海へ(五)
僕は、この長い長い坂道を上り切るまで黙ったまま彼女の口ずさむメロディに耳を傾けていた。
時折、歌詞らしきものも聞こえて来たが、大体ワンフレーズ程で姿を消して、すぐに「フフフーン」や「ラララー」と言ったハミングがひょっこりと顔を出す。それを別に恥ずかしいとも思っていないのだろう彼女は、楽しそうに曲に合わせて身体を左右に振ったり、首を揺らしてリズムを取ったりしていた。
その姿が妙に可愛らしく思えて、いつまでも見ていたかったのだが、
「ここから下り坂みたいだよ」
という、彼女の声に阻まれてしまった。
それでも、長い上り坂の終了は僕にとっては朗報で、
「よし、一気に下るぞ!」
という、掛け声と共に紗千から自転車を引き受けサドルに跨る。
後ろに彼女が座った重さを確認すると、ゆっくりとペダルに力を入れて、ここから始まる長い下り坂のスタートを切った。
辺りはやや木々が生い茂っている為、海がどの辺にあるのかはまだ分からないけれど、徐々にスピードが上がって行くと、汗をかいた肌に風が当たってひんやりと冷たくとても気持ちが良かった。
僕はあまり速くなり過ぎないように適度にブレーキを掛けて、スピードを調節する。さすがに新しい自転車だけあって甲高い声の鳥が鳴くような音は鳴らない。
途中大きくU字に曲がっている大きなカーブを過ぎると、後ろから紗千が声を掛けて来た。
「そろそろ準備しといた方が良いよ。せーのっ!だからね?」
それが坂を上っている時に話していた「海だ」と叫ぶ合図だと気が付くのに少し時間は掛かってしまった。
道路の左右に生えていた木々が徐々に少なくなって行き、坂の下の方がしっかりと目で確認出来る程視界が広がると、太陽の光に反射して綺麗に青く輝く海が見えて来た。
当然、彼女は待ってましたと言わんばかりに、
「せーのっ!」
と、音頭を取る。僕は慌てて口を開いて、
『海だーっ!』
二人の声が綺麗に重なり、自転車が坂を下るスピードに勝てず後ろに置いてけぼりにされる。
その瞬間、何かが僕の身体の中をスッと通り抜けるような感じがした。別に前から何かが飛んで来た訳でもどこかにぶつけた訳でも、はたまた後ろに座る紗千から何かをされた訳でも無さそうなので、不思議に思ったままハンドルを強く握り直した。
そのまま坂を下って行くと、もう一度大きなU字のカーブがあり、それを過ぎると辺りにポツポツと民家や商店が顔を出し始め、徐々に下り坂が緩やかになっていく。最後には当然平坦な道になるのだが、終点の突き当りは大きな幹線道路へと繋がっており、その先には先程見た海と小さな砂浜がしっかりと現れた。




