5-1 温もりの宣誓
英治は目をあけた。
血と肉と脳漿の臭気が鼻をついた。また嘔吐感がこみ上げてくる。
しかし、英治はやわらかい感触を後頭部に感じてもいた。まるで小さい頃、母親の膝で眠っていた時の温もりを思い出す。
「おかあ、さん……?」
何故か滲んでいる視界の向こうで微笑む女性に、無意識のうちに手を伸ばしていた。
一方、女性はそんな英治の手をやわらかく遮った。
「すまない、あたしだ」
その声で英治は我に返った。
がばりと起き上がり、周囲を見渡す。
アキラの死体と、おじいちゃんの死体。
まだ目覚めきっていないぼんやりとした頭でもわかる。獅子の戦士との戦闘は夢ではなく、紛れもない現実で、アキラがこの世界から消滅することになる未来も、やがて現実になってしまう。
「大丈夫か」
ココロは、英治の額に手を当てて熱をはかるようにした。
その手は冷たかったが、しかしじっと触れられているとやがて温かさが伝わってきた。
「だ、大丈夫、です」
英治はその手を払う。
ココロは不意にいまにも泣きそうな瞳で、しかし口調だけはいつもと変わらない力強さで言う。
「今日のことは、気に病むな。おじいさんを殺したのは、あの怪物だ。そしてキミの友だちを殺したのは、あたしなんだ。キミは誰も殺してない。キミは何も悪くない。それだけは、理解しておいてくれ」
その言葉に、英治は何も言えなかった。
そんなことを言われても、いま目にしている二人の死体にふたたび命が宿ることはないのだ。どんな言葉も、この現実を変えることはない。
何も言わない英治に対して、ココロは目を伏せながら立ち上がり、そして去っていった。ふと彼女の背中からその本音がこぼれて風に流れた。
「キミにはわかってほしいんだ。人の願いが、いかに大切か。それを偽りの方法で叶えてしまうことが、いかなる侮辱なのか。そしてキミが、誰でもない、キミ自身が……紛れもなくこの星を護っているんだ。それは確かに、誇って良いことなんだ」
(偽りの方法、だって?)
英治は拳をぐっと握った。
(おじいちゃんが元気になったのは、偽りなんかじゃない。けっして)
それだけは断定できる。
そう思うからこそ、その願いを消し去ってしまった自分自身が誰よりも大きい罪をもっているような気がする。
(僕は、生きていていいのかな)
誇っていいだなんて、絶対にそんな風には思えない。
(友だちさえ護れなかったのに、星を護っているだなんて……ありえないでしょ)
※
朝になる。
登校して、いつもどおり椅子に腰掛ける。
もう重くする必要のなくなったリュックはやけに軽い。肩から下ろしたそれを机の脇のフックにひっかけ、一限目の準備をする。
いつもならリンが話しかけてくれるが、いくら待っても来ない。
ホームルームが始まると、案の定リンの欠席が伝えられた。
リンがいないと、英治は一日を通して誰とも話さずに終わる。
授業中、教師から指示があれば隣の女の子と教科書を読み合わせることもある。でも本当にそれくらいだ。
(いったい僕は、生きていていいのかな)
誰とも話さないと、何故か自分と話すようになる。
話すというよりかはとりとめもない疑問を思い浮かべるようになる、と言った方が正しいか。
一限目は古文で、朝からハードだ。国語という分類にありながら、古文なんて英語の授業と同じようなものだ。いや、リスニングのための音楽教材やスピーチレッスンがない分、英語よりもはるかに面倒くさい。
単語の意味を調べて暗記し、文法を覚え、わけのわからない誰かの遺作を日本語訳する。その繰り返しだ。
「宿題やってきたかな。『舞姫』のこの一文、読んでみて……大湖さん」
「はい」
教師も教師で、毎回誰かに当てて答えさせる。おかげで授業中は気を抜けなくて緊張したムードが漂う。
でも……それでも、昨晩の光景がやっぱり頭をよぎるのだ。
(僕とココロさんが、あのときアキラさんの家に行ってなかったら。たぶん、アキラさんとおじいちゃんは)
そこから先は考えたくなかった。
