奴は、だいたい流れで九籠くんのことも汚く罵る。それがコウには許せなかった。
とはいえそれを直接言ってしまうとまた面倒なことになるので、コウは彼女たちと一切話さない、という行動で自分の気持ちを伝えているつもりである。
(九籠くん、いい人なのに)
コウはいつも毎日、彼に感謝していた。というのも、彼がいなければ間違いなく自分がいじめられていただろうと思うからだ。
九籠くんはどういうわけか、不良たちに絡まれている。四月の中旬ころからはじまったその関係性は、そのままクラスのなかで固定されてしまった。
不良たちが彼を笑えば、つられてクラス中の人間たちが彼を笑う。放課後、彼が殴られていることはクラスの誰もが知っていることだが、教師も含めて見て見ぬふりだ。
しかし彼がひとりでその役割を受けいれてくれているからこそ、他のクラスの隅でひっそりと生きたい生徒たち全員が傷つかずに済んでいるのもまた、一面の事実ではある。
仮に彼がいなければ、きっとクラス中の嘲笑の標的になるのは自分に違いないとコウは確信していた。朝に聞こえてくる女子グループからの悪口の延長で、授業中に彼女たちがコウを大声でいじってくる場面は容易に想像できる。
そして人数が多く可愛い子の多い女子グループの嘲笑は、とりもなおさずクラス全体からの嘲笑となってコウひとりに襲いかかってくるだろう。
(ごめんね、九籠くん)
卑怯者のひとりである自分を笑いつつ、コウはいつも彼に感謝する。
そしてコウは、同時に世界のどこにでもいる彼のような人間に感謝する。
たとえば駅を寝床にするしかないホームレス。
たとえば万年係長と言われて部下からも嘲笑されるサラリーマン。
運動会でいつもビリになって怒りと嘲笑を背負う小学生。
大学受験で失敗して予備校に通い続ける浪人生。
就職活動で失敗して高学歴ニートと言われることになった若者。
婚活に取り残されて余り物と指をさされた男女。
夢破れても諦められずにフリーターに墜ちた貧乏人。
彼らは等しく、世界から嘲笑される……努力をしないから、才能がないから、馬鹿だから、劣っているから、障害をもっているから、そういう前世を過ごしたから……事実か、事実でないかも定かではない言葉の針のなかをくぐって生きる彼らは、世界中の人間から“ああなりたくない”と思われている。
でも、彼らは“ああなりたくない”と忌避されているその役割を、背負っている。
彼らが背負ってくれているからこそ、普通の人間たちは普通に生きられる。
そう思っているから、コウはいつも九籠くんに感謝する。
(いつか、こんな世界のぜんぶがひっくり返って……あなたたちが輝けるようになったら、どんなにいいんだろう)
コウはニュースサイトを見ながら、そして九籠くんを見ながらいつもそんなことを思っている。
読む記事がなくなると、スマホを片付けて読書に移る。ジャンルはSFが多くて、次点は日常系ライトノベル、三番目に純文学というおおざっぱなジャンルがつづく。ちなみに恋愛ものは死んでも読まないと決めているが、日常系ライトノベルに時折ねじこまれている恋愛シーンは好きだった。
誰とも話さず、たまに九籠くんを見つめて。そしてニュースと本を読みあさって情報を収集していく。それがコウの日常だった。
本を取ろうとして鞄に手を伸ばした時だった。
コウは窓ガラスの向こう、青空のなかを一羽の赤黒い鳳が悠然と飛んでいるのを見る。
(あれは……不死、鳥?)
