12-3 愛の賛歌~導きのデート~
“愛したい”。
その衝動に導かれるようにして進んできた。
告白もして、OKももらった。
胸の疼きはもう起こらない。まるで自分の中の仮想生命体が消えてしまったかのように、疼きを訴えてきたコード:ウェヌスの気配はなくなっていた。
気配がなくなったからこそ、リンは最初の願いに立ち戻る。
“愛したい”? ……でも私は、あの子を導いてあげたくて。
何事にも消極的なあの子は、いや、社会の冷徹さに晒されて積極さを奪われてしまったかわいそうなあの子は、いつもぼうっとしがちで、そこがかわいいのだけれど、そのまま大人になるのも危なっかしい。
というか、いまのままではダメ男の道まっしぐらだ。
(私が、導いてあげなきゃ!)
リンはそうして、デートプランを練りあげた。
たとえ、生き方の違いが埋まらなかったとしても。
自分があの子の最後の相手ではないのだとしても。
少なくとも、あの子の最初の相手ではあるのだから。
私は彼を、愛したい。
※
夏休み二日目。
天気はあいにくの雨。
集合場所は街の図書館で、指定時間は昨日と変わらず朝の十時。
英治は指定時間より十五分早く集合場所に到着したのだが、本当に彼女は何分前から到着しているのだろうか。
やはりリンは、先に集合場所に立っていた。
白地に青の水玉模様の傘をさす彼女は、ぱっと見ではメイド服を着ているように見える。近づいていくと、フリルのついた白のブラウスに黒のフレアスカートをあしらっているとわかった。赤い宝石がトップについたシルバーネックレスに、黒く輝く極小の石が揺れるイヤリングをつけている。
昨日はかわいらしい妖精といった出で立ちだったが、今日は何だか大人っぽい。よく見ると唇には薄いルージュがひかれていて、艶やかな雰囲気になっている。これでは同学年の女の子というより、大学生の姉と会っているかのようだ。
実はカラーコンタクトもしていたのだが、またも英治は気がつかない。
傘をさす右手の反対には、四角いプラスチック製キャリングケースを持っている。そこには本が数冊とペンケースが入っているが、英治はさしてそこに注目もせず、ただリンの可愛らしさと艶やかさとが溶融した見栄えに頭が真っ白になるばかり。
「ご、ごめん」
「遅いよー」
一瞬、むっとしたようにぷっくり頬を膨らませてそう言った直後、
「冗談! むしろ早く来てくれてありがとう!」
弾ける笑顔をうかべて、リンはまっすぐ英治を見つめた。
英治は思わずそっと視線を反らしたが、おそるおそる、頬を赤くしながら彼女を見る。
そう、リンは自分の“彼女”なのだ!
昨日は成り行きでOKしてしまった形になったが、実はこれは大変な事件ではないのか。
人生で初めての恋人を今いちど視界に映そうとして英治はリンを見直すが、そうすると今度はリンが目を逸らしてしまう。
「ごめん……やっぱりちょっと、恥ずかしいね」
リンはそのまま背中を向けて、図書館へと入ろうとする。
「いこっ!」
英治は彼女の背中を見て、着いていこうとした、そのまた直後。
リンは急にターンしてこちらに向かってくると、素早くこちらの手を握ってくる。細くしなやかな指が、ふんわりやわらかな感触でこちらの手を包む込んでくる。
(あったかい……)
頬を薄く朱にそめた二人が、図書館の静寂のなかに入っていく。
「さて。それでは始めます」
空いているテーブル席に座るなり、向かい合ったリンは唐突に宣言した。
「え? というか大和さん、目が悪かったの?」
細いフレームの黒縁眼鏡をかけたリンに対して、英治は無粋なツッコミをいれたが。
「あ、そこは大丈夫。これ度が入ってないやつだから」
リンは優しく解説をいれつつ、家庭教師風のキャラを演出して「こほん」と一度咳払いを入れると、
「九籠くん……いや、英治くん」
図書館らしくボリュームを落したコソっとした声音で、しかしリンは力強く点呼をとった。
名字から名前へとわざと言い直した意味を味わって二人はふたたび頬を赤くするが、リンはそれでもがんばって続けた。
「夏休み、宿題やっぱり大量に出たけど。計画的に終わらせるために考えてることはありますか?」
「い、いや」
耳が痛い話だ。英治は総勢千ページにも及ぶ国数英の問題集を終わらせて解説も読む、という狂ったような夏期課題について、手をつけるどころか放置を決め込んでいる。
