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15歳

破舟―ワレブネ

作者: 梨本みさ

 情けないって、思われるだろうか。中三にもなって、って。男のくせに、って。情けないよな。そんなの自分が一番良くわかってる。でもしかたないじゃないか。怖いものは怖いんだから。




さとし、また今日も休むの?」

「うん。ちょっと最近、腰が痛くて」

「いや、絶対それ運動不足が原因だって」

 芳生よしき賢辰けんしんに挟まれながら階段を下りる。次の授業は体育だ。

「じゃ、俺、保健室行くから先生に言っといて」

「おまえ、腰痛なら別に保健室行かなくたっていいだろ」

「だってさ、見学してると先生にすっげえこき使われるんだもん」

 とにかくよろしく、と階段の下で二人と別れる。彼らは不服そうな表情をしながらも、時間に余裕がないため体育館へ向かった。その背中を見送ると、少し寂しい気分になる。

 二人が体育館への渡り廊下へ消えたのを確認し、教室に戻る。保健室に行くつもりなどない。

 先生が廊下を通っても気づかれないように、教室の廊下側の壁に背をつけて座り、英単語帳を開く。

 これで、体育の授業をサボるのは何回目だろうか。それでも、最近は以前より出席している。以前は三回に一度は休んでいた。風邪を引いたとか、適当に理由をつけて。授業変更で体育が二時間あった日は、学校ごと休んだ。

 今だって、本当は体育は出たくない。けれど、母さんにバレてしまったのだ。


「理、体育いつも見学してるんだって?」

 梅雨に入って間もないころ、夕飯時に電話が鳴った。電話に出た母さんは、俺をちらりと見て別の部屋に移動した。「いつもお世話になっております」と言っていたから、学校からかもしれないという予想はついていた。

 そして五分くらいして戻ってきた母さんは、子機を片付けながら俺にそう尋ねた。母さんの顔が見られなくて、俺は俯いてしまった。肯定の印だった。

「どうして? 理、運動嫌いじゃなかったでしょう?」

「……前、走ったらすごく苦しくなったことがあって、それで……」

 嘘だったけどそれを言うと、母さんは押し黙った。

「そう……だったの。苦しくなるって、過呼吸みたいな?」

「ん……まあ」

「じゃあ、病院に行ってみた方がいいわね。呼吸器系とか、どこか悪いのかもしれないし」

 本気で心配の色を見せる母さんに慌てる。母さんは、少々過保護気味な所があった。ごめんなさい、嘘なんだよ。

「いいよ、そんな。たぶん大丈夫だから」

「そう……? また苦しくなることがあればすぐに言いなさいね。……でも、そんなに激しい運動をしない時だってあるんでしょ?」

「……うん」

「そういうときだけでも、授業は出なさいよ」

「うん。……ごめんなさい」

 膝の上で拳を握り謝ると、母さんは柔らかく笑って俺の頭に手を乗せた。

「ううん。お母さんも、何も気がつかなくてごめんね」

 そんな母さんを見ていると、恥ずかしさと申し訳なさで泣きたくなった。ごめんなさい、ごめんなさい、と心の中で何度も彼女に謝った。

 その日以来、体育に出席するようにしている。これ以上、母さんに心配を掛けるわけにはいかないから。体育を休んでいた本当の理由が、決して彼女に知られてはいけないから。


 体育の担当の尾野先生は、今春から赴任してきた三十代半ばの男性教諭だ。ガタイがよくて、いかにも体育教師、といった体型だ。見た目は厳ついが、意外とノリがよくて明るく、生徒達からも慕われている。授業中サッカーやバレーボールに混ざると、大人気ないと言われながら中学生相手に本気でプレイする。生徒が悪いことをすればきちんと叱る。生徒に正面からぶつかってくる。いい先生だ。そう思う。

 だけど、俺には、無理なのだ。怖いのだ。彼が、どうしても。

 春先の頃、一部の女子が着替えに時間をかけ、授業に遅れるということがしばしばあった。明らかに人数が足りないとなれば先に授業を始めることもできず、さらにその遅れた女子たちは特に急ぐ様子もなく、男子の中にはイライラしている人もいた。それで、尾野先生がみんなの前で彼女らを叱ったのだ。おまえたちはみんなの時間を奪っているんだぞ、と。声を、張り上げて。つまり、怒鳴って。

 その声が、似ていたのだ。父親の怒鳴り声に、ものすごく。

 思わず目をつぶると、目蓋の裏側に昔の記憶が蘇った。怖くなって、さらに強く目を閉じれば閉じるほど、その記憶は鮮明なものになっていった。

 両腕で身体を掻き抱いていると、尾野先生の口調は急に元に戻り、「授業始めるぞー」と言った。目を開けみると、さっきまで怒っていたという欠片も感じられないほどにいつも通りの先生がいた。そんな感情の切り替えが早いところも、生徒の人気を集める理由の一つであろう。その日以来、女子たちの遅刻はなくなった。準備運動で組んでいた芳生に「先生めっちゃ怒ってたね。びっくりした」と暢気に話し掛けられ、やっと気分が落ち着いたが、それから尾野先生が怖くなってしまったのだ。


 俺の父親は、最低な男だった。幼い頃の記憶は曖昧だが、それでも彼のことは恐怖という感情と共に覚えている。

 父は、よく母さんに暴力を振るっていた。少しでも気に入らないことがあったり、機嫌が悪かったりすれば、すぐに母さんに手をあげた。

 俺も殴られた。蹴り飛ばされた。何度も、何度も。意味の分からない怒声を浴びせられながら、抵抗の仕方もわからずに彼の暴力を受けていた。

 そんなとき、必ず母さんが俺を庇ってくれた。理には手を出さないで、と叫んで自分が殴られていた。父がいなくなると、「ごめんね、痛かったでしょう。怖かったでしょう」と言いながら何度も俺の殴られたところを撫でてくれた。「大丈夫。お母さんがいるからね」って抱きしめてくれて、俺はただただ彼女に縋っていた。

 顔にできてしまった痣を気にしてか、母さんはあまり俺を学校に行かせてくれなかった。だから友達もいなくて、俺にとっては母さんが全てだった。

 家では最低な父は外面だけは良く、しっかりと働き近所付き合いも良かった。だからこそ母さんには余計キツかったのだろう。母方の祖父母はとうに亡くなっており、相談できる人もいなかったのだ。