いつからこの世界はファンタジーになったのだろう? ひとり首をかしげたコウだったが。
『試したくなったのではなかったのか? それとも、それは一時の世迷い言か? 我の器となる資格を得た少女よ。せいぜい答えを出してみるといい』
テレパシーか、頭にそんな声が直接響いてきて。
コウはしばらく驚きで頭が真っ白になったが、しかし同時に忘れ去っていたはずの記憶が脳裏の奥底からわき上がってきてもいる。
ここからは遠い、この星の地の底で。
彼に抱きしめられた、あたたかな記憶。
(ゼロ……ありがとう)
コウはそれでも、鞄から本を取り出した。
『おい、英治! ちょっとジュース買ってこいよ』
『え?』
『早く行ってこいよ』
『わかったよ』
そんな声が教室に響いてしまう。
いますぐ立ち上がって、そして不良たちを叱りつけてやりたかった。でも、やっぱりそんなことはできなくて。
(ごめんね、九籠くん)
結局なにもしてあげられないまま、彼は不良たちの命令に従って教室から慌てて出て行った。
(やっぱり、私には資格がないよ……九籠くんに話しかける資格なんか)
悔しかった。何もできない自分が。感謝することしかできず、それを言葉で伝えることさえできない自分が。
憎らしかった。冷たさを放置する世界が。“ああなりたくない”という役割を押しつけておきながら、彼らを決して救うことのない残酷な世界が。
この世界の中で、彼に話しかけて笑顔を届けられたら……自分はどれだけ幸せだろう。
(私には、幸せを手にする資格なんか)
本を広げて、その影に隠れて俯いたコウは静かに泣いた。
そんな朝を迎えた日の、放課後のことだった。
掃除当番を終えたコウはひとりで廊下を渡っていた。窓ガラスごしに校舎裏の様子をうかがう。
九籠くんがやはり、不良どもに殴られていた。
『かわいそう……誰も止めないし』
『ちょっと怖いよね、この学校。ああ、私はああなりたくないな』
『そだね、毎日気をつけないとね』
そんな言葉を発しながら去って行く生徒たちを睨みたかったが、しかしコウは直後にその資格さえも自分にはないと思い知る。
自分もまた、彼が殴られている光景を高みの見物している卑怯者の一人なのだから。
それでも、彼が一方的に殴られている光景を見る度、コウは激しい怒りを覚える。両手をぎゅっと握って、世界を呪う。
だからコウは直後、立ち上がった彼を見て目を見開いた。
「ま、待てよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
その一声で彼が世界を変えた。
自然、コウは窓を開いて身を乗り出した。
ただ殴られていただけだったはずの彼が、不良を殴っている。やり返している。
「そんな、九籠くん……」
複雑な感情がコウのなかでぶつかりあった。
九籠くんが一歩を踏み出した、嬉しさ。
何もできない自分が置いて行かれたような、さみしさ。
一歩を踏み出した九籠くんが、しかし結局は殴り負けてしまう、悔しさ。
それらがない交ぜになって、コウの瞳から涙がこぼれた。両手をきゅっと握って、そして組み合わせて祈った。沈み行く太陽に向かって、コウは念じる。
(私に、資格をください。何もできなくて、見て見ぬ振りをすることしかできない私に、資格をください)
はたしてその願いは届いたのかどうか。
太陽は何も答えてはくれなかった。
だが、夕暮れの陽光からひとつ、一羽の鳳がやってくる。赤黒い炎の衣を身に纏う不死鳥が、コウの目の前に現れて。
『試したくなったのなら、試せばいい。資格の有無など関係あるものか』
「ありがとう。ゼロ」
そしてコウは駆けて校舎を降り、靴を履き替えて外へ飛び出した。
校門を抜けて、ただ彼を待つ。
待っている途中、生徒会の仲間たちと一緒に帰ろうとする大和リンと目が合った。リンはコウを見るや否や、たたっと駆け寄ってくる。
「大湖さん……お願いします。九籠くんのこと、待ってるんだよね? 彼を、助けてあげて」
返事をするより先にリンは仲間たちのもとへと戻っていってしまった。やはりよくわからない女だと思うけれど、しかしコウはそれで資格を与えられた気がした。いつもリンが所持している、彼を笑顔にする資格を。
コウは待った。一時間がたち、さらにもう一時間が経過した。
陽は沈み、月がはっきりと見えるようになった時。
ふらふらとした頼りない足取りで歩いてくる彼を見た。
駆け寄ろうとして、戸惑った。戸惑っているうちに、彼がこちらに来てしまった。
コウは両手を握ると、一歩を踏み出した。
一度つばをのんで、息を吐いてからまた吸って、そして声をかけてみる。
「ひどい傷だね」
我ながら素っ気ない言葉だと思ったが、しかしそう思ったのだからしょうがない。
こうしてコウは彼に、初めて話しかけたのだった。
瞬間、星が煌めいて流星がひとつ夜空を渡り、世界が変わる。
ふたりは満天の星空の下で目と目を合わせた。両者ともゆずらない、満ち足りた光を帯びた瞳と瞳を。




