3-2 勝利の月光
英治たちが暮らす街にはひとつ、交番がある。
五人の警官が勤務しているが、当番制なので彼らが一堂に会することはない。
陽も沈むころ、いまはたった一人の警察官――菅田がパソコンで勤務日誌を作成しつつ、交番内に棲み着いている仮想生命体――コード:インフィニティとおしゃべりしていた。
「青い花に鎧の闘士……すべて、インフィニティの預言した通りですね」
『だから言っただろう? やっとワタシの力を頼る気になったかい』
「それはまだわかりませんが、しかしお願いしたいことがないと言えば、嘘になる」
『ほう。参考までに、それはどんなことかな?』
菅田はキーボードを高速で打っていた手を止め、黒縁のメガネをそっと外して目頭をおさえた。
この街を己の手で守る。そう決意したからこそ交番への配属を希望し、信念のままに働いてきたというのに。まさか得体の知れない化け物の力を借りることになろうとは……菅田は内心、無力な己を恥じた。
二日前、菅田はコード:インフィニティと出会った。
それは幻影のようなものでしかなかったが、街の高校で事件が起こることを預言していた。
幻影の言葉を信じて業務をするほど菅田は阿呆ではない。同僚にはインフィニティの姿が見えないらしく、いっそうるさい言葉を放つだけの幻影など無視することにした菅田だったが、預言が的中した瞬間、無視できなくなった。
ひとまず高校に直接赴いて事情聴取を開始、教員や当事者生徒たちから話を聞いて幻影の言葉がすべて正しかった事を確かめた菅田は、やむなくコード:インフィニティを頼ることにしたのだった。
「この星を構成する根幹情報にアクセスすることで、世界のすべてを改変できるというのは、本当なんですね」
『本当だと言ったはずだが、どうかしたのかね?』
口にしていて馬鹿馬鹿しいほど、壮絶な力に接触しようとしている……内心は冗談が半分だが、もう半分は藁をも掴む思いで、菅田はその最上位の仮想生命体に自らの願いの一端を伝えた。
「あの高校で起こった事件で死んだ学生たちを、最初からいなかったことにしてほしいのです。そんなこと、本当にできますか?」
一人の大人として、社会人として、何より秩序を守護する警察官として、そんな荒唐無稽なことをさも真剣に口にしている自分が恥ずかしい。
同僚や上官に言えば軽蔑の目を向けられるその願いを、しかしコード:インフィニティは快く引き受けた。
『朝飯前だよ。どの道ワタシも、貴様の願いを叶えなければこの世界に顕現できないんだ。利害が一致している以上は、どんな願いも叶えるさ』
菅田は恐ろしさを感じつつも、こうして彼に願いを託した。彼の口車に乗ったわけではない。菅田は自ら望んで、その力にすがったのだ。
敵同士であるはずの人類と仮想生命体とが同盟を結んだのは、これが世界で二番目の事例であった。
※
空き地にはアオマキグサが一輪、咲いていた。
青白い輝きを放つ不可思議な花は夜の風に揺れ、暗闇に沈む空き地をほのかに照らしている。
武人が花を指さして問いかける。
「お前、これが見えるんだな?」
英治はまだ一言もしゃべってないが、目の動きでわかったのか。
青白い燐光に照らされるなか、アオマキグサを挟んで二人は向かい会う。
「俺は今日、見えるようになったんだ。こんな不気味な花、咲いてなかったはずなのにな」
いつも学校で馬鹿笑いを響かせていた武人の面影はもうない。
教室では常に笑顔を絶やさず、いつも仲間と群れては英治を殴っていた陽気で残忍な顔は、いまや精気の抜け落ちた瞳をぼんやりと浮かべる疲れ果てた顔にすげかわっていた。
口では以前と変わらない強い語調を保っているが、その内心がそのまま表情に表れている。
英治は武人の変化に戸惑いつつも、とはいえこう思わずにもいられなかった。
(いい気味だ)
けして口にできることではないけれど。
「なあ。この花っていったい、何なんだよ」
虚ろな瞳が英治をとらえて言葉を放つ。
英治は首をかしげた。
「僕にも、わからない」
「はあ? んなわけねえだろ、なあ」
武人の声は怒気を帯びた。虚ろな瞳がギラと鋭い光を放ち、短刀のように密かな威容を伝えてくる。
