キミとお別れ
夕暮れ時のとある高校。下校や部活動でクラスメイト達がいなくなった放課後の教室に、まだ残っている生徒がいた。
その表情はとても朗らかで有意義な時間を過ごしているのは間違いない。
「キミと出会ってから、もう三ヵ月も経つんだね」
ヒカルは隣の席に座る名も知らぬ友人にそう微笑みかけた。出会って以来、彼は頑なに名乗ろうとはしないので、仕方なくヒカルは彼のことを『キミ』と呼んでいる。
「もうそんなに経ったのか」
とぼけた様子で『キミ』は天井を見上げる。
「キミには感謝しているよ。キミと出会えなかったらボクのこの学校での生活は、大して記憶に残らない退屈なものになっていたと思うから」
「別に、俺は大したことはしてねえよ」
ヒカルは父親の仕事の都合で転校してしまう。父親は昔から転勤が多く、ヒカルも何度も転校を繰り返しているが、今回は特に間隔が短く前回の転校から僅か三ヵ月しか経っていない。
三ヵ月間しかこの学校にいられないことは最初から分かっていたので、ヒカルはあえて周りと打ち解け合おうとはせずに目立たずに空気のように過ごしていた。どうせすぐいなくなるのだから、始めからいない者のように振る舞っていようと決めていたのだ。
昔は転校した先々で友達を作り、それなりに楽しく過ごせていたはずなのだが、別れを繰り返していくうちに友人を作るという行為にどこか冷めてしまった。いつ頃からそうなってしまったのかは今となってはヒカルにも分からない。
だが、『キミ』との出会いはヒカルの心境に確かな変化を与えていた。少なくとも友人と談笑することの楽しさを思い起こさせるくらいには。
「初めて会った時のことを覚えているかい?」
「丁度今みたいな夕暮れ時にお前の方から声をかけてきたんだよな」
「見覚えの無い男子がボクの席に座っていたんだから声をかけてみたくもなるさ」
「本当は俺の席なのにな」
「否定はしないけど、ボクの席でもあることは忘れないでよ」
返事はせずに『キミ』は苦笑いで肩をすくめた。仕草とは裏腹に、それが『キミ』なりに肯定を表しているのだということはヒカルも理解している。
「色々な話をしたよね」
「ああ。俺も最近は喋り足りなかったから、お前と出会えて楽しかった」
二人の思い出話は止まらない。
知識が豊富な『キミ』が放課後の教室でヒカルのテスト勉強に付き合ってくれた時のこと。
家族と喧嘩をし、家に帰りたくなくなったヒカルの愚痴を学校が閉じる直前まで嫌な顔一つせずに『キミ』が聞いてくれた時のこと。
家族にすら打ち明けていない教師になりたいという夢を語った際に「素敵な夢だ」と『キミ』が初めて笑顔を見せてくれた時のこと。
たった三ヵ月間の出来事なのに、思い出話を上げるときりがない。
「キミが教えてくれた沢栗先生が赴任してきた時の話はとても面白かったよ。授業中にかっこつけて持論を展開したら、生徒に論破されかけて授業を放りだしてしまうなんて」
「当時は新米だったんだし、あの人も若かったってことだろうよ」
「何だい、その物言いは」
そのどこか年寄り染みた『キミ』の言い草がツボに入り、ヒカルは思わず声に出して笑う。
「笑うなよ」
「ごめんごめん」
笑い話に花を咲かせていると、廊下の方から男性生徒の声が聞こえきてきた。
「教室に誰か残ってんのかな?」
無人だと思っていた教室から笑い声が聞こえてきたのが気になったようで、二人組の男子生徒が通り過ぎざまに教室の中を覗き込んできた。
二人はヒカルのクラスメイトで、笑い声の主がヒカルだと知ると、どこか納得したような様子でそのまま教室の前を通り過ぎて行った。
「あいつの独り言かよ」
「たまに誰もいない席に話しかけてる時があるけど、ちょっと気味が悪いよな。なんかもったいねえの」
「まあ、転校しちまうんだしどうでもいいか」
