温習(六)
僕はすぐに立ち上がり足を踏み出す。一階にいる千広さんの事なんて一切考えずに駆け足で部屋を出ると、その勢いのまま階段を一段飛ばしで降りて行く。もしかしたら、後で怒られるかもしれない。
でも、この世界の事を知って僕の中にある何かが変わったとは思わないけれど、ここを訪ねて来た人達を見習って僕も少しだけ前向きになろうと思った。その最初の一歩が多分これになるんだ。
階段を降り切って廊下を進み、骨董品店まで足を進めると、
「千広さん、ちょっと質問があるんですけど」
彼の姿を確認する前に大きな声を上げてしまった事を数秒後に後悔する事になる。
レジテーブルに向かって本を広げ、肩肘を付いて本を読んでいる千広さんに、
『うるせえな!』
と、怒声を浴びせられるなと思い込んでいた僕に見えていたのは、それとは全く違った景色だった。
椅子に座っているのはいつもと同じなのだが、今日は、レジテーブルを挟んで反対側に一人の男性が座っていた。
お客さんが来ているとは露知らず、大声を上げてしまい恥ずかしさがこみ上げる。大事な大事な最初の一歩を盛大に踏み外した気分だ。
「あ、すいません」
慌てて謝罪を済ませると、
「もし良かったらコーヒーでも入れて来ましょうか?」
少しだけ茶目っ気を含ませて言ってみる。
僕の登場で静まり返っていたこの店内ももう少しだけ雰囲気が明るくなるかな?と、期待したが、
「今日は休みなんだからゆっくりしてろ。コーヒーは俺が入れて来るから」
人の優しさが逆に辛い事もあるんだなと実感した。
ゆっくりと店の奥へと消えて行く千広さんの背中をボーっと立ったまま見つめていると、
「真吾君だね?」
僕も同じように背中側から声を掛けられた。
声の主は、間違いなく後ろに座っている男性なのだろうけれど、先程パッと見た感じでは僕の知っている人では無さそうだった。
僕は振り返って、
「はい。そうですけど」
と、小さく呟く。
黒のスーツに同じ色のストローハットを被り、生えっぱなしといった感じのアゴヒゲが特徴的な五十代程の男性にやはり見覚えは無く、
「どこかでお会いした事ありましたか?」
「ああ、ごめんよ。千広くんから色々話を聞いていたからね」
落ち着いた口振りだった。
「紹介が遅れました。僕の名前は、八十島と言います」
笑顔で言ってくれるが、どこか掴み所が無いというか取っつきにくそうな人だな。というのが、彼に対する第一印象だった。