「コウが、言ってたんだよ。この花が見えるのは、クラスじゃコウとお前だけだってな」
「大湖さん?」
「ああ。俺はあいつに、相手にもされなかった」
はあっ、と武人は深くため息をついてうずくまった。顔を下に向けて表情を隠し、両手を強く握って、
「俺はお前が憎かったよ、英治。どうしてコウはお前を選んだんだ。俺じゃなくて、お前を」
意味がわからず、英治は反射的に言葉を返していた。
「大湖さんと僕は、何も」
「そうかよ。お前はそうなんだろうがな、俺は言われたよ、はっきり。俺よりお前の方が良いって」
突然打ち明けられて英治は戸惑うが、とはいえコウはクラスでも随一の美人ではある。言い寄る男子がいてもおかしくないが、まさか武人がすでに声をかけていたとは。
そうして振り返ってみれば、いまではクラスで一定の地位を得ている武人だが、入学当初はどこのグループにもなじめなかった過去を持つ。英治にはその理由がわからなかったが、しかしコウに言い寄って失敗した過去もあるとなれば、それら二つの過去がどこかで結びついていてもおかしくはないとも思える。
とはいえ、コウが武人より自分を評価したという発言は、英治には信じられなかった。確かにコウは自分にだけは話しかけてくれるが、好きだと言われたことは一度もないのだ。
そもそもあんな美人が、クラスの端でいじめられている自分のことを好きでいてくれるはずがない――そう思った英治は、話半分に武人の言葉を聞き流すことにすると、
「僕には、何もわからないよ。この花のことも、大湖さんのことも」
わからない。とにかくその一言に尽きる。花についての知識もなければ、コウの変化に乏しいあの美しい顔から秘めた想いを読み取ることもできない。
正直、こんなくだらない話なんて早く切り上げて帰りたい。武人とは友だちでも何でもないし、ただ殴られるのが怖いから付き合ってやっているに過ぎない。
お前のことなんかどうでもいい。できればそう口にして、早々に立ち去りたかったのだが。
「ふざけんなよ、お前」
武人はついに一歩を踏み出し、アオマキグサを踏みつけつつ英治の胸ぐらを掴んだ。
瞬間、英治の頭が真っ白になった。武人の瞬発的な動作にびっくりした、というのもあるが、同時に胸に怒りが湧いた。
どうして無駄な時間を過ごしている上に、これほど乱暴に扱われなければならないのか。
いつもなら恐怖で目を閉じたところだったが、先ほど武人がコウのことを口にしたせいだろうか、英治は目を閉じなかった。代わりにその瞳はギンと鋭く武人をにらみ据える。
コウが自分を選んだという言葉をそのまま信用するわけにはいかないが、どこか嬉しかったのも事実で、嬉しさはそのまま力に変わる。
「んだよ、お前」
勢いのまま睨んでくる英治の瞳をしかと見つめ、腕を振り上げていた武人はその動きを止めた。
(何だ……殴ら、ない?)
英治は首をかしげると、武人はふっと笑って英治を突き飛ばした。
よりどころをなくした英治はどかっと空き地の地面に尻餅をつく。
武人は英治を笑った瞳で見下すと、
「いい目、するじゃねえか。もっと早くその目が見たかったよ」
吐き捨てるように言うと、武人は何故かそのまま去って行った。
意味がわからない。
英治は尻餅をついた痛みも相まって、こみ上げてきた怒りがますます強くなっていくのを自覚した。
無意味に胸ぐらを掴んで、突き飛ばされて。まさに無駄な時間以外の何ものでもない。
(いったい僕を、何だと思ってるんだよ)
武人の背中が見えなくなるのを確かめてから、英治は勢いよく拳を地面に打ち付けた。
(お前なんて、いつか……!)
けれど、そう思うだけで精一杯だ。
直後、英治は安心してそのまま全身の力をぬいた。
殴られなくてよかった。
そう思っている自分がいて、すぐにもう一人の自分が弁解する。
反撃も反論もする必要はなかった、あいつはその程度の相手だと。
英治は思わず空を見上げた。輝く星々と、白い月。
そして足下を見れば、地に咲く青い花が見える。
はじめて武人を睨んでやった。それが嬉しいと思う自分がいた。