 そして八歳の夏休み、母さんと共に家を出た。

 電車に何時間も揺られ、ようやく着いたのが今暮らしているこの街だ。この街で、母さんと二人きりの生活が始まった。母さんは仕事を始めた。俺は友達ができた。一番最初にできた友達が、近所に住んでいた芳生だ。彼を家に連れてくると、母さんはとても喜び芳生を出迎えた。

 仕事も家事も俺の育児もすべてこなしていて忙しかったはずなのに、彼女はとても生き生きしていた。毎日が明るくて、過ごしやすくて、楽しかった。経済的に余裕はなかったものの、順風満帆な生活だった。

 引っ越してから一度も、奇妙なほどに、父の話はしていない。俺と母さんの生活に、父はもう関係ないのだ。だから、今更父のことを話題にあげたりしちゃ、いけないのだ。


 授業終了のチャイムが鳴る。単語帳を閉じ、大きく息を吐く。今になって、体育をサボったことへの罪悪感が生まれてきた。でも、今日は許してよ、母さん。朝、先生の怒鳴り声を聞いてしまったんだ。やっぱり、怖いんだよ。思い出しちゃうんだよ。一時期の、先生の顔を見ただけで震えてしまったころよりはマシになったと思うけど、それでもダメなんだ。母さん、ごめんなさい。今日だけだから。次の授業からはちゃんと出るから。

 脳内にあの怒声が蘇る。父の声なのか尾野先生の声なのか、わからなかった。


 その日の昼休み。校内にエレベーターがないため、給食は教室ではなく一階のランチルームで全校生徒が一緒に食べることになっている。そして給食を食べ終え、芳生と賢辰と教室に戻る途中だった。

「濱田」

 突然後ろから名前を呼ばれ、肩が跳ね上がった。尾野先生の声だった。心臓がドクドクと波打つ。

「濱田、ちょっと、いいか?」

 振り返ると、尾野先生は控え目に俺を手招いた。

 小さく頷き、芳生と賢辰に「先行ってて」と促す。二人は躊躇うような仕草も見せたが、「じゃあ」と言って歩いて行ってしまった。

「ここじゃ、アレだしな」

 そう言って尾野先生は、俺に背を向けて歩き出した。ついて来い、という意味だ。ちょっと、悩んだ。逃げるなら今だ。だが、逃げたところで、それは問題を先延ばしにするだけでしかない。

 先生の後ろを追う。たどり着いたのは、生徒指導室。まだ何も話していないのに、既にげんなりした。

 先生は俺を部屋に押し込むと、後ろ手に扉を閉めた。廊下の喧騒が遠退き、悪寒がした。

「まあ、座れや」

 部屋の真ん中に長机が二つくっ付けてあり、それを挟むようにパイプ椅子が四つ並んでいる。廊下側のパイプ椅子を指差し、先生は奥の椅子に腰を下ろした。

 俺は、突っ立ったままでいた。ちらりと窓に目をやると、黄色地のカーテンが引いてあった。

 未だ逃げ道を探そうとしている俺に気づいたのだろうか。先生は笑った。

「安心しろ。いくらおまえがかわいい顔してるからって、襲ったりしねえから」

 そんな心配はしていませんが。

 でも先生のふざけた口調に少しだけ緊張が和らいだ。それに、いつかこうなることは覚悟していたではないか。

「わかってるとは思うが、体育の事なんだけどな」

 俺が椅子に座ったのを確認して、先生は話し始めた。

「今日、宇治山から保健室に行っていると聞いたが、鳴海先生に聞けば、保健室には来なかったそうじゃないか」

 肩に力が入る。

 怒られる。怒鳴られる。尾野先生は、しつこくネチネチと嫌みったらしい説教は嫌う。一喝して終わらせることが多い。

「あの時間、何をしていた?」

「……教室に、いました」

 嘘をついたところで無駄なのはわかってる。正直に答える。蚊の鳴くような声しか出ないのが恥ずかしい。

「教室で、何をしていた?」

「特に……。あ、勉強したり、とか」

 先生は「そうか」と、腕を組み背もたれに寄りかかった。

「最近はちゃんと出ていると思ったんだけどなぁ」

 まるで独り言のように呟く先生に、「すみません」と小さく謝る。先生はまた俺に視線を戻した。

「なあ、春の頃ちょいちょい休んでいた理由、そろそろ教えてくれないか」

 俺が俯くと、先生はため息を吐いた。

 仮病なんてとっくにバレているのだ。

「運動も、そんなに苦手ってわけじゃないよな? 担任に聞いたけど、去年までは体育を休むこともそうなかったそうじゃないか。他の授業も真面目に受けてて、成績もいいって聞いたぞ」

 スラックスの膝を握りしめる。どうしたらいいかわからない。早く教室に戻りたい。

「あ、そうそう。前に学校から電話がいったことあったろう。濱田の担任に相談したらちょっと飛躍しちゃって……。濱田と直接話す前に、勝手なことして悪かったな」

 頬を掻きながらばつが悪そうに笑う先生に、首を横に振る。でも、確かにあの電話がなければ母さんに余計な心配させることもなかったよな、とも思う。

「なあ、濱田。体育嫌いか?」

「いえ……」

「じゃあ、俺が嫌いか?」

 ガバッと顔を上げ、強くかぶりを振る。違う、そうじゃないんだ、と心の中で叫ぶ。

「でも、俺が担当になってからじゃねえか」

 違います。違うんです。先生のことは嫌いじゃないんです。ぼくが嫌いなのは、あなたの声なんです。

 わかってよ。気づいてよ。読み取ってよ。

 言わなければ伝わらない。そんなこと知ってる。でも、言えるわけがない。どう言えってんだよ。父のことを思い出すからだって? 小学生のガキじゃあるまいし。そう思われて終わりじゃないか。

「言えないような事か? 別に、俺はおまえを叱ろうと思って呼び出したわけじゃないんだ。生徒全員まではなかなか目が届かないから、おまえのこと、気づいてやれてなかったなと思って」

 先生の言葉が本気であればあるほど、俺にはつらい。きっと、迷惑なんだろうな。先生にも、母さんにも。やっぱり、話したらだめだ。余計な重荷を背負わせちゃいけない。

 俯き加減に首を横に振る。先生は「わかった」と言ってくれた。

「いつでも話は聞くからな」

 緩く頷くと、先生は笑った。そして「もう行っていいぞ」と立ち上がる。

 部屋から一歩出たところで、また「濱田」と呼び止められた。

「次の体育は必ず出ろよ」

 頷いて「はい」と返事をすると、先生は「じゃあな」と手を振った。


 教室に戻ると、芳生と賢辰は窓際の席に向かい合う形で座っていた。芳生はスケッチブックに鉛筆を走らせていて、賢辰は将棋の駒をドミノのように並べている。俺に気づいた賢辰が顔を上げた。

