神様
なんでこんな状況になっているのかは、当の本人である僕にも分からなかった。
「おい、坊主。こんなとこで寝てると風邪ひくぞ?」
そんな声と共に激しく肩を揺さぶられて目を覚ますと、目の前にはお世辞にも綺麗な格好とは呼べないおじいさんが立っていた。七十歳くらいの見た目をしているが、よれよれの白いTシャツはおよそ白とは言えない色になってしまっていて、ズボンも自分でやったのかパッチワークとは呼べない継ぎ接ぎで穴を塞いでいる。
「風邪ひくぞ?」
不審がる僕の視線にも負けず、そう言って再び声を掛けて来る。
一体ここはどこなんだ?
ゆっくりと身体を起こすと、あちこちが痛む事に気付いた。特に膝が痺れる様に痛い。そう思って視線を落とすと、どこかで擦りむいたのか膝から小さく出血している。
「あの、すいません。ここどこですか?」
大した出血では無かったが、意識が無い内に血が出ているなんて経験が無いので不安になっておじいさんに尋ねてしまった。
「後ろの建物見りゃ、分かるんじゃねえか?」
顎だけで僕の後ろにある何かを指すおじいさんに促されてそちらに目をやると、世間一般に高層マンションと呼ばれている大きな建物が目の前いっぱいに広がっていた。
しかし、それを見たところでここがどこだか見当もつかない。それに自分がどうやってここに来たのか、今まで何をしていたのかも思い出せないのだ。
記憶喪失だと思ったが、自分の名前や通っていた高校の名前は思い出せる。
そんなハプニング的な状況でも身体というのは正直で、空っぽになった胃から空腹を知らせる小さな可愛いSOSの信号が発せられた。
「なんだ、坊主。腹減ってんのか?」
恥かしさで顔を伏せてしまったが、おじいさんはそんなものは関係ないと言わんばかりに僕の腕を引っ張り、
「これから集会があるから、坊主も何か食ってけ」
日焼けした真黒い顔で笑いながら言った。
歩いて十分ほどのところにある公園に連れて来られた僕は、集会の正体を見て驚いた。
僕の前を歩くおじいさんと似たような恰好をした同じくおじいさん達がドラム缶で作られた即席のコンロで様々な料理を作っている。
炊き出しというのは聞いたことがあったけど、まさか受ける側の人間が作っている状況というのは存在していると思わなかったので多少驚きはしたが、お腹が減っている事には変わらない。すぐにでも何か食べるものが欲しかった。
先程のおじいさんから煮込みを受け取り、空いているベンチへと腰を下ろす。
公園の外に生えている街路樹の銀杏がひらひらと風に吹かれて散っていくのを見つめながら、今日が真冬じゃなくて本当に良かったと感謝した。
「で、どうしてあんなとこで寝てたんだ?」
割り箸で人参を掴みながら言うおじいさんに釣られるようにして僕もスープを一口流し込む。空腹だからなのか、こんなに美味しい物がこの世の中にあったんだと感動するほどの味だった。質問をしてくれたおじいさんには悪い事をしたなと思っているけど、その時ばかりは返事をするよりも先に目の前にある煮込みを胃の中に流し込むことで頭の中がいっぱいだった。
落ち着いたのはスチロール製の器の中身がすべて空っぽになってからだった。
「実は、どうしてあんなとこで寝てたのか覚えてないんですよね。あそこに行った記憶も無くて。でも、自分の名前とか通っていた学校は覚えてて」
そこまで喋って、どう説明したら良いか分からなくなり、僕は黙ってしまった。こんな事を急に言われて、この人も困るだろうな、なんて思っていたが、
「それは難儀なことだなあ」
さも自分に降りかかった不幸のように辛そうな顔で言ってくれた。それがなぜだかすごく嬉しかったのが印象的だった。そして同時に、この人への警戒心も無くなっていた。
「実は覚えてる事の方が圧倒的に多いんですけど、記憶が全体的におぼろげになってしまっていて、どこかで頭ぶつけたショックで記憶喪失にでもなってるんですかね?」
半分本気半分冗談で言った。そんなことを自分が体験するなんて思っても見なかったから。
「お前さん、ちょっと覚えてる事だけまとめて言ってみな?」
「えっと、名前―-」
そこまで言って次の言葉が出て来なくなった。さっきまではどこの学校に通っていたのか、それがどこの町にあったのか、家族構成、全部覚えていたはずなのに。
「――血液型はA型だったかな?」
尋ねられたのに答えられなくなってしまったことが恥ずかしくて適当にそんな風に答えてしまった。本当に自分がA型だったのか、咄嗟に出た嘘なのか自分にも分からない。一体、自分自身が今どうなってしまっているのか、それにただただ戸惑うばかりだ。
しかし、おじいさんは違っていた。
ズボンのポケットから皺くちゃになった紙を取り出すと、ペンで何かを書き始め、
「今から言うとこに行ってみな?」
そう呟いてメモを僕に渡してくれた。
こんな感じの事がありました。と、骨董品店の店長である千広さんに出来る範囲で詳しく丁寧に説明し た。自分の事は何も覚えていないのにこの出来事だけはなぜか鮮明に覚えていたのでそんなに苦労もせずに話が出来た。まあ、今日の出来事なのだから当たり前なんだけど。
「なるほどね」
千広さんは小さく頷きながら言うと続けて、
「多分、それ米蔵さんだな。この辺の人からは神様って呼ばれてる人だよ。俺はあんまり好きじゃないけ ど」
今までほとんど変わらなかった表情が少しだけ歪んだのが印象的だった。
千広さんは何か続きを言いたげではあったけれど、明らかに話が終わってしまったので、気になっていたことを聞いてみた。
「なんで、米蔵さんは僕にここを教えてくれたんでしょう?」
まっすぐ見つめる僕の目を同じように見つめながら、
「この店って今、アルバイト募集中なんだ」
そう言って店の大きな柱に貼られている紙を指差す。確かにそこにはアルバイト急募と書かれた張り紙があった。
「帰る場所が分からないなら、ここで仕事しながらゆっくり記憶を取り戻すといい」
そんなこんなで僕の住む場所と仕事が決まってしまった。
17.01.28 句読点の位置修正