5-5 ヴァニシング敗北譚~血の宣誓~
夜八時。
タケトは独り、帰り道を歩いていた。
電灯がぽつ、ぽつと一定の間隔を保って並び立っている団地の道は、真っ暗ではないが輝きに満ちているわけでもない。
電灯が照らす円形の白光をくぐり抜ければ闇が道路に流れ込む。闇を過ぎればまた電灯の白光のなかに入るのだが、次の光の前にひとり、道を阻むかのような人影があった。
「大湖、さん?」
その輪郭だけでタケトは相手のことがわかる。いまだ未練が残る相手だった。
「私、見てたよ。お前が九籠くんを、痛めつけるとこ」
ぼそり、と闇に声を紛れ込ませたような呟きだった。声は夜の冷気とともにタケトの体の奥に入ってくる。
「へえ。ってことは近くにいたんだ。気がつかなかったよ」
言葉を返しつつ、タケトは声が震えそうになるのを抑えた。
(空き地のまわりには、誰もいなかったはずだ……)
仮想生命体に接続されている間は認識能力が格段に上昇する。視力も上がったりするが、周囲の気配を敏感に察知できるようにもなる。
まして現在、タケトは仮想生命体と融合している。その肉体はもはや人間のものではなく、身体能力と認識能力とが大幅に強化されていた。
それをもってしてもコウを察知することはできなかった……つまりコウもまたただの人間ではなくなっている、と考えるしかない。
「大湖さん……いったいアンタは何者なんだ? そもそも俺たちを見てたって、どこから」
「うるさい」
コウはしかし背中を向けた。
「お前みたいなクズ野郎には、何も言わない。汚らわしい」
そのまま彼女は電灯が放つ白光のなかに入り、立ち去っていく。
「あんたを絶対、許さない」
ただその一言を残して。
「俺は“話したい”んだ、大湖さん」
タケトはとっさに己の能力――現実改変“対話”を開放、言葉にその力を乗せて放ってみた。
人間の耳殻を通じて脳をハッキングし、相手の体の自由を奪った上で強制的に会話させる。その力であれば、どんなにコウが嫌がったとしても会話を成立させられる。
英治に対して猛威をふるった力をコウに使うのは気が引けたが、そうでもしなければ振り向いてもらえない気がした。
しかし、何も起こらなかった。
「調子に乗らないで。そんなもの、私には効かない。私だって見えるんだよ、あの花が。それがどういうことか、いまのお前にはわかるだろ。まったく」
コウの背中から舌打ちが響いたかと思えば、ついに彼女は光の中を通り抜けて闇の向こうに消えていった。
「完全融合を果たした者よ。使命を果たす用意はあるか」
不意に言葉が響いた。
タケトはその方向に体を向けた。
背後を振り返ると、闇が蠢いていた。巨大な影が存在していたのだ。形のない暗黒の壁から声だけが響いてくる。
「地の底に眠る“源の花”と接続せよ。さすれば、貴様の願いは永久に叶えられん」
「だ、誰だ、お前!」
目の前の声を放つ暗黒から一歩退いて距離をとったタケトは、恐怖のあまり叫んだ。
(こいつ、なんかヤバい。寒気がする……)
理由の知れない悪寒が全身を駆け巡っている。理性では捉えきれない、本能が知覚する恐怖が呼び起こされていく。
仮想生命体『コード:オーガ』への“化身”を実行しようとしたタケトだが、しかし暗黒の壁からは何故か、笑い声が響いてきた。
「フハ! そうか……これは面白い! 仮想生命にあって、その根源たる我を知らんのか。よもや貴様、人の意志をいまだに保っているな?」
「根源?」
「そうだ。我が名は『コード:0』。この世界に落された、初めの命だ」
「コード、ゼロ」
反芻してみるが、タケトの脳の中からは該当する情報は検出されない。首をかしげる代わりに唇に指先を当てたタケトだったが、暗黒の壁はさらに笑うだけだった。
「フハハ! これは我も想定していなかった在り方。偶然とはいえ巡り会えて嬉しいぞ。人の体に仮想の魂を埋める形式を不遜にも無視する個体が発生しようとは」
暗黒の壁は上下左右に膨張し、じわじわと広がっていく。まるでタケトを包囲するかのように。
(これは、嫌な予感しかしねえな)
身の危険を感じたタケトは、ついに退散することを決意する。足に力を入れ、全力で踵を返そうとした、その時だった。
「とはいえ、我のことを知らないというのも困る。ここで教えてやろう。我が力を――“まあ、待て”」
逃げようとしたその瞬間に声が響き、そしてタケトの体は瞬時に止まる。
「なんだ、これ」
一切体の自由がきかない。タケトは後ろを振り向いて敵の情報を得ることさえままならなかった。
「“そこに跪け”:我が子よ」
瞬間、タケトは自動的に両膝を地に着けた。
体が勝手に動く。
「“見よ”:我が威容を」
また体が勝手に動き、タケトは自動的に顎を上げた。
そして見た、暗黒の壁を背後にした敵――コード:0の本体を。
(これは……何だ)
人の形をした炎。そう形容するのがせいぜいだった。
「“眠れ”。そして、“魂に刻め”:己の恐怖を」
その声が耳に入ってきた瞬間、タケトは両目から涙を流した。動かないはずの全身が狂ったように震えた。寒い。凍てつくような冷気が体の奥からわき上がり、全身を震わせている。
そうしてタケトの脳はやがてショートした。コード:0から送信されつづける恐怖に脳がオーバーフローを起こしたのだ。
意識を失う直前、タケトは否が応でも瞳に焼き付けることになる。
不死鳥の姿をしたコード:0の威容を。
※
英治は目を開けた。
視界に映ったのは夜の闇と、多量の血液だった。
血のにおいが鼻をつく。
(そうだった、っけ)
目の前には血だまりができている。自分の口から吐き出したものだ。
まだ全身が痛い……でも、動かせないわけじゃない。
口の中は鉄の味でいっぱいだ。血は止まっているものの、今度は常に感じる血なまぐささに吐きそうになる。
負けた、タケトに。
思い出してみれば、反吐が出そうな記憶だった。
痛みに軋む全身を立ち上がらせ、ゆっくり歩いた。やがて土手に辿り着いた英治は、ふと腕時計をみる。
夜の九時。親が帰ってくるまで、まだまだ時間がある。
(クソ……クソ!)
英治は草むしりを開始した。
闇の中に生い茂る雑草どもを残らず引き抜いて、ちぎって捨ててやる。
タケトの顔を思い浮かべてタンポポの根を抜き、その茎を折ってやる。
タケトの態度を脳裏に再生してシロツメクサの花弁をもいで、思い切り投げてやった。
草をむしればむしるほど、しかし悔しさは泉のようにわき上がり、いっこうにおさまってくれなかった。
次は絶対、消し去ってやる。




