1-1 そんな汚れはヴァニシング
「おかしいな……」
九籠英治は下校中、道ばたでしゃがみ込みつつ首をかしげた。
「僕はいったい、何をしてたんだっけ?」
思わず呟いてみて、そして思い出すことができない。
縁田武人たち不良グループに蹴られ、殴られ、痛みをこらえて独りで下校している最中、何かをみつけて思わずしゃがみこんでしまった。
そこまでは覚えている。
そのはずだったのに。
目の前には何もない。地面を構成するコンクリートが、その無機質で硬質な表面をいつものように差し向けている、ただそれだけの景色。
そんなものを見るためだけにしゃがみこむなんて、どうかしている。
「疲れてるのかな」
殴られて腫れた頬をさすりつつ、しかし我ながら頭がおかしくなっても無理はないと思う。
不良グループにおもちゃのように乱雑に扱われ、最後にはケガをしない程度に痛めつけられて終わる、一連の“絡み”は高校に入学して一ヶ月が経過した五月から毎日行われ、夏休みを目前にしたいま、三ヶ月目を迎えようとしていた。
七月の黄昏時は生あたたかく、内出血で腫れた頬は日中の余熱とばかりに冷めてくれない。むしろクソ暑い空気に蒸し上げられているようで、一刻も早く帰宅して氷を口に入れなければ落ち着かなかった。
しゅっと立ち上がってみせると、しかし英治は目を見開いた。と同時に素早く目を逸らした。
目の前に、メガネをかけた女の子がいたからだった。
「九籠くん。そこで、何を見てるの?」
けして見知らぬ赤の他人に話しかけられたのではない。
その女子は確か英治のクラスメイト。
「えと、大湖さん、でしたっけ?」
「ええ」
大湖虎という、女の子にしては荒々しい名前をもった美少女は、確かに同じ教室で学校生活をともにする仲ではあるが、しかしまともに言葉を交わしたことは一度もなかった。
それは何も英治が人見知りで友だちのいない男子だから、ということではなく、彼女は変わったことに誰とも友だちになろうとしない。英治のようにいじめによって強引に孤立させられているわけではなく、むしろ自ら望んで孤独を選んでいるかのようで。
つまりは変わり者と等しく認定されている、避けられがちな女子だった。
いつも席に腰掛けて本を読んでいる姿しか見ていない。誰かとおしゃべりしていることさえない。そんな彼女がどうして、自分に話しかけてくるのだろう。
(えっと……僕はどうすれば、いいんだろ)
沈黙。
話しかけておいて話題も振らずに放置され、かといって立ち去ってくれるわけでもなく、その上、感情表現に乏しい彼女の無表情な顔と冷たい視線に晒されるその時間は、人見知りな英治にとってはまさに地獄だった。
言葉を発することもできず、そして腫れた頬を晒している醜い自分の顔が女の子に見られているという屈辱にも耐えられず、英治はそのまま頭を下げて、
「じゃあ」
と退散しようとしたのだが。
「ねえ、答えてよ」
またしても突然に放たれた一言に、足止めされた。
短いが故に威圧的な響きをもったその一言とともに、コウはメガネ越しに英治の足下を一瞥した。
「何を見てたのって、聞いたんだけどな、私。まあいいよ。でもその花、見てたんでしょ?」
「え? 花……?」
言われてみれば……英治はコウの言葉に応えるべく、足もとを見る。
そこには確かに一輪の青い花が咲いていた。
(そうだ、僕はたしかこれを見るためにしゃがんで)
先ほどまでコンクリートしか見えなかったはずだった。英治はその記憶を保ちながらも、しかし青い花を見たという記憶も確かにもっていた。
おかしい。
再び首をかしげる英治だったが、コウはふっと笑った。
「そう、九籠くんにも見えるんだ。とっても、綺麗だよね」
誰に話しかけられても憮然として表情を変えない彼女が笑った。英治は確かにそのとき、初めて彼女が笑ったときの、弾けるような笑顔を見たのだった。
コウは一度笑うと立ち去っていった。ちょうどコウと英治の帰宅方向は違っていたから、二人は自然と別れた。
ため息を吐いて緊張を解いた英治は、青白い輝きを放つ特異な花を見やったのも束の間、帰宅の道を歩き出した。
「早く帰って、お風呂湧かさなきゃ」
そう呟き、足早に帰宅した英治は両親から預けられた鍵をポケットから取り出すと、誰もいない一戸建ての家屋に足を踏み入れた。
「ただいま」
そう言ってみても、誰が迎えてくれるわけでもない。
英治の両親は共働きで、いつも深夜に帰ってくる。父と母はそれぞれ違う職場で働いているはずなのだが、レストランや飲み屋に寄ってそこで合流しているのだろう、毎日二人揃って楽しそうに帰宅してくる。
だから九籠家では朝もっとも早く家を出るのは英治だし、夕方一番に帰宅するのも英治だった。
幸い、父と母は出勤前に英治の夕ご飯支度をしてくれる。
黄昏の闇に覆われた台所の電気をつけると、ダイニングテーブルにはパスタの盛られた皿がひとつと、ミートソースが入れられて蓋もしてある鍋とが置かれていた。
「今日のご飯はスパゲッティ、か」
自分に言い聞かせるように呟く英治は、鍋をコンロにかけてミートソースを温めている間、風呂の水を抜く。
出勤前に夕ご飯の支度をするのが父母の仕事なら、風呂掃除と新しいお湯を張るのが英治の仕事だった。
別にそう言われたわけではなくて、中学生のころは風呂掃除などやらずに寝ていたが、最近は風呂掃除をやれば褒められることがわかった。だから英治は、風呂掃除をすすんでやるようになった。
『たっだいまー! って、風呂湧いてるし!』
『ただいま英治。お、掃除してくれたのか。ありがとな』
陽気な笑顔が素敵な、何とも憎めない両親が揃って褒めてくれるのは、いや、日常のなかで誰かに暖かな言葉をかけてもらえるのは唯一その瞬間だけだった。
麻薬と同じように、英治は風呂掃除に依存するようになっていった。
「磨くか……」
風呂の水を抜いた後に浮き出てくる垢の塊をみて、何とも言いがたい鈍い臭気を感じながら、英治はそれをスポンジで取り除くことに快感を覚えた。
植物でも、汚れでも何でも良い。英治は何かを消し去ることが大好きだった。小学生のころ校庭の草むしりが好きだったころから確かに表明されていたその嗜好は、中学生のころに道ばたのたんぽぽを引き抜いて捨てた体験から英治自身も自覚するようになった。
何かをこの手で失わせること、この世界から追放してしまうこと……それが英治の快感だった。
両親から褒められることと、消滅の快感を味わうことが、英治の支えだった。
だから英治は、その二つを一度に手にできる風呂掃除を最優先に行う。
スポンジで垢を取り除き、綺麗な風呂釜の面が出てきたとき英治はにこっと笑った。
何かが綺麗になったことが嬉しかったのではない。むしろそんなことはどうだってよかった。
仕上げにすべてをシャワーで洗い流して、英治の最高の日課は終わった。
その頃。
英治が引っこ抜きそこねた道ばたの青い花は、風に揺られて青白い光の粒子をまき散らしていた。
地核の底から根を伸ばし、地表を突き破って顕現した一輪の花は、誰からの注目も浴びなかった。
注目など浴びるはずもない。
真実、その花はそこに存在していなかったのだから。
物質としての存在も果たさぬままに、しかし英治の視界にだけ現れた。
その意味とは何か……英治本人には知る由もないことだった。