「理、おかえり」

「ただいま」

 俺の表情を観察した賢辰は、ほっとしたように微笑んだ。ちょっとむず痒くなる。賢辰が、俺の事を本当に心配してくれていることがわかるから。尾野先生が怖いことは、賢辰にも、芳生にも言っていない。でも彼らは、俺が体育を休む理由をしつこくは聞いてこない。俺から話すのを待っているのだろう。

 でも、ごめんな。二人にも、言えそうにないんだ。

 全ての駒を並べた賢辰は、一番端にある駒を人差し指でつついた。パタパタときれいに倒れていった。

「一局指すには時間ないね」

「そうだな。挟み将棋でもやるか?」

「やるやる。挟み将棋なら賢辰にも勝てるし」

 歩兵だけ残して他の駒を片付け、将棋盤を広げる。賢辰が家から持ってきた将棋だ。芳生はスケッチブックから顔を上げない。いつものことだ。昼休みは大抵俺と賢辰が将棋を指し、芳生が隣で何やら絵を描いている。描いているのがあたりまえすぎて、最近は何の絵かも気にしなくなってきていた。

「あれぇ? 理、いつの間に帰って来てたの?」

 駒を並べ終わったころ、ようやく芳生が顔を上げた。芳生はいつもこんな感じだ。賢辰は呆れたように嘆息した。

「おまえさ、その集中力、もっと他のことに使えねぇの?」

 芳生は「えへへ」となぜか照れたように笑い、今し方描いていたページを俺に向けた。

「どお?」

 ページの中には、あどけなさの残る少年と、後ろで髪を結った女性。少年は女性の後ろに身体を隠し、顔だけ覗かせている。引っ込み思案な息子と、それに苦笑いを浮かべる母親。すぐに誰かわかった。俺と母さんだ。

「すげえなぁ」

 賢辰が絵を覗き込みながら呟く。

「これ、理とお袋さんだろ? よくこんなふうに特徴掴めるよな」

 芳生は勉強はからっきしだ。けれど、絵は上手い。本当に、才能を感じるほど。風景画から人物画まで、何でも描けてしまう。

 だが、なんとなく、この絵には違和感を覚えた。

「母さん、こんなきれいじゃないよ」

 一番気になったのはそこではないが、少々婉曲に尋ねてみる。

「理のお母さん、美人だよ。なあ」

「あぁ。お袋さんはこんなだけど……、なんか、理、幼くないか?」

 そう、そこだ。確かに俺は背が低くて童顔で、実年齢より若く見られがちだが、この絵の俺は幼すぎる。そもそも、構図がおかしいだろ。

「こっちに引っ越してきた頃の理とおばさん」

 芳生はスケッチブックの向きを戻し、色鉛筆を手に取った。

「理って、転校生だったの?」

 絵に色を入れていく芳生の手元を見ながら、賢辰が尋ねた。

「うん。小二の時に、越してきた」

「ふうん。なんで?」

「親が、離婚して」

「あぁ、そっか」

 母子家庭だったな、と呟きながら彼は駒を進めた。俺も適当に動かす。

 芳生とは家が近所のこともあり、引っ越してきてからずっと一緒にいた。お互いの親からは、兄弟みたいだと言われる。

 賢辰と仲良くなったのは、今年に入ってからだ。四月のある日の昼休み、芳生が欠席で暇だった俺は、教室の窓から外を眺めていた。その時に話しかけてきたのが賢辰だった。背が高くて近寄りがたい印象だった彼だが、話してみれば少し大人びただけの同い年の少年だと実感した。

 それからは、俺から賢辰に話しかけ付きまとうようになった。芳生も俺たちの側で絵を描き始め、今の三人の形になったのだ。

 背の低い俺と芳生、背が高くて大人っぽい賢辰という組み合わせに、クラスメートからは「親子」と揶揄されることもあった。

 芳生の描いた絵をちらりと見る。俺と母さんの二人で完結した親子だ。父親のいない形こそ、俺たちの親子だった。



 その日からは、また体育にちゃんと出席するようにしている。最近は尾野先生の怒鳴り声も聞いていない。おかげで校内で緊張することもなくなってきた。

 なのに。

 タイミングが悪いにしても、こんな最悪でなくたってよかったのに。


 三年生は、夏休み直前に三者面談がある。三日間授業は午前放課で、午後に順に面談が行われる。

 俺は最終日の前半だった。面談では、大した話はなかった。成績は良い方だから、受験も北高じゃないなら問題はない。今からでも頑張れば北高も十分射程圏内。それを聞いた母さんは「すごいじゃない」と嬉しそうに笑っていた。一番大事な受験に関する話はすぐに終わってしまい、学校での様子、家での様子、最終的には夏休みの予定の話にまでなり、三十分の面談は終わった。

「理、どうせなら高山高校じゃなくて、北高に挑戦してみたら?」

 階段を下りながら、母さんはやはり嬉しそうに言った。高山高校に志望校を絞りつつある俺は、曖昧に首を傾げる。

「お友達はどうなの? 芳生君は?」

「あいつは成績悪いから西高」

「あら、そうなの? じゃあ、あの子は? ほら、ちょっと前に仲良くなった、背の高い……」

「賢辰は、高山か北で迷ってるって」

 賢辰はすごく頭が良い。学年順位は一桁だ。なのに「理が高山なら俺もそうしようかな」なんてほざいている。

 北高を目指すのもいいかもしれない。ふと思う。俺が北高と言えば、賢辰だって北高にするだろう。どのみち芳生とは離れてしまうし、どうせなら上を目指してみようか。

「まだ時間はあるし、考えてみるよ」

 そう俺が母さんに返事を出した時だった。父親の、もとい、尾野先生の怒鳴り声が校内に響いたのは。

 母さんはびくりと震え、とっさに俺の手首を掴んだ。俺は、完全に足が竦んでしまっていた。すると、また尾野先生の声が聞こえた。

「おまえたちがちょっとふざけてしたことが、誰かの大怪我に繋がるかもしれないんだぞ! わかってんのか!?」

 母さんは俺に縋りつくように腕や肩に触れ、その手は小刻みに震えていた。彼女の反応は異常だった。そのおかげで俺は少しだけ冷静にもどれた。

「あ……、理……」

 俺が守らなければ。何から? なんてことは考えなかった。母さんを守れるのは、俺しかいない。

「母さん、大丈夫だよ」

 母さんの腕を引き、残り数段の階段を下りる。一階の廊下に尾野先生はいた。二年生だろうか。三人の男子生徒が身体を小さくして並んでいる。彼らの周りには、ガラスの破片が散っていた。