でもわかる、予想できる。きっと今頃アキラとおじいちゃんは、仲良く元気に過ごしていることだろう。昨日、自分たちが彼らの家に行かなければ。
(ココロさんが銃を持ってたなんて、僕は)
授業を頭に入れるどころの話ではなかった。英治は頭を抱えた。記憶が重い。どうにも独りで持ちきれる気がしない。でも、他人に打ち明けられる気もしなかった。
畢竟、自分で何とかするしかない、か。
そう思って我に返った英治は、
「おーい、九籠さん。聞こえてますか」
と、自分を呼ぶ教師の声を聞いた。
「あ、やっとこっち向きましたね。あのー、悩んでるとこ済まないんですけど、黒板のあれ、日本語にしてきてもらえます?」
教師の半ギレした顔が目に映り、英治はさすがにあわてて「はい!」と立ち上がり、あたふたしながら黒板に向かった。
周囲の生徒がそんな英治を嘲笑するかたわら、コウだけは舌打ちしていたが誰にも聞こえはしなかった。
一限目から最悪の気分を味わったものの、とはいえ英治の学生生活はだいたいそんなもので、何かしら誰かに笑われている気がする。
リンが欠席しているいま、話しかけてフォローしてくれる人もいない。
ただ、武人が静かになったことで嘲笑からいじめに繋がることはなくなった。そこがただ一つの救いといえる。
以前までは、武人は教室の隅で不良たちと仲良く話をしていたが、いまでは授業が終わるたびに他の教室に行くようになっていた。もうこのクラスには友だちはいない、ということか。
(その友だちを奪ったのも、僕、なのかな)
ふとそんなことを思って、初めて武人に質問してみたくなった。
武人と腹を割って話す必要がある気がした。
僕が君の友だちを殺して、それで、どう思った? どう感じた? 僕のこと、憎んでる?
しかし、実際には武人とはできれば話したくない。武人を見る度、いじめの記憶が蘇ってくるからだ。
浮かんだ疑問はそのまま放置して、英治は目の前の授業を受け続けた。
夕方。
一日の授業をすべて終えて掃除当番もこなした英治は、掃除の点検箇所をチェックしたボードを教務室に戻しに行くとき、ついでに二年生の名簿を確認する。
高田明の名前は、やはりどこのクラスにもなかった。
「のぞき見ですか?」
ぽん、と肩に手を置かれて突然声をかけられた。
「はいぃ!」
英治はびっくりして振り返ると、一限目に半ギレしていた古文の先生が立っていた。
「今日で二度目ですよ、まったく。そんなに上級生の名簿が気になりますか、貴方たちは」
注意する先生はしかし今回はやわらかな口調だった。半ギレするほどの内容でもなかったのか。
「すみません、ちょっと気になることがあって。でも、二度目って?」
「ええ、キミのクラスの縁田くん。あの元気の良い子ですよ。彼もなぜか、キミと同じように二年生の名簿、見てましたよ。注意して追い払いましたけどね。そういうの、ストーキングっていうんですよ、まったくもう」
武人もアキラの名前を探していたということか。そうに違いない。
英治はまた驚いて心臓が跳ね上がったが、かといって武人が何をしようが関係ない、と即座に打ち消した。
不自然に書き換えられていくこの世界のなかで、違和感を持っているのは自分だけではない。それを再確認できて、すこし英治は安心した。でもこんなことで安心する自分を知って、英治はふと思う。
僕は独りぼっちが、ひょっとしたら嫌なのかも知れない。
(武人じゃなかったら、普通に話しかけてたのかな)
そう思ったが、どのみち人見知りだから変わらないか、と心の声をかきけした。
武人じゃなくて、アキラだったら? その仮定も無意味だと断じた英治は、さっさと教務室を後にする。
アキラはもうこの世界からいなくなったのだから。
放課後は公園に行った。
アキラとおじいちゃんと一緒にゴミ拾いをした、あの団地の公園である。
「あ」
英治は絶句した。公園にはゴミ一つなく、余分な雑草もない。
三人で一緒にきれいにしたままの状態が保存されていた。
