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3-1 栄光の水面

 目的地もないままに歩き始めた英治は、自然、河川敷公園に辿り着いていた。

 午後六時の公園の前には、金色の太陽光に照らされて輝く水面が広がっていた。

 流れて、揺れながらもひたすらに輝いているこの水面に、あの大学生は飛び込んだ。

(苦しかったんだろうに)

 英治は考える、はたして自分なら飛び込むだろうか、と。

(僕には無理、だな)

 いかに毎日が辛くて苦しくても、何となく我慢して漫然と日々を過ごしてしまう。

 だがあの大学生はそうではなかった。

 彼は自らの強い意志を頼りに、ただ我慢するだけの日々から一歩を踏み出し、突き抜けたのだ。英治にはそうとしか思えなかった。そうでなければ、溺れる怖さも苦しさも考慮に入れた上で飛び込むなんてできないはずだ。

 その輝きがただ眩しくて、自然と両手を合わせていた。


「面識、あったの」

 風が吹いた。英治は固まった。突然響いた声に、全身を硬直させた。

 誰も見ていないと思ったから両手を合わせたのに……。

 いま自分がとっている祈りの姿勢を他人に見られるなんて恥ずかしいし、それがクラスメイトとなれば最悪だった。


「ここに飛び込んだ人、確か未遂だっけ」

 コウの平坦な調子の声が流れる。

「でもよくこんな汚れた河に飛び込めたよね」

 背後で響くその声は、それ以上近づいてはこない。英治がどう距離をとるのか、見極めているかのように。

 英治は目の前の輝く水面を見た。言われてみれば、確かにゴミが浮き上がっていた。スーパーのビニール袋、空き缶、そしてちぎれた草の欠片も。

「スーツ着たままって書いてあったから、きっと就職活動で落ち込んで、ってところだろうね。私も一応進学希望だからさ、他人事には思えなくて」

 後ろから声をかけられるのも変な気持ちがしたから、英治は振り返った。

 そして見た、コウの卑屈そうな笑みを。目を伏せていて、唇だけがかろうじて笑みの形を保っている。両手は強く握りしめられていて、かすかに震えていた。

「私の将来、見た気がした」

 声の調子はあくまで平坦で、淡々としている。にもかかわらず、震えている彼女の手が、その心の中を映し出しているかのようで。


「私があんな風になっても、英治くん、さっきみたいに両手合わせてくれる?」

 目を伏せたまま、まるで虚空に語りかけるようにコウは言った。

 一方英治はどう答えればいいのか、正直わからなかった。だから本音を言うことになった。

「わからないけど、でも、きっと合わせると思う」

 学校ではいつも口を開かないコウが、なぜ話しかけているのか。そこにどんな目的があるのか? そんな疑念を感じつつ、しかしコウが心の中にある不安を自分にだけ打ち明けていることだけは理解できた。

 コウが本音を打ち明けてくれているのだから……英治はそう思って、心の言葉を絞り出した。

「こんなところに飛び込むなんて、絶対苦しいってわかってる。でも、それでも、あの人は飛び込んだ。僕にはできないことだから、すごいって思う」

 たとえゴミが満ちていたとしても、いまは確かに金色の輝きを反射して煌めいている。

 その水面にコウが入ることを想像すると、どこか英治は胸がしめつけられたが……しかし、尊敬はするのではないか。

 ひとまずそう結論した英治は、次の瞬間にはコウの笑顔を見た。

 コウは伏せていた目線をあげて、英治と目と目を合わせていた。

 うすく涙で濡れているのか、その瞳は輝いている。

「ありがとう。優しいね、九籠くんって」


 優しい。

 また言われてしまった。悪い気はしないが、良い気持ちもしない言葉だった。

「大和さんにもそう、言われた」

「ヤマトさん? ああ、リンのことね。へえ……あの女と同じこと、私言ったんだ」

 コウは涙を指先でぬぐいつつ、また表情を卑屈な笑みの形に戻していた。

「僕は優しくなんかない、と思う」

 リンの瞳には打ち明けられなかったが、コウの顔には言えた。純粋すぎるリンの瞳とは違う、卑屈な笑顔をコウが浮かべてくれたからか。

 さっきの薄く濡れた瞳には驚いたしきれいだと思ったけれど、英治はやはりコウの卑屈な顔の方が安心できた。

 人前で暗さを隠しもしないその顔が、英治は好きだった。

「僕、ほんとは見たんだ。自殺未遂の、瞬間」

 声が震えた。全身に鳥肌が立った。目を伏せて、足下のコンクリートしか見えない状況にしてようやく言えた。コウの顔が安心できるとはいえ、それでもその顔色を見ながら言える気がしなかった。

