⑨雷鳥《らいちょう》寒かろらりるれろ
29歳で生涯治らないとされる難病にかかり、無気力となった青年、結城内乃介。
ある時、クスリの副作用で幻覚を見るようになった。その幻覚が彼を救うことになるとは?
その幻覚というのは、知的で天真爛漫な舞台女優の卵だった。その女性の名前はホリー。
ホリーは彼を過去の自分の世界や異世界へと連れ出し、彼を幸せの絶頂へと導くのだった…。
⑨雷鳥寒かろらりるれろ
ピーポーピーポーピーポーピーポー!
救急車のサイレンの音が谷ジイこと谷垣さんのケータイから聴こえてくる。その音のせいで谷ジイの声がかき消されて、何を言っているのかハッキリしない。
ボクは、イライラするが、相変わらずの無動状態でなす術もなく、心を落ち着かせるためにホリーから貰った笑顔の焼き栗をじっと眺めるしかない。それでも、これがあったお陰で気持ちは治まった。
「早く治りますように。これ置いておくよ。これをワタシだと思って……」
ホリーの言葉。ほんの数時間前の出来事なのに、妙に懐かしくさえ思える。
☆ ☆ ☆
次の瞬間、やっと谷ジイの声が鮮明になった。
「お嬢さんが、お嬢さんが……」
「ホリーがどうしたんだ?……谷ジイ! 谷ジイ!」
「お嬢さんが倒れました。これから詳しく診ていただくところでございます。生命には別状はなさそうでございます。お坊ちゃんはご心配なさらずに、どうか……良寛先生のように 自然に身を任せるのがよいでしょう。少し偉そうなことを言ったようで申し訳ございません」。良寛先生とは、江戸時代に仏教の修行を積んで、悟りを開いた偉大な人物だ。
ボクはアキネジア【無動】―――全く動けやしない。
ホリーが救急搬送された病院へ行くことさえできやしない。
ボクは、これでも生きていると言えるのか?
ボクは、ホリーを助けることもできないのに……。
ボクは、ホリーのそばに行くことさえできないというのに……。
それでも、ボクの存在理由はあるというのか?
ボクの存在理由って一体何なんだ?
誰か教えてくれないか?
☆ ☆ ☆
それから約二時間後のこと。
ホリーが目の前にいるではないか。
「ホリー、ホリー、大丈夫だったのか?」
「うーむ、どうかしらね。♪雷鳥寒かろらりるれろ……。谷垣さ〜ん!」。ホリーは谷ジイの方を振り向いて笑顔ではぐらかす。
「谷ジイ、どういうことなんだ?」
「お坊ちゃん、お嬢さんが救急車で運ばれた時はどうなるか心配で……。でも、この表情で分かっていただけませんかね」
「谷ジイ、何が分かるっていうんだい」
「お坊ちゃんは、まだまだ修行が足りませんなあ。ハハハァ」
「ウーン、イラつくな。その笑いは何なんだ?」
「お坊ちゃん、それは私の口から言うのは気が引けます」。谷ジイはそう言いながらも満面笑顔だ。
「ホリー、じれったいな。何なんだよ。この妙な雰囲気は……」
ホリーが徐に椅子から立ち上がり、
「じゃじゃーん。♪雷鳥温かろらりるれろ……。雷鳥も温まったようなので発表します。結城内乃介―アナタ、お父さんになるのよ。だから、ワタシはお母さんね」。
「パーン、パーン……」。そこに集まってくれた皆んなが耳が痛くなるくらいに祝福のクラッカーを鳴らしてくれた。
「ええ~。このボクが……。ホリー、ありがとう。スパシーバ。皆さん、ありがとうございます」。ボクは思わず嬉しくて泪が出そうになった。
「そうよ。このボクちゃんがお父さんになるのよ。どう、今の心境は?」
「そうだな。M七十八星雲(千六百光年)くらい嬉しいよ。本当ならキミを抱きしめたい……でも、この状態だから許してくれ〜」。ボクはアキネジアの状態を恨んだ。ほんのちょっぴり。いや、本音は恨んでないのかもしれない。ハンディがあることによって、逆にボクの幸せは倍増している。
「代わりにワタシからほっぺに……」。
ホリーはボクに祝福のキスもしてくれた。
ボクは最高の気分だった。ホリーがボクの子どもを身ごもってくれるなんて、神様は捨てたものではない。
「アナタ、驚かせてゴメンね」
「良いんだ。こういうハッピーなニュースなら幾らでも歓迎だよ」
「じゃあ、もう一つ良いニュースを……」
☆ ☆ ☆
この時、ボクは有頂天になっているあまり、すっかり忘れていたことがあった。
ホリーは、二〇三〇年にボクが服用していたクスリの副作用によって誕生した幻覚少女だということを……。
◎登場人物
ボク…結城内乃介。39歳。難病患者。車椅子生活。母を21歳の時に亡くし、資産家の父はその2年後に愛人と再婚。内乃介は父から1億円の小切手を渡されて縁を切られる。ひとり豪邸に住む。
ホリー…結城内乃介が飲むクスリの副作用によって生み出された幻覚少女。推定年齢18歳。東洋哲学・脳神経細胞・心理学に造詣が深い。ホリーの名の由来は、映画『ティファニーで朝食を』でオードリー・ヘプバーンが演じた役名から来ている。
谷垣さん…結城内乃介が幼いころから住んでいた大邸宅の執事。内乃介が難病であることを知って、彼を助けるためにM78星雲のパンドラ星へ行くことに。68歳。