 俺たちに気づいた先生が、軽く頭を下げ近づいてきた。

「お帰りでしょうか。すみませんが、今窓ガラスが割れていて危険ですので、そちらの渡り廊下から、」

 母さんが、小さく悲鳴を上げる。そして俺を庇うように抱きすくめた。

 思いがけない母さんの反応に、尾野先生はポカンとした表情を見せた。これは非常によろしくない。「すみません」と一礼し、先生に言われた通り、渡り廊下から玄関へ母さんを促しながら向かう。

 玄関には誰もいなかった。

「声、似てたね」

 生徒玄関の内側に広げられた即席の靴置き場のブルーシートから靴を取りながら、母さんが呟くように言った。まだどこか、心ここにあらずな感じがした。

「うん」

「理、あの人のこと、覚えてるの?」

「うん。さっきの先生の声聞いたら、思い出した」

「そう……。あの先生、何ていう先生なの? 失礼な態度、取っちゃった」

 スリッパをボックスに仕舞った母さんは、靴に足を入れた。俺も下駄箱を開け、履き替える。母さんも俺も、酷く動きが緩慢だった。

「尾野先生だよ。体育の」

 母さんが息を呑む気配が伝わった。

 あぁ、気づいちゃったかな。

「体育……。それで、前、休んでいたの?」

 肯定すれば母さんは傷つく。だけど俺は頷いた。

 一歩近づいてきた母さんは、俺の頭を胸に抱え込んだ。抱きしめられてはいるのだ。慌てる。

「ちょっと、母さん、」

「ごめんね、理。ごめん。何も気づいてやれなくて。何も知らないくせに、体育に出ろなんて言って」

 母さんは涙声だった。泣いているのかもしれない。だけどそれよりも、この状況はまずいだろう。いつ誰が来るかわからないのだから。

 そう思ったそばから、足音が近づいてきた。母さんは気づかない。軽くもがいて腕や背中を叩いてみるが、離してはくれなかった。俺自身も、無理やり抜け出そうとはしなかった。そっと、母さんの背中に手を回した。

 足音はすぐそこまで迫っている。そして遂に、足音の主が姿を見せた。賢辰だった。母さんの肩越しにバッチリと目が合う。彼は、俺と俺を抱きしめている母さんを見て、ギョッとした表情をして下駄箱の陰に引っ込んでしまった。

 ため息をつく。さて、どうしよう。後でなんと言い訳しようか。だが、そんな考えは母さんの言葉を聞いて吹き飛んだ。

「ホントに、ごめんね。怖い思い、たくさんさせちゃったよね。わたしが理をちゃんと守っていれば、今頃、苦しまずにすんだのに」

 違う。それは、絶対に違う。

「母さんのせいじゃないよ。母さん、いつも守ってくれたじゃん」

 だから、そんな言い方しないで。責任を感じないで。悪いのは、全て父なのだから。

「それにね、尾野先生、すごくいい人なんだよ。確かに声は似てるけど、あの人みたいに意味の分からないこと怒鳴ったりしないし、殴ったりもしない。尾野先生が怒るのは、全部生徒のためだから」

 話している途中で、これは母さんにではなく、自分自身に言い聞かせていることだと気づく。そうだよ。尾野先生は、尾野先生は……

「尾野先生は、あの人とは全然違うんだよ」

 ストンと、何かが落ちた気がした。そうだ。そうなのだ。尾野先生は、あんな最低な男とは違うのだ。あんな、自分の憂さ晴らしのために妻や子供を怒鳴って殴るような男と、一緒にしちゃいけないのだ。

「俺、大丈夫だから。体育も、今はちゃんと授業受けてる。もう、大丈夫だから」

 母さんの腕の力が緩む。やんわりとその腕をほどき、母さんを見上げる。彼女は涙が膜を張った目を細めて微笑み、俺の頭に手を置いた。その手つきがすごく優しくて、泣きそうになる。

「理……、ありがとう」

 何に対してのありがとうなのか、よくわからない。ただ言えるのは、母さんの方が心の傷が深いということだ。誰にも相談できずに逃げるようにこの街へやってきて、過去を捨てて生きているのだ。俺という、守らねばならない存在を抱えて。母さんが夜中にうなされていたのを知っている。一人、涙を流していたのも知っている。けれど俺は、母さんには強い母さんでいてほしくて、いつも見て見ぬふりをしていた。母さんの弱いところなど、知りたくなかった。母さんが守ってくれるから、俺は安心していられたのだ。

 でも、もう目をそらさないから。もっと、もっと、強くなるから。俺が、母さんの支えになる。母さんを守ってみせる。

 そう決意して、俺は母さんと帰路を歩いた。




 だが決意は決意。意に思っただけで、実際に行動に移すのは、また別の話のようだ。


 次の日、六限の体育は雨で器械運動だった。器械運動は跳び箱かマット運動の選択で、俺はマットを選択した。芳生と賢辰も同じくマットだ。

 俺たちは体育館の壁際で壁倒立の練習をしていた。安定して壁倒立ができるのは、賢辰だけだ。

「いったぁ!」

 勢い良く床を蹴った芳生が、踵を壁に強く打ちつけ悶えている。賢辰が「勢いつけすぎだって」と笑う。

 そんな二人を横目に、俺は深呼吸をしてから床を蹴った。実技のテストもあるから、できるようにならなければまずいのだ。

 ゴンっと壁に踵が当たる。いつもならその前に足が落ちていたから、嬉しくてちょっと興奮した。

「あっ、ついた、できた、できた? うわっ、うわっ、わわわっ!」

 できた、と思ったのは一瞬で、すぐに身体が横に傾き肘から崩れそうになる。

 と、そこで俺の足首を掴む者がいた。目の前には、細いけれど筋肉のついた足。賢辰だ。

「下向け。目線は手と手の間。肘伸ばして。爪先はピッと。そう、そのまま」

 賢辰の手が離れる。二秒もった。二秒後には左肘が砕け、踵が壁についたままズルズルと横に倒れていった。二人分の笑い声がする。

「扇形が見えた」

「とりあえずおまえに足りないのは腕の力だな」

 賢辰に腕を引かれながら立ち上がる。倒れてしまったが、ちょっとだけ感覚をつかめたような気がした。

「賢辰、もっかいお手本見せて」

 芳生が壁を指差して賢辰に頼む。賢辰は「はいはい」と言いながら床に手をついた。足がスッ、スッと音を立てずに上がる。きれいだ。俺や芳生みたいに変に勢いをつけなくとも、彼は簡単に身体を反転させた。