学校から配られた問題集と大量のプリントを部屋の机に積んでいるが、積みっぱなしで手をつける気力もない。このまま行けば夏の終わりと共に破滅の道を歩むのはわかっているが、しかしやる気が出ないのだから仕方がない。
それに英治は小学校のころからずっと、夏休みの課題は最終日に一気に終わらせるタイプだ。どんなに宿題の量が多かろうが何とかなることはすでにこれまでの学生生活で熟知している。そのつもりだった。
そんな英治に対して、リンはメガネをくいっと持ち上げると同時に度の入っていないレンズに光を当てて視線を隠すと、
「せっかくの夏休み。宿題を放置してしまうと、毎日重圧に苦しんでしまいませんか? いつか終わらせる、って思ってばかりで、そのいつかをいつにするかをふと考えて、絶望的な気分になったりしませんか?」
ギクッ! と胸を突かれた英治は、瞬時に泣きそうな顔になる。
そんな英治にふっと笑みを浮かべたリンは、メガネの角度をかえてレンズに光が反射しないようにする。
現れたメガネごしのリンの視線はやわらかくて、輝いていて。英治にはまるで救いの女神のように見えた。
「大丈夫! 私ね、英治くんの夏休み応援プランを考えてきたから!」
リンは言いつつ青いプラスチック製キャリングケースをテーブル上に展開すると、そこから一枚のルーズリーフを取り出した。
それを突き出されて、英治はその一枚の紙を受け取る。
見た瞬間、その華やかさに目を奪われた。
お手製カレンダーというのが最初の感想で。
ルーズリーフいっぱいに引かれた罫線が格子を形作って、数十のマス目を描いている。マス目ひとつひとつに日付がまず書かれてあって、そして手をつけるべき宿題の名前と目標終了ページ数がかいてある。
さぞキツキツのプランなのだろうと思いきや、マス目のなかには「予備日」「休暇日」という文字も見えていて、それはただ宿題を終わらせるためのプランではなく、夏休み全体を有意義に過ごそうとする全面的な夏休み支援プログラムであることが見て取れた。
カレンダーの上には、太いマジックペンで「がんばろう! 夏休み課題撃退大作戦!!」とかわいらしい丸っこいフォントで書かれたタイトル文字が鎮座しており、その手書きの感じが、たかが自分のために彼女が自ら用意してくれたのだと実感させられる。英治は嬉しさ半分、申し訳なさ半分の複雑な感情を胸にしながら、
「あ、ありがとう」
と感動をそのまま感謝の言葉にした。
英治の顔がぱっと輝いたのを見たリンもまた笑顔になると、
「それはそれとして」
と、また別の書類を二枚、ケースから取り出した。
灰色と白の用紙。二枚はまったく同じ内容だが、灰色が学校から配られたもので、白いものは自前でコピーしたものか。
英治はそれをみた瞬間、思わず肩を落した。
「これは……」
「そう! まず手始めに、宿題の一ページ目をやってみましょう。整数問題!」
またメガネをくいっと持ち上げて、リンはビシッ! と小さな人差し指を英治の前のプリント用紙に突き出した。
英治は嫌々、しかししっかりと目の前の現実……これから立ち向かうことになる難敵の、その最初の一問目に視線を落した。
[xy-2x+3y=24 を満たす自然数xyをすべて求めよ]
見た瞬間、ため息を吐き出したくなったが、こらえてリンに視線を戻した。
子犬のような英治の瞳に正直、きゅんと笑顔になりそうになるが、リンは(ダメダメ、ここで顔を緩めたら。私が導くんだから!)と堪えて、家庭教師キャラのまま踏みとどまった。
「まずは、解いてみて」
「う、うん」
始まってしまったまさかのお勉強デートに、英治は疑問を感じつつ。
「はい、これつかって」
とにこっと差し出されたシャーペンを握らされると、やるしかないか、とも思えてくる。
とはいえ、いきなりわからない。
英治はしかし口ではそう言えず、またリンに視線を向けてしまった。
「一緒に解いてみよっか」
口にしなくても、彼女はわかってくれたのか。あるいは最初から一緒に解くつもりだったのか。
学校の教師のようにわからないことを責めてはこない態度にまず英治は感動しつつ、次には予備校講師のような端然とした説明に圧倒されることになる。
「整数問題っていうのはね、いくつかパターンがあるの。この問題の書き方は少し難しくなってるけど、もともとの形はxy=数字、っていう形になるの。だからね、まずはこの小難しい式をできる限り簡単な形に直してあげることから始めればいいの」
