①アメンボ赤いなあいうえお
29歳で生涯治らないとされる難病にかかり、無気力となった青年、結城内乃介。
ある時、クスリの副作用で幻覚を見るようになった。その幻覚が彼を救うことになるとは?
その幻覚というのは、知的で天真爛漫な舞台女優の卵だった。その女性の名前はホリー。
ホリーは彼を過去の自分の世界や異世界へと連れ出し、彼を幸せの絶頂へと導くのだった…。
①アメンボ赤いなあいうえお
ボクの中の悪魔が時として自らをどん底に陥れるのだ。
「お前のことが世界で一番好きだ」。「愛している」。「ずっとそばにいたい」。などということをキミに叫びたい。東京の渋谷や新宿といった大勢の人々がいる前でだ。そう叫びたくて仕方がない。ボクはイカれているのかもしれない。いや、相当にイカれまくっているに違いない。
しかし、言いたくても言えないんだよ!
それはボクにとっては叶わない夢だからさ…。
その言葉は、彼女に言ってはいけない。何があろうともな…。読者諸氏は、好きなら好きと言えばいいではないかと思うだろう。
しかし、ボクは不治の病に侵されているんだ。まあ、『難病』とも言うがな。
恐らく、生涯治ることはない。
ドクター丘乃からその病名を言い渡された時にはホントまいったよ。
ドクター丘乃はボクの主治医で、難病のスペシャリストなんだ。あちこちの病院から引き手数多のあまり、今はフリーランサーとして活躍中。現代人とは思えないくらいに難病に精通している。まるでボクの聞きたいことが事前に分かっておいでなのか、はたまた洞察力に非常に長けていらっしゃるのか、いずれにせよいつも正確に即答してくれる。正に信頼のおけるドクターだ。
☆ ☆ ☆
ボクは暗闇の長いトンネルに入り込んで、閉じ込められてしまった。それからというものは、トンネルの中で果てしなく続く暗闇を楽しんでいるところだ。楽しまなきゃ、生きちゃいけないからね。この長いトンネルは今もこうして果てしなく続いているのさ。これがまぁ、ボクの生きる道ってとこかな………。
それは十年前のボクの誕生日から始まったのさ。ボクがまさかこんなとんでもないバースデープレゼントをもらうなんて思ってもみなかった。
その暗く長いトンネルは、来る日も来る日も続いていて、一向に抜け出ることができないんだ。明かりが見えないんだから、出口にも出られないってわけさ。当然と言えば当然の話。
昨日もそうだった。
今日も今のところそうだ。
そして明日も、明後日も、明々後日もきっとそうなんだろう。
それが現実なんだよ。
それがありのままのボクなんだ。
ボクは日々、絶望の状況に立たされているってわけなんだ。
それ故に、望むべくもないこの日々の絶望的な苦しみを愛する人と共有することなどできるわけがないじゃないか。
それって、残酷すぎるだろう。
この苦渋を味わうのは、ボクひとりで沢山だ。
そうだろう。
そうは思わないか?
だから、ボクは自らこの生命をいつ捨てても構わないと思っている。
ボクなど高麗国の核ミサイルに撃たれて死んでしまえばいいんだって。
バカげているけれど、そう思ったりすることさえもあるんだ。
ボクの中の悪魔が、囁くんだよ。
「オマエナンカ、ハヤククタバッチマエバイインダ」ってね。
☆ ☆ ☆ ☆
歩行がほぼ困難になった三年前のこと。
ある覚悟を決めた。
彼女とはもう会わないことに決めたんだ。
彼女とは二十年近く付き合っていたから別れたくはなかったけれど、この先のことを考えれば仕方がない。
ある意味、卑怯かもしれないが、彼女には別れの言葉さえも伝えなかった。
と言うよりか、彼女に伝える言葉が見つからなかったのだ。
正直な話…。
彼女と会った最後の日のこと。
行きつけのカフェ『アンジェリーナ』で彼女はいつものカフェ・モカを、ボクはいつものホロ苦いブラックコーヒーを飲んだ。
そして、ボクと彼女は最近の出来事やふたりが出会った頃の懐かしい思い出話などをしながら笑いあって、あっという間に時間は過ぎていった。
ボクはこれから病院に行かなければならない。
彼女とはいつもの様に軽くハグして別れた。
「ちょっと待てよ。彼女を追いかけるんだ」。ボクの心の声が叫んでいた。