 感嘆の溜息が漏れる。

 五秒間静止していた賢辰は、また静かに足を下ろした。俺と芳生が拍手すると、賢辰ははにかんだように笑った。

 その時、突然跳び箱の方からガタンと大きな物音が響いた。

 驚いてそちらに目をやると、一番手前側の跳び箱の横に梅宮が倒れていた。思わず息を飲む。彼が倒れていたのは、マットの敷いてない場所だ。傍には跳び箱の最上段も転がっている。木村が跳び箱を回り込んで梅宮に駆け寄るのが見えた。

「何があったの?」

「木村が横から驚かして……」

 シンと静まった中、コソコソと周りで誰かが話している。

 体育館にいた全員に緊張が走ったが、梅宮は無事だったようですぐに起き上がった。なんともないよ、と言って周囲の人に笑顔を向けている。みんなも安堵し、無意識に詰めていた息を吐き出した。

 だが。

「木村ぁ!!」

 体育館の空気を震わしたのは、尾野先生の怒声だった。

「遊びじゃねんだよ! ふざけたことするんじゃねぇ!」

 びくりと肩が跳ね、反射的に目をつむる。尾野先生の怒鳴り声はさらにつづく。まるで、自分が怒鳴られているように感じた。

 怖かった。先生は今、本気で怒っている。普段の説教とは、迫力が格段に違った。必要以上に声が大きくて、無駄に父の声にそっくりだった。

 でも、でも、昨日気づいたではないか。先生は、父とは違うのだと。木村が何をしたのか見ていないが、下手をすれば梅宮は命に関わる大怪我をしていたかもしれない。だから叱っているのだ。自分が満足するためではなく、生徒のために。それに、先生はあの男と違って殴ったりもしない。大丈夫。ここにいるのは、ただひたすら生徒に対して一生懸命な熱血教師だから。

 ゆっくり目蓋をあげる。先生の背中が見える。その向こう側に木村が立っていた。

 木村が拗ねたような顔をして何かを言っている。ここからでは聞き取れない。先生が右手を上げた。

 次の瞬間、肉を打つ音に鼓膜が震えた。先生が木村を叩いたのだ。

 すっと頭の芯が冷たくなる。そして徐々に、別の熱が上り詰めてきた。

 なんで。どうして。どうしてどうしてどうして。

 先生は、あの男とは違うんじゃなかったの? 先生は、人を殴ったりなんて……、しないんじゃ、なかったの? どうして。これじゃあ、あの男と同じではないか。簡単に暴力を振るうあの男と、何一つ、変わらないではないか。

 再び先生の右手が上がる。そこに父と母さんを見た。父は何かを怒鳴り散らしながら拳を振り上げ、母さんは身を守るように小さくなった。父は容赦なく母さんを殴り、蹴りつける。母さんが動かなくなる。そして父がこちらへ振り向く。その顔に、げびた笑みを浮かべて……

「理、見るな」

 賢辰に肩を掴まれ、身体の向きを変えさせられる。膝から、腕から、ガクガクと震えに襲われる。

「理? 大丈夫?」

 囁くような芳生の声が耳に入るが、返事をする余裕がない。もう、立っていられなかった。しゃがもうとすると、賢辰に脇に手を入れられ支えられる。

「とりあえず、更衣室行こう」

 賢辰に肩を抱かれたまま、半分引きずられる形で足を動かす。芳生もついてきていた。

 更衣室に入って扉を閉めると、体育館の音はほぼ遮られた。目を固く閉じてしゃがみ込み、耳を両手で塞ぐ。全てをシャットアウトしたかった。けれど、頭の中にはあの怒声が張り付いていた。何度も何度も反射し、ガンガン響く。さっき見た父の表情が消えてくれない。

 嫌だ。もう、嫌だ。消えてよ。消えろ。消えろ。

 耳を押さえていた右手首をぐいっと引き剥がされる。ついで、左手も。

「目、開けとけよ。何も見えない方が、怖いだろ」

 そっと目を開ける。賢辰が、しゃがんで俺の顔をのぞき込んでいる。彼の後ろには心配げな表情をした芳生がいた。

 ……あれ、俺、何してたんだっけ?

