⑤ナメクジのろのろなにぬねの
29歳で生涯治らないとされる難病にかかり、無気力となった青年、結城内乃介。
ある時、クスリの副作用で幻覚を見るようになった。その幻覚が彼を救うことになるとは?
その幻覚というのは、知的で天真爛漫な舞台女優の卵だった。その女性の名前はホリー。
ホリーは彼を過去の自分の世界や異世界へと連れ出し、彼を幸せの絶頂へと導くのだった…。
⑤ナメクジのろのろなにぬねの
【カフェ「クルル・アイランド」にて】
「いてっぇ」。いきなりの平手打ちか。
そこに現れたのは、見目麗しいとは程遠いひょっとこ顔の遠藤真理だった。
「ちょっとアンタ、バカにしないでよ」と真理は眉間にしわを寄せ、唇を鳥の肛門のようにとんがらせて、テーブルに分厚い札束の入った封筒を叩きつけたのだ。
このシチュエーションは一体何なんだ?
ボクは何か悪い事でもしたのだろうか?
いやっ、きっと拝金主義のサイヤ人である父親の仕業に違いあるまい。
いつものことだ。ボクと親しくしている女性の身辺調査をして、すぐにこんな目に合わせる(ボクの記憶が正しければ、遠藤真理はボクの本当に付き合っている彼女ではない。カムフラージュのはずなのだが…)
家柄が何だって言うんだい。
学歴がなんだって言うんだい。
親父だって愛人を何人もこさえているじゃないか。
それなのに、言えた義理か。
ほんと、馬鹿馬鹿しい。
ハゲ親父こそマヌケなバカ殿に見えてくる。ハハハハッ!
ところで、今のシチュエーションは一体何だったんだ。
そういえば、ホリーが言ってたな。
今は二〇一八年一月だと。
だとすると、今日は一月の何日だ?
もしかして一月三日か?
思い出した。
一月三日は遠藤真理の誕生日だ。
あの日もこんなことがあったっけ。
思い出せない。思い出せないや。
どうして思い出せないんだ。
ボクは頭を抱え込んだ。
あれから三十分以上は経っていると思うが、これっぽっちも思い出せない。
どうしてなんだ。
ボクの頭がおかしいのだろうか?
自分の頭をハンマーで殴ってかち割ってやろうか…。
そうしていると、ホリーが忽然と僕の目の前に現れた。
「そんなに悩まなくたっていいのよ。脳って不思議ね。嫌な記憶は忘れるようになってるのよ。記憶の不快さを守るためみたい。だから、あえて思い出す必要はないのよ」
「ホリー、ありがとう。ボクは頭が狂いそうだったんだ。ホリーのおかげで助かったよ」
「とんでもございません、ご主人様」
「ホリー、ご主人様ってなんのことだよ」
「忘れてしまったんですか? ご主人様が二〇一八年に描いたアニメ。アレですよ。アレ?」
「うーん。アレな………。アッ、思い出したよ。『お願い、ご主人様』! お願い、ご主人様だろ。ヤッホー! ヤッホー!」
「ご主人様ったら、そんなに大喜びにならなくても…クスックスックスッ」
「ホリーが笑った、笑った。本当にキミの笑顔は最高だよ」
「ご主人様、左様でございますか?」
「あっ、また元に戻った。残念……。ところで、あのアニメの主人公がキミなのか。感慨深いものがあるなあ」
「ご主人様、感慨深いものとはどういったことでございましょうか?」
「うーん。特に何でもないよ。ところで、ホリーはこれからずっとそのキャラなのか?」
「いいえ。これは、あくまでも二〇一八年バージョンでございます」
「ということは、いろんなバージョンがあるんだな」
「ご主人様、左様でございます」
「それは面白くなってきたな。ハハハハァ」
「今のワタシは貧しい舞台女優の卵であり、ご主人様のメイドでございます。ですから、ご主人様、何か御用がございましたら、なんなりとお申し付けくださいませ。直ぐに馳せ参じます」
「では、ホリーのハイトーンボイスが聴きたい。聴かせてくれたまえ」
「はい、ご主人様。♪ナメクジのろのろなにぬねの…」
「ホリー、そこにナメクジが…」とボクが言い出した途端、ホリーはキャアーと悲鳴を上げてボクの身体に飛び込んできた。
あとで分かったことだが、ホリーはナメクジが大の苦手だったようだ。
ボクはほんのちょっぴり驚かせるつもりが、意外な展開になってしまった…。
◎登場人物
ボク…結城内乃介。39歳。難病患者。車椅子生活。母を21歳の時に亡くし、資産家の父はその2年後に愛人と再婚。内乃介は父から1億円の小切手を渡されて縁を切られる。ひとり豪邸に住む。
ホリー…結城内乃介が服用するクスリの副作用によって生み出された幻覚少女。推定年齢18歳。東洋哲学・脳神経細胞・心理学に造詣が深い。ホリーの名の由来は、映画『ティファニーで朝食を』でオードリー・ヘプバーンが演じた役名から来ている。
遠藤真理…内乃介の飲み友であり、ニセカノ。ひょっとこ顔。1月3日生まれ。