1-5 ヴァニシング後日談~草むしり~
英治はふと目を開けた。
白い天井に、蛍光灯の白い光が見える。
ここはどこ? と声をあげるより先に、消毒液のにおいをツンと感じた。
保健室か。
「あ、起きたね」
声がしたかと思えば、シャッ、とカーテンを開ける音がする。
ベッドと部屋とを区切る幕が開き、視界にリンの顔がひょこっと現れた。
ミドルヘアの黒髪美少女はいつものくりくりした大きめの瞳に、いまは複雑な思いを宿しているようだ。
根が純粋な女の子なのだろう、思ったことがそのまま瞳の色に出やすい。
眉がすこし下がっていて心配そうな色を浮かべている一方、英治が目覚めたことを心の底から喜んでいるキラキラした輝きも湛えていた。
心配と喜びとがないまぜになった潤み気味の瞳と至近距離で目を合わせた英治は、急にどきりとして視線を反らすと、
「大和さん、どうして」
鼓動がわずかに速くなった勢いでそのままガバリと起き上がる。
「おっと」
リンは顔が衝突するのを避けるべく抜群の反射神経で一歩退くと、しかし秘密を打ち明ける少女のように手で口を覆いながら、小声で伝えてくれた。
「いま学校に警察が来てて。目を覚ましたら事情聴取だって」
警察、事情聴取。
聞き慣れているようでまったく現実味のない言葉だ。
首をかしげて、しかし英治は心当たりがないとも言えなかった。
あの戦いで記憶を失った、とそう言いたかったが残念ながらはっきりと覚えている。
いつもの“ネタ”が終わる頃に出現した青い鎧の闘士と、まさかそれを撃退してしまった自分。
思い出してみれば、記憶のなかにしっかりと刻みつけられた壮絶な快感も蘇る。
英治は自分の手を見た。
(僕はこの手で、あいつを……)
消し去ってやった。
思わず、にんまりとせずにはいられない。それほどにまであの記憶は気持ちよかった。
それこそ風呂掃除や雑草を引き抜く時にも似た種類の、しかしあんなものとは比べものにならないほど凄まじい快楽だ。
「リンちゃん、お疲れさま。ごめんね」
記憶の再生は、聞き知った大人の女性の声に遮られる。
「いいえ」
リンは優等生らしく整った礼をすると、ベッドサイドの立ち位置をその女性、保健室の先生にゆずった。
「元気? ちょっと脈をみるわね」
微笑みながら英治の手首を掴む保健の先生は、一目でおばさんとわかるほどに厚化粧で、小太りだった。けして美人とは言えないが、その笑顔と優しい物腰には万人を癒やす力がある。
荒ぶる不良生徒さえも一瞬のうちに黙らせてしまうその大きな手で手首を握られ、英治はわけもなく安心した。
保健の先生の大きな手のぬくもりをゆっくり感じたかったところだが、しかしそんな暇はないらしい。
つづいてビシャン! と戸口が開かれた音が響くと、室内の空気は一気に張り詰めた。
シューズを鳴らす乾いた音が入り口から早々に近づいてきたのも一瞬で、
「目を覚ましたようですね。聴取、そろそろ開始したいのですが」
その警官は、リンを押しのけ保健の先生の隣にまでやってくる。
英治を見もせず、ただ先生に了解を取り付けることだけを考えているかのようで、英治は内心、舌打ちした。
聴取は十分足らずで終了した。
いや、それは聴取ですらなかった。
保健室から校長室へと移された英治は、ふかふかした応接用のソファに座らされ、向かいに腰掛けた先ほどの警官――メガネをかけた背広に、ただひとつの命令を与えられた。
「本日あなたが目にしたことはすべて、国家機密となります。あの青い鎧の怪人、そして怪人を引き寄せる青い花。すべて、我々が秘密裏に追っている存在でしてね。本来ならあなたを拘束し事態が沈静化するまで刑務所で暮らしてもらいたいところなのですが」
はあ、と大げさにため息をつくと、
「今回の事件は常識を逸脱している案件であるが故にですね、あなたを拘束できるだけの理由を用意することができないわけですよ。根拠もないのに投獄するなんて、あなたの親御さんは黙っていないでしょうからね。だからまあ、お願いするしかないわけです。どうぞ全部、忘れてくださいってね」