気づいたら、無国籍駅のプラットホームに立っていた。
停車している電車に乗っている彼女の姿を、ボクは遠目に見つめていたのだ。
近づけば泪が出そうなくらいだった…。
電車が出発するまでには、三分ほどの時間があった。
ボクは、ただこの時間が永遠に続くようにと願った。
あっという間の三分だった。
カップラーメンが出来上がる三分はとても長く感じられるのに……。
あー。無情にも電車のドアが虚しく締まろうとする。
ア~~~。
その刹那、ボクは彼女に向かって力の限り右手で手を振って大きな声で「好きなんや」と叫んでいた。
その声が彼女に届いたかどうかは分からないが、彼女は電車の中からとてもステキな笑顔でボクに大きく手を振ってくれた。
ボクは本当にそれだけで十分だった。
★ ★ ★
なのに、その後のボクは本当にどうしようもないクズ野郎になってしまった。
それから三年も経つというのに、彼女とはいまだにSNSで繋がりを持とうとしているんだ。
「俺、最近引越したんだ」とかね。ボクは今更何を期待しているんだろうか。
まともに歩くこともできないくせに。
まともに抱きしめることさえできないくせに。
それに、セックスだって思うようにできないくせに。
何を考えているんだろうか?
ボク。ほんとマヌケだろ。
いまだに彼女と終止符を打つことができないんだ。
ボクって最低だよな。
なんて弱い人間なんだろう。
それに加えて、ここ数年、生きた心地がしないんだ。
大量のクスリ漬けで思考力が破壊寸前だからだろうか。
頭が朦朧として時には記憶が飛ぶんだ。
クスリの副作用で見えないモノが見えたりする時がある。
そして、ある雨の日の午後のことだった。
「♪アメンボ赤いなあいうえお……」
えーっ、誰もいないのに…。ボクは背筋がゾクッと寒くなった。
再び、「♪アメンボ赤いなあいうえお……」。若い女性の透き通った声が聴こえて来るではないか。
何処かで聞いたことのある声。
遥か遠い昔……何処と無く懐かしさを感じる。
確かに、その女性の声のようではあるが、なぜか顔や身体ははっきり見えない…。
朧げにしか見えない。
だが、それが時に鮮明になる時があった。
雨の日の午後には……。
とても不思議な気がした。
鮮明な時は、どう見ても普通の人間なんだ。
ボクには、そういう風に見えた。
そう実感していただけなのかもしれないが……。
★ ★ ★
それから、雨の日の午後には必ずといっていいくらいにその女性はボクの隣に居座っていたのだった。
これも偏にクスリの副作用がもたらしたものではあったが、それは図らずもボクの唯一の楽しみとなっていった。
その女性のことが日にちが経つにつれて少しずつ分かってきた。
おっちょこちょいだが、初々しくて、とてもかわいらしいってことが…。
そして、その女性の笑顔は、ひと時のコーヒーのようにボクの苦しみを和らいでくれるようになっていった。
その女性は高校生の時に演劇部だったのだろうか。ボクの隣で時々、発声練習をするんだ。
「♪アメンボ赤いなあいうえお……」
ボクは、天使のようなその女性の透き通るような美しい声とほんのりとエクボができる笑顔がとても好きになっていったんだ。
だから、今のボクはその女性からその眩しいほどのキラキラした笑顔が消えることを一番恐れているのかもしれない。
◎登場人物
ボク…結城内乃介。無限国六麓荘出身。永遠の39歳。難病患者。車椅子生活。無限国対馬出身の母を21歳の時に亡くし、ヤバンスキー国出身のサイヤー人である資産家の父はその2年後に愛人と再婚。内乃介は父に1億円の小切手で縁を切られる。豪邸に住む。
ホリー…結城内乃介が服用するクスリの副作用によって生み出された幻覚少女。推定年齢18歳。東洋哲学・脳神経細胞・心理学に造詣が深い。ホリーの名の由来は、映画『ティファニーで朝食を』でオードリー・ヘプバーンが演じた役名から来ている。
ドクター丘乃…難病に関して一目置かれているフリーランサーのドクター。結城内乃介の主治医でもある。額に斑紋を持っているが、普通は髪の毛で覆い隠している。化石のコレクター。自称48歳。