 ええと、ええと……、あぁ、そうだ。あの人がいたんだ。父が。父が、母さんを殴っていたんだ。

 父? いるわけないじゃないか。もう、何年も前に家を出て、それからずっと会っていないはずだ。

 だったら、何なんだ? 何がそんなに怖かったんだっけ? 誰かが誰かを殴ってた。誰が? 誰を? 暴力最低。最低。最低。

 あぁ、だめだ。気持ち悪い。頭がぐるぐるする。脳を全て掻きだしてスッキリしたいよ。

 ガラッと更衣室の扉の開く音がする。

「あのー、濱田、大丈夫? 具合悪いようなら、保健室連れていけって、先生が」

 この声は知ってる。福原だ。賢辰が何か返事をし、俺の肩に手を置いた。

「理、保健室行こう。そのまま休むといいよ」

 賢辰の口調はどこまでも優しい。両手で掬った水を静かにかけてくれるような。

「な、今は休んどこう。疲れてるんだよ、おまえ」

 ほとんど流される形で、俺は頷いていた。


 頭が冴えてきたのは、賢辰に付き添われながら保健室へ行く途中だった。芳生は体育館に脱ぎっぱなしの靴を取りに行ってくれたらしい。

「まあ、真っ青じゃないの」

 養護教諭の鳴海先生は、入ってきた俺を見るなり立ち上がってパイプ椅子に座らせた。

「どうしたの? 今の時間は体育? 熱計ってみて」

 体温計を渡され、とりあえず脇に挟む。

「先生、すみません、ちょっと……」

 賢辰が、鳴海先生を廊下まで連れ出した。一人取り残された室内で、ゆっくり息を吐く。

 賢辰はクールそうなキャラの割に、案外面倒見が良い。人のことをよく見ていて、深いところから理解しようとしてくれる。四ヶ月の付き合いで十分わかった。

 彼には、昨日の母さんとの会話を聞かれてしまっている。「父」というワードこそ使わなかったものの、勘のいい彼のことだ。大体はわかってしまったのかもしれない。

 ピピッ、ピピッと体温計が鳴った。鳴海先生が戻ってくる。その後ろから芳生も入ってきた。俺の足元に靴と靴下を置いた芳生は、「後でね」と手を振って、賢辰と出て行った。

「どう? ……熱はないわね。まあ、とにかく寝てなさい。その紙に名前を書いて。症状とかはいいから」

 流されるままにボールペンを手に持ち、そこで今更ながら焦る。

「あの、俺、別に具合が悪いとかじゃなくて……」

「鏡見てみたら? どう見ても健康とは思えないわよ」

 ため息混じりにそう言った先生は、俺をじっと見て、それからクスッと笑った。

「休んでなさいって。今から授業に戻るのなんて嫌でしょう? 宇治山君からなんとなくの事情は聞いてるから」

 もう、素直に頷くことにした。確かに、授業には戻りたくない。ペン先を出して、渡された紙の氏名欄に自分の名前を書き込んだ。


 一番奥のベッドを使うように言われ、そこに腰掛ける。今までにも何度か保健室の世話になったが、ベッドで休むのは初めてだった。薄緑のカーテンで仕切られた小さな空間は、不思議と心を落ち着かせてくれた。

「鳴海せんせ~、尾野ちゃんに殴られた~」

「すみません、氷かなんかで冷やしてやってくれませんか」

 やけに明るい木村と尾野先生が保健室に入ってきても、全く動揺しなかったほどだから。

「つーか尾野ちゃん、このご時世に生徒殴るとかありえないんだけど。今体罰とかめっちゃ問題になってるのに」

「おっ、えらいな。ちゃんとニュース見てるんだ」

「うっざ。バカにして……」

 急に彼らの会話が小さくなる。おそらく、鳴海先生がたしなめたのだろう。ボソボソした声で俺の名前が聞こえた。それでもしばらく木村と尾野先生の小競り合いは続いていた。

 何でだろう。布団を喉元まで掛けながら、不思議に思う。たったさっきまで、先生はすごい剣幕で木村を叱っていた。木村はみんなの前で先生に叩かれた。なのに、何でこんなふうにすぐになんでもなかったかのように話せるのだろう。

 俺には無理だ。

 だんだん自分が情けなくなってきて、溜め息が漏れる。何が強くなるだよ。何が、母さんを守ってみせるだよ。全然、ダメじゃん。声を聞いただけで気が狂うくらいにビビっちゃってさ。芳生や賢辰に心配かけて、先生にも迷惑かけて。情けない。ダサいとか、カッコ悪いとかより、本当に、情けない。

 もう一度溜め息を吐く。

 それにしても、木村って、案外スゴいヤツだったんだなぁ。叱られてもピンピンしちゃって。

 のんきにそんなことを考えていると、カーテンが波打ち、その木村が顔を覗かせた。そういえば、いつの間にかカーテンの向こう側は静かになっていた。

「よっ」

 愛嬌のある笑みを見せる彼は、左頬に保冷剤を押し当てていた。尾野先生が叩いたところだと思うと、ついそこから目をそらしてしまう。

「大丈夫? 具合悪いん?」

「あ……、ん、大したことない」

「そっか」

 俺の返答に、木村は少しホッとしたように頬を緩めた。

「あのさ、今先生たち廊下で話してて、ちょっとだけ聞こえちゃったんだけど……。濱田、ああゆうの苦手なんだって? ……その、暴力とか」

 少々語弊のある言い方だが、間違ってるとも言えないので訂正はしないでおく。

 ところで、木村はそれを聞いて、知った上でわざわざ俺に確認しに来たのだろうか。だとしたら、先程彼に抱いた感情を取り消したい。コイツは、ただの図々しいだけの無神経野郎だ。

 でも、その無神経さがなぜか今は心地いい。

「誰だって嫌いでしょ、暴力は」

「まあなあ。でも、俺の兄貴は結構好きらしいぜ? そうゆうDVD持ってるし」

「DVD?」

「あぁ、気にすんな。純粋なサトシ君には刺激が強すぎるから」

 木村はからかうように笑い、こちらに近づいてきた。

「まあ、なんつうか、ごめんな。ヤな気分にさせて」

「……木村が謝ることないけど。殴ったの、先生だし」

 俺の言葉に気を良くしたのか、木村は調子に乗り出した。

「ホントだよ。殴ることないよな。しかもアイツ手加減しないし。マジで痛かったわぁ」

 グチグチ言う割に先生を憎んでいる気配のない木村に苦笑する。この場に先生がいなくてよかった。

「暴力教師はサイテーだけどさ、まあ俺にも五パーセントくらいは責任あるから」

「少ねぇな」

 俺が笑うと、木村は何となく嬉しそうな顔つきになる。ひょっとしたら、普段話すことのない俺への接し方に迷っていたのかもしれない。無神経野郎とか思ってごめんな。

「木村君!」

 鳴海先生の少し急いた呼びかけと共に、カーテンがシャッと開いた。そして木村が引きずり出される。

「濱田君具合悪いんだから、ちょっかい出すんじゃないの!」

「あっ、いやん、せんせっ、優しくして」

 再び閉められたカーテンを呆然と見つめる。

 クスッと、笑いがこぼれた。同時に、胸が随分軽くなっていることに気づく。木村に傷ついた様子が全くなかったからだろうか。

 なんだっていいや。今は、不思議と尾野先生を怖いとは感じなかった。尾野先生と父が混同することも、なかった。



 雨が地面に叩きつけられる音で目が覚めた。

 どうやら、保健室のベッドでそのまま眠ってしまっていたらしい。今は何時だろう。授業は終わったのだろうか。

 ベッドから起き上がり、そっとカーテンを開ける。机に向かっていた鳴海先生が、俺に気づき顔を上げた。

「濱田君、具合どう? よく眠ってたみたいだけど、気分良くなった?」

「あ、はい」

 先生の問いかけに簡単に答えながら時計を確認した俺は、自分の目を疑った。

 時刻は五時半を回っていたのだ。授業が終わるどころか、もうすぐ部活が終わる時間だ。

「ホームルームが終わってからお友達が来たんだけどね、ごめんね、帰ってもらっちゃった」

 見ると、長机のそばに指定鞄が置いてある。修学旅行先の北野天満宮で買った白い勧学御守りがぶら下がるそれは、俺の鞄だ。体操着を入れていたバッグもある。今は制服が詰まっているから、若干膨らんでいる。

 なんで? 