背広は言い終えると、応接机に乗せたノートPCに自分が言った言葉をそのままに打ち込んでいく。
英治はただ「はあ」と返事ともつかない声を放つしかなかった。
国家機密レベルの情報をこの目で見たが、しかし何の沙汰も下さないという。どこか違和感がしたが、しかし何の犯罪もおかしてない高校生を刑務所に入れられるわけがないというのも道理な気がする。
不良生徒が四人も死んだ案件を処理しているにしては穏便すぎる、とは思うものの、とりあえず自分に不利益はないらしい。
ほっと一息をつこうとしたのも束の間、英治は瞬時にギラリと眼光を放った背広の瞳に射ぬかれた。
「ただし。常に監視されているということは、肝に銘じておくように」
そのときはメガネに蛍光灯の光が反射して、背広の瞳の色はまったく見えなくなっていた。鋭い眼光から解放されたが、無機質なメガネの反射はかえって有無を言わさない圧力を放っている。
ごくり、と生唾を飲み下すばかりで何の返事もできなかった英治だが、背広は直後にはさも親切そうに微笑んで、
「お友だちやご両親にはくれぐれも漏らすことのないように。それさえ守っていただければ、あとは何の変わりもありませんよ。大丈夫、この件は必ず我々が解決してみせます」
そう堂々と告げると、背広はパタンとノートPCを閉ざすとそのままさっさと校長室から出て行った。
ひとり取り残される格好となった英治は、入れ替わって入ってきた教頭先生に導かれて、学校の外に連れ出された。
玄関をくぐると、あとはそのまま帰っていいという。
時刻にして午後八時。
教頭先生は笑ってくれていたが、しかしその顔には疲れの痕がにじみでていた。無理につくってくれた笑顔は引きつっており、頬はぴくぴくと痙攣している。
「あの、ありがとう、ございました」
いったい何に対してのお礼なのかは自分でもわからなかったが、何となくそう言わなければならない気がして、英治はぺこりと頭を下げた。
暗い夜道を独りで歩いた。
七月で陽も長くなっているとはいえ、夜にもなれば太陽はすっかり沈んでいた。空には星がところどころ瞬いてはいるが、雲の影が大部分を占めている。明日は雨か。
監視されている。
その一言が脳裏に再生され、物陰を通り過ぎるたびに誰かがそこに潜んでいるような気がした。
落ち着かない気持ちのまま、導かれるように英治は寄り道する。
街灯に照らされ車道に面してもいる大通りから、一本ずれた道を歩く。そのまま歩くと、土手があった。近くには河が流れており、堤防の役割を果たす土手だ。
その斜面には多種多様な雑草が生えている。
ネコじゃらし、シロツメクサ、ドクダミ。ひとつひとつ名前のあるにも関わらず雑草とひとくくりにされた彼らは、土手の影に沈んで巨大な暗闇となって英治と向かいあった。
漆黒の闇は風に揺られることで、かろうじてその根源が植物であることを伝えてくれる。
英治はその闇の領域に足を踏み入れた。
足の裏がズン、と有象無象の草花を踏みつけ、英治の手はゆっくりと影の一部を掴み取る。
この影は確かに生きている。
そう思った瞬間、英治はにこりと笑って引き抜いた。
引き抜いたことで、影はその根元を露にした。
英治はそれをぽいと捨て去ると、また次の草を引っこ抜く。
闇の中でひたすらに草むしりをする英治は、確かに笑っていた。
だが、物足りない感じもする。
(あの感覚に比べたら、こんなの)
一度強烈な快楽を味わってしまうと、魂ごともっていかれる。中毒者のその真理は英治を虜にしていた。
もう一度、戦えないものか。
警官には普通に過ごせと言われたが、しかし英治は草むしりの間、草の影にあの青い鎧の怪物を幻視していた。
「もう一度、消し去ってやりたい……」
呟いて、引き抜いたその草を左右から引っ張り、パンッ! と音を鳴らして引きちぎってやった。