そう解説されてもわからないのだが、しかし彼女の自信に満ちあふれた言葉を聞いていると、なんだかわからないものもわかるようになった気がした。
独りでは解けない難問でも、一緒に解くとあっさり解けてしまう。
英治は彼女の手ほどきのままにペンを走らせ、やがては彼女が言うより先に答案を導き出していた。
「できた……(x,y)=(15,3)、(6,4)、(3,5)だ!」
「よくできました!!」
静かな図書館に二人の大声が響き、おかげで司書を勤める女性から睨まれることになってしまったが、それでも二人は声を抑えて笑い合った。
英治は、問題を楽しく解けた喜びに笑い。
リンは、しっかり彼を導けた達成感に笑った。
「あの、よかったら次の問題も、一緒にやってくれないかな」
「ふふ。どう、勉強もこうして向き合ってみると、なかなか楽しいでしょ?」
「それはわからないけど、いまは楽しいよ」
「ますます楽しくしてあげる」
お勉強デートも悪くない。英治は次第にそう思いつつ、ペンを握ってリンの声を聞きながら大嫌いな数学の問題に立ち向かっていく。
そうしてプリント用紙一枚分を完璧な形で仕上げたとき、いちど休憩。
テーブルから離れて、図書館のなかに開店している喫茶店でアイスクリームとコーヒーを口にしながら、二人はおしゃべりをはじめる。
「英治くん、午後からも宿題、ちょっと一緒にやってもらおうと思ってるんだけどね」
「う、うん。むしろ、なんかごめんね。付き合ってもらって」
「私から言い出したんだから、別にいいよ。それよりもね、英治くん。忘れないでほしいことがあるの。今日の勉強で、それを知って欲しくて」
「忘れないでほしい、こと?」
「うん……なんて言うのかな。がんばる喜び? っていえばいいのかな。英治くん、学校だと笑わないから、ひょっとしたら勉強嫌いなのかな、って思ってて」
「それは、まあ否定できないかな。というか勉強好きな人っているの?」
「それが私!」
「あ、なんか、ごめん」
「いやいや! でもさっきも英治くん、楽しそうに解いてたじゃん。勉強ってね、本来は楽しいものなの。でもね、先生とか周りの人ができない人を馬鹿にしたりするから、楽しくなくなっちゃうの。勉強だけじゃなくて、他のことにも言えるんだけどさ」
リンはそうして、頬を染めながらも英治の手にそっと触れて告げる。
「生きることすべてを楽しんでほしいなんて、まだ言えないけど。でも今日で、せめて勉強だけは楽しいものなんだって、知って欲しいの。それでね、勉強だけじゃない、この夏休みで英治くんが楽しいって思えるもの、できるだけたくさん見つけて欲しいの。私がいくらでもお手伝いするから、私にできることなら」
言った後、リンは目を伏せてしまう。
「ごめん、ちょっとうざかったし、上から目線だったかな」
リンは英治から手を離して引っこめてしまう。
急にしゅんとなってしまったリンに、英治は少し驚いたものの。
彼女がさっき手のぬくもりとともに伝えてくれた言葉は、心の奥深くをあたたかくしてくれて、うっかりその熱が目元に流れてきてしまいそうになる。
英治は彼女がいちど引っこめてしまった手に触れようとかと思ったけど、それはさすがに照れくさくてできなかった。
でも、彼女からもらった熱を何とか口に出すことはできた。
「ありがとう、リンさん」
初めて名前で呼んでみて、言った瞬間、「ごめん」と謝ったが。
リンは小指で目元の涙をぬぐいながら、「えへへ」と幸せそうに頬を緩めた。
「ううん。ありがとう、英治くん」
二人はしばらく、ただ見つめ合った。
英治はそのとき、何も考えられなかった。リンが自分と釣り合っているかどうか、とか。幸せになっていいのだろうか、とか。そんな問いさえ浮かばないほど、この時間があたたかくて。
リンは正直、泣き出したい気持ちだった。軽く涙が出てきてしまったけど、それでも我慢しなければ号泣してしまうところだ。幸せ過ぎて泣くなんて、そんな威厳も何もない姿を家庭教師キャラ続行中のいま見せるわけにはいかない。
それでも、確かに彼を導けたような気がして……先のことは考えないようにして、リンはただ、彼がいま浮かべているとろけそうなくらいに無警戒な表情を眺めて、幸せにひたることにした。