「溺れて、もがいて大きな音がして。でも僕は、何もしないで家に帰ったんだ。そんな僕が、優しくなんか」

 それでも結局はコウに打ち明けたのは何故だろう。コウもまた、本音を言ってくれたからか。

 彼女なら聞いてくれる気がしたし、彼女なら真実を言ったとしても微動だにしないと思えた。根拠はないが。


「知ってるよ、私」

 コウは、英治も予想していなかったことを口にする。

「知ってるから、言ったんだよ。優しいって。あの女と、私は違う。何も知らないくせに優しいなんて、言わないよ。だから信じて、私の言葉を」

 知ってる? 何を?

 英治は顔を上げたが、見えたのはコウの背中だった。

 堂々と地に立つ花のように、すっと伸びた背中は震える声で言った。

「九籠くんは、都合が良すぎるんだよ。だから色々、利用される。不良たちにも、あの女にも、私にだって」

 コウはそのまま独りで歩いて行ってしまった。

 その背中を太陽が照らしていたが、彼女の行く先は彼女自身の影に埋め尽くされていた。まるで己の影を踏みつけて歩いているように、英治には見えた。

 彼女の肩は小さくて、ひどく頼りなさげにも見えたけれど、それでも堂々とした威容を崩さない彼女の背中に、ついに英治は何も言えなかった。

 そうでなくとも初めて他人に自分の秘密を打ち明けたから、まだ全身の肌の粟立ちが消えない。

 英治はしばらく公園に立ち尽くしていた。



 結局英治が家に向かったのは午後七時だ。実に一時間以上もの時間を公園で過ごしたことになるが、しかし家に帰っても風呂掃除くらいしかすることがないから問題もない。

 むしろまだ帰りたくない気持ちさえある。とはいっても太陽も沈んでしまって夜の風に冷えた体はこれ以上動きたくないと訴えるかのようにダルかった。

 ほとんど惰性で家に帰った英治だったが、家の前に人影を見てため息をついた。

 またか。

 そう思ったが、今回の人影には見覚えがあった。

 街灯の光に見える、灰色のスウェット姿。寝間着といっていい出で立ちで我が家の玄関をふさいでいるのは、縁田武人だった。

 腕時計を見ながら、『おっせえないつまで待たせんだよ』と言わんばかりに一秒ごとに姿勢を変えている。

 英治は首をかしげたが、しかし嫌な予感がしたからそのままくるりとターンする。

 欠席扱いになっていた武人からまともな言葉が飛んでくるとも思えない。いったいいつから待ち伏せていたのかはわからないが、諦めてもらうのを待つのが得策だろう。

 そう確信したのだが。


「おい、待てよ」


 その声にぴくり、と英治は肩を震わせて止まった。

 英治が立っている場所から武人まではおよそ一〇メートルほどの距離はある。街灯はその間にあり、英治の位置から武人が見えるということは、その逆もありうるということだが、それにしても英治は驚いた。

(なんで気づくんだろ……)

 立ち止まる英治の背中をポンッと叩きつつ、武人が目の前に現れる。

「少し、付き合ってくれ」

 一言。

 武人は言い捨てて勝手に歩きだした。

「え?」

 状況が理解できずぽつんと立ち尽くした英治だったが、

「おい、着いてこいよ!」

 気迫に満ちた声で指示されて、英治は子犬のように武人に従った。


 そうして二人は、電灯の一切ない場所――誰も住んでない民家が隣にある空き地に辿り着いた。

 何も光源がないはずのその場所は、青白い輝きに包まれていた。

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