 頭に疑問符が浮かぶ。別に、起こしてくれたっていいじゃないか。帰ってもらったって、どういう意味だ?

 賢辰は部活がある。彼は科学部所属だ。せっかく運動神経が良いのにもったいない。それを言うと、彼は「科学部楽しいよ?」と笑う。楽しいなら、いいけど。好きなことをするのが一番だ、とも思うけど。

 芳生は無所属だが、最近放課後はよく美術室に通っている。家で絵を描いていると、親に怒られるのだそうだ。受験生で、ただでさえ成績が悪いのに、と。しかし彼は絵をやめない。絵の具を使いたくなれば美術室へ行く。美術の先生とも親しくなり、最近は鍵も任されているらしい。好きなのだろう、絵が、本当に。

 もちろん、二人には自分のことを優先してもらいたい。これは賢辰だろうが、わざわざ荷造りまでしてもらったことには感謝しつくせりだ。

 だから、この場に二人がいないのは別にいい。全く寂しくないと言ったら嘘が混じるが、そこまで甘えるつもりはない。気になるのは、何で今まで誰も起こしてくれなかったのか、だ。

「濱田君」

 その理由は、鳴海先生が教えてくれた。

「尾野先生が、濱田君と話がしたいって言っているの」

「……はあ」

「この後会えそう? もし嫌だったら、日を改めてでいいって言ってくれてるんだけど」

 日を改めてまでということは、いつになろうとも面談するつもりなのだろう。一生懸命な人だ。

「今日で大丈夫です」

「そう、よかった。じゃあ悪いけど、尾野先生の部活が終わるまでもう少し待ってくれるかな」

「はい。あ、休ませてもらって、ありがとうございました」

 頭を下げると、鳴海先生は「いつでも来ていいんだからね」と笑った。



「助手席乗れ。後ろは荷物あるから」

 学校の駐車場を小走りで走りながら、尾野先生がシルバーの車を指差す。そして自分は運転席に乗り込んだ。遅れて俺も助手席のドアを開ける。

 傘を忘れたことに気づき頭を抱えていた俺に、保健室に訪れた尾野先生は送ってやると言ってくれた。元々そのつもりだったのかもしれない。

 先生の車の中は意外と清潔感があってきれいだった。「意外と」は失礼だろうか。

「さて、おまえんちどっち方面だ?」

「あっちです。えっと、グリーンハイツっていうアパートなんですけど」

「あぁ、あそこか。了解、了解」

 シートベルトを締めると、先生は車のエンジンをかけた。ワイパーをせわしなく動かしながら、発進させる。

 車の助手席に乗るのなんて、何年ぶりだろうか。そんなことを考えながら先生をチラと見上げる。視線に気づいたのか、先生は俺を見やり、しかしすぐにそらした。運転中なのだから当然だ。

 正面を向いたまま、先生は口を開いた。

「濱田」

「はい」

「悪かったな」

「……」

 先生が何について謝っているのかはわかっている。だが、どう答えたらいいかわからなかった。だって、先生は悪くない。先生も母さんも木村も俺に謝ったけど、彼らは何も悪くないんだ。

「鳴海先生から、聞いたよ。俺、怒ったり興奮したりすると、視野が狭くなるんだ。だから、ああいうので嫌な思いする奴がいるとか、考えてなかった」

 フロントガラスに、信号機の赤い光が滲んでいる。ルーフを叩きつける雨の音がうるさい。

「前に授業休んでた理由も、これか? 俺が怒ったりすんのが嫌だったか?」

 先生は今、本気で俺に接しようとしている。それはわかる。だから、適当に返事をすることができなかった。

「先生」

 相手を傷つけないため。自分の身を守るため。そのための嘘や黙秘が悪いことだとは思わない。何事も正直に言えばいいってモンじゃない。俺はそういう考えを持ち合わせた人間だ。

 だけど、本当の誠実さって、なんだろう。

「俺、暴力も暴言も嫌いです。でも、それより、先生の声が嫌いなんです。……怖いん、です」

 正面を向いたまま、先生の顔は見ずに話す。

 昔、父から虐待を受けていたこと。未だ、当時の事を思い出すと怖くてしかたないこと。そして、尾野先生の怒鳴り声が、父の声に似ていること。だから、先生が怖くなってしまったこと。

 一通り話し終えると、先生は「そっか」と呟き、黙りこんだ。沈黙が訪れる。そのままアパートへ着いてしまった。

 アパートの前の駐車スペースに車を停めると、先生はハンドルに頭を凭れかけた。どう声をかけたらいいものかと迷っていると、のそりと上体を起こした先生が顔をこちらへ向ける。彼には珍しい、焦点の定まらない虚ろな目をしていた。

「この、声は、どうなんだ?」

 その目で、覇気のない声色で、俺に問いかけてくる。

「さっき、怒鳴り声が、って言ったよな。じゃあ、普段の声はどうなんだ? これも、似てるのか?」

「いえ。……というか、俺、父の怒鳴ってる時以外の声って記憶にないんです」

「そう、か。……なあ、昨日の放課後、一緒にいたのは母親か?」

「そうです」

「……じゃあ、あの反応はそういうことだったのか」

 先生は両肘をハンドルにつくと、頭を抱えた。そこから長い溜め息が漏れる。

「先生……。あの、俺、別に先生のせいにしたくて話したんじゃないです。先生に責任とか、感じて欲しくないですし。だから、その……」

 気にしないでください。

 そう、言っていいのだろうか。忘れてもらったって構わない。むしろ、そのほうが都合がいい。だけど、自分から話しておきながら忘れろと言うのは、何か違う。あまりに、無責任ではないか。