アキラの存在が消された世界のなかで、アキラがきれいにした公園は残っていた。
結果だけが残って、その過程が消されてしまった。
言葉を失って立ち尽くすばかりの英治は、しかし不意に背中で声をきいた。
「ここ、綺麗になったよね」
振り返ればコウがいた。いつからいたのだろう。
ミドルヘアの前髪とメガネに囲われた両目は、やはり無感情の色で英治の瞳を覗きこんでいる。
こちらの視線を吸い込んでしまいそうな黒く輝く両目を、英治は正面から捉えることができなかった。
コウと目と目を合わせられるほど余裕はない。自分だけがひとり生き残って、アキラがいなくなって、その罪悪感に押しつぶされそうで……正直、いまは誰とも正面から目を合わせられそうもなかった。
いまはそっとしておいてほしい。
それでもコウは話をつづけてくる。
「私さ、この公園好きで。昔、よく遊んでたんだ。まー、遊んでたっていっても、ひとりでお花見てただけなんだけどね」
公園はかつて子どもの遊び場だった。しかし子どもが成長すると、ただ草だけが生い茂る場所になって、成長した子どもたちがそこにゴミを投げ入れるようになった。
それでも子どもたちの記憶にはまだ、公園で遊んだときの思い出が薄く残っている。
「ここが綺麗になったのを見て、私、感動したんだよ。だからさ、元気出しなよ、九籠くん」
気づけばコウは目の前にいて、ちょうど体が触れるか触れないかほどの距離にまで近づいている。
それでも英治は目を反らしつづけたが、しかしコウの視線は英治の瞳の色を見つめつづけた。
「私、九籠くんの全部、知ってるよ。大丈夫、九籠くんはきっと間違ってない。間違ってるのはこの世界の方だから」
その言葉に、英治は背筋を撫でられたようなゾクリとした感覚を味わった。
「僕の、全部?」
「そう。全部」
思えば、コウにもアオマキグサが見える。だとしたら、きっとアキラのことも覚えているはずだ。
「コウ、さん。君はいったい、何を知ってるの?」
英治は呟くように問いかけた。ひどく小さい声だったが、それが精一杯の声量だった。
瞬間、コウは輝くように笑って応えた。
「だから、九籠くんの全部だよ」
「ぜんぶって、なに」
そのとき、英治の視界からコウが消えた。
代わりに英治の全身にやわらかな感触がまとわりついた。
コウが英治を抱きしめていたのだ。
胸に当たる一際やわらかな感触に、英治は己が男であることを痛感しつつも相手の体を引き離そうとした。
「僕みたいな奴と、だめだよ。好きでもないのに、こんな」
なのに彼女の力は存外に強かった。引き離すことができなくて、おかげで拒否する理由もなくなった。
その温もりは魔力のようだった。魅せられて、溺れてしまう。
英治はその両手を、コウの小さな肩の後ろにまわした。
そっとしておいて欲しかったのに。ここまで近づかれたら、もう甘えてしまう。
「大丈夫。きみは、悪くないよ。あの公園。みんなで一緒に笑ったあの公園、とっても綺麗だから。それだけは、確かなんだからさ」
まるで赤ん坊をあやすようなその声音を前に、英治の見た景色が滲んだ。
あの日にきれいにした公園が、確かに三人で綺麗にした公園が、何よりも大事に思えた。
その公園をとっても綺麗だと言ってくれるコウの言葉が、英治の心に突き刺さって染み渡っていった。
公園が綺麗でありつづける限り、アキラとおじいちゃんが確かにこの世界に存在していたことを証明できる気がした。
(アキラさん。僕はずっと、忘れません。この世界があなたを消し去っても、僕は、ずっと)
そう思いつづけることが、親友に対して自分ができる精一杯のことだ。
英治はけして覆らない現実を前に、そんなことを思っていた。
そう思って問題を片付けようとしている自分が、英治は嫌だった。
でも今だけはコウの温かさがすべてを許してくれるような、そんな錯覚をもった。
錯覚でも、いいんじゃないか。それでいまが救われるんなら……英治は、しばらくコウを抱きしめつづけた。