「きれいな人だったんだけどな」

「……はい?」

 今、ボソッと、変なこと呟きませんでした? 聞き間違いだろうか。そうであってほしい。

「よしっ」

 突然、先生がハンドルの中心部を両手で叩く。プッとクラクションが鳴り、「おっと」と慌てた。

「お袋さんに、挨拶する」

「は?」

 気合いを入れるように拳を見せる先生は、いつもの先生だった。

「は? じゃねぇよ。ほら、降りろ降りろ」

 先生は俺の返事なんか待たずにさっさと車から出て、アパートに歩いていった。慌てて俺も後を追う。

 いつのまにか、雨は小降りになっていた。

「先生! 挨拶とか、そんなのいいですから!」

 昨日の母さんの反応から、また先生に会わせるのは不安が残る。しかし彼は俺を鼻で笑った。

「バーカ。おまえを送ってやったんだから、その礼をもらいに行くんだよ」

「はぁ? いや、意味がわからないですって」

 どんだけ厚かましいんですか、あなたは。

 今なら、そんな軽口も叩けそうだった。叩いてみても、よかったかもしれない。

 先生はずんずん進んでいく。そしてどういうわけか、ぴたりと俺の部屋の前でとまった。

「ちょっと、なんで俺んちの部屋わかるんですか」

「集合ポストに名前あったじゃねぇか。濱田なんて一人だったし」

 やっと先生に追いついた時には、彼はすでにインターフォンを鳴らしていた。

 古いアパートなので大した防音効果もなく、母さんがパタパタと近づいてくる気配を感じた。とりあえず、先生をドアの真ん前から押しやる。

「おい、なに押してんだよ」

「だって、ドア開けていきなりこんないかついおじさんがいたら、恐怖じゃないですか。借金取りみたいな顔して」

「あ?」

「ギャッ! やめてください!」

 一瞬、怒られるのかと思い、身を縮めた。しかし、彼は俺の脇腹をくすぐっただけだった。

 がチャリとドアノブが周り、扉が開く。母さんが顔を出した。

「はーい。……あ、えっと……」

「こんにちは。理君の、」

「母さん、ただいまっ」

 自己紹介を始めようとする先生に割ってはいる。さっきから先生しか視界に入っていなかった母さんは、やっと俺を見てくれた。そして「あぁ」と笑って頷く。

「尾野先生ですね。いつもお世話になっております。先生のことは理からうかがってますよ」

「あ、あぁ、そうですか。……おまえ、どうせろくなこと言ってねぇだろ」

 俺の頭を小突く先生の動作は、どことなくぎこちない。表情もひきつっている。緊張しているのだろうか。

「いいえぇ。すごくいい先生だって言ってましたよ。生徒思いな先生なんだ、って。……ねぇ、理?」

「……」

「へーえ。俺ってそんなにいい先生なんだ?」

 母さん、それは本人に言ってはいけないことなんだよ。特に、こういうすぐに調子に乗る単細胞には。

 悪意のない様子でニコニコしている母さんが恨めしい。ニコニコじゃなく、ニタニタしている尾野先生が憎らしい。

「今日はどうされたんですか? もしかして、理を送ってくださったんですか?」

「はい。こいつ、傘がなかったようで」

「まあ、わざわざありがとうございます。……もう、雨になるって言ったのに」

 ちょっとだけ母親の顔を見せた母さんは、またすぐに笑顔で先生に向き直った。

「尾野先生。よろしければ夕御飯召し上がっていかれません?」

 そしてとんでもないことを言う。

「え~、そんな。送っただけなのに申し訳ないですよ」

 先生もデレデレしてるんじゃねえよ。遠慮するならはっきり断れ。

「そうそう、申し訳ないよ、先生」

 母さんと先生の間に割って入るも、「あんた、送ってもらって何言ってるの」と一蹴される。

「理の言うことなんてお気になさらずに。……あ、もしかして、ご家族がいらっしゃいましたか?」

「いえいえ。独り身なもんで、毎日寂しく夕飯食べてます」

「あら、だったらぜひ。うちも理と二人きりなんで」

 軽くめまいがした……ような気がした。独身アピールし合ってるわけじゃ、ないよな? ねぇ、母さんは、違うよね?

 初めから断る気なんてなかった先生は、結局「ごちそうになります」と同意しちゃってる。

「あっ、車の鍵かけてなかったなぁ。……ちょっと行って、すぐ戻って来ますね」

 先生がいなくなると、急に静かになる。普段の状態だ。母さんとの生活は、会話が少ないわけではないが、決して多くない。それでも、楽しく生活している。

 だから、今先生がいなくなって何か物足りなさを感じているなんて、絶対に気のせいだ。

「感じのいい先生ね」

 先生が出て行ったドアの向こうを眺めながら、母さんは呟くように言った。

「うん」

 頷いたのは、心からそう思ってのこと。だが母さんには素っ気なく聞こえたのかもしれない。彼女はわずかに顔を曇らせた。

「理、勝手に先生誘っちゃったけど、嫌だった?」

 玄関のドアを開け放したまま、室内に入る。

「母さんが好きで誘ったのなら、別にいいよ」

 それより、母さんこそどうなのさ。先生のこと、怖くないの?

 目で尋ねると、母さんは俺の思っていることを読み取ったのか読み取っていないのか、ふっと頬を緩めた。

「さっきね、理、すごく自然な表情してたのよ」

 「気づいてた?」と笑う母さんこそ自然体で。肩についた髪を指に絡めるのは、機嫌が良いときの癖で。

 ほんのちょっとだけ、悔しかった。

「お邪魔します。お母さん、夕飯の支度、まだだったら手伝いますよ」

 戻ってきた先生を見て、母さんが嬉しそうにするのはやっぱり気にくわない。だけど、悪くはないかなと思っている自分も、確かにいた。


 俺と母さんは、父から逃れるために彼を封じ込め、そして放置してきた。きちんと消化していないのだ。だから押さえつけていた縄が解けてしまえば、俺たちはいつだってまた怯えていたあの頃に戻ってしまう。

 けれど先生ならきっと、俺から、母さんから、父を過去の存在に変えてくれる。何年経とうと、完全に忘れることはできないだろう。それでも、ただの嫌な思い出くらいに成り下がってくれれば、それで十分だ。不安定な難破船から、やっと陸地に降り立つことができるのなら。


 理、と名前を呼ばれ顔を上げる。エプロンをつけた母さんと腕まくりをした先生が、何やらテーブルで作業していて、母さんが俺を手招きしている。

 悪くはない。

 もうずっと昔に捨てた夢の続きを思い浮かべていた。

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[良い点] 音や声をトリガーにした記憶の喚起とはとても鮮烈で、あっという間に過去の自分を思い起こされます。 例えば子供の頃に好きだった音楽を、ふと耳にして郷愁に襲われるように。 良い意味で働くこともあ…
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