「そうだな。それよりも来週のテストの方が問題だろ。沢栗のおっさん、どんな意地悪な問題出してくるか分からないしな」
聞こえていないと思っているのか、それとも聞こえている前提でわざと言っているのか。二人は去り際にそんな会話を交わしていた。
「悪いな、俺のせいで」
「ボクは気にしてないよ。むしろキミの方こそ気分を害してはいないかい?」
「もう慣れているよ。誰にも視えていないという感覚には」
自嘲気味に『キミ』は笑ったが、ヒカルにはそれが許せなかった。
「……そんな悲しいことを言うものじゃないよ」
「そうだな、ヒカルは俺のことをちゃんと視てくれたもんな……放課後の幽霊の俺を」
『キミ』はもう死んでいる。
日中は姿を見せず、放課後にだけ窓側二列目の前から三番目の席に現れる。
いつ死んでしまったのか。元々この学校の生徒だったのか。何故この教室に留まっているのか。
『キミ』は過去を一切語らない。
現在39歳の沢栗の新人時代を知っていたのだから、少なくともそれよりも前からこの教室にいたことは確実だ。
ヒカルに『キミ』の姿を見ることが出来たのは偶然だった。ヒカルは霊感の類を持っているということはなく、かといって何か特殊な条件が重なったわけでもない。
ヒカルの目にだけ当たり前のように『キミ』の姿が映っていた。ただその事実があるだけだ。
「ボクが転校してしまったら、キミを一人にしてしまうね」
「気にするなよ。もしかしたらお前みたいに俺の姿が見える奴がひょっこり現れるかもしれないしな」
『キミ』は笑っていた。ヒカルが気後れしないにとの気遣いなのか。本心から可能性に期待しているのか。その笑顔には様々な意味が込められているような気がした。
「最後にどうしても聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
「質問によるけどな」
「キミの名前を教えてくれないかい? 最後くらいはキミではなく、名前で呼ばせてほしいんだ」
『キミ』は目を伏せて考えを整理すると、少しだけバツの悪そうな表情を浮かべて口を開いた。
「……ひかるだ」
「えっ?」
何故この話の流れで自分の名前を呼ぶのだろうとヒカルは一瞬戸惑ったが、『キミ』の表情を見てその理由を直ぐに理解した。
「キミも『ひかる』という名前なのかい?」
「ああそうだ。輝くと書いてひかる」
指先で空中に『輝』の字を書き、輝はそう補足した。
「何故今まで名乗らなかったんだい?」
「……同じ名前ってのが何だか気まずかったんだよ。お前が三ヵ月で転校しちまうのは分かってたし、その間はキミで通すつもりだった。理由はそれだけ」
「そんな理由だったのかい。ボクはてっきりキミの過去に関わるとても深い事情があるのではと密かに推測していたのだけど」
「予想が外れて残念だったな。まあ真実なんてのは、思いのほかシンプルなものってことさ」
「何故得意気に言っているのかは分からないけど、とりあえずボクの心残りは消えたよ。キミを輝と呼ぶことが出来る」
「……いざ呼ばれると少し照れくさいな。ヒカルから輝と呼ばれるのも何だか変な感じだ」
夕日が完全に沈み世界に夜が訪れる。間もなく学校が閉まる時間となるので、放課後の幽霊と過ごす掛け替えのない時間も直に終わってしまう。
「輝、ボクは一つ決めたことがあるんだ」
リュックに教科書や筆箱をしまいながらヒカルはどこか吹っ切れた様子で切り出した。
「次の学校では積極的に友達を作っていきたいと思うんだ。ボクはやっぱり人とお喋りをするのが大好きなんだってことを、輝が気付かせてくれたから」
「ああ、その方がヒカルらしいと俺も思う」
ヒカルは快活で笑顔でいる方が似合っていると輝はずっと思っていた。転校した先でまた自分を閉じてしまうのではと輝は心配していたのだが、今のヒカルの言葉を受けてそれが杞憂であったと理解した。
ただの幽霊に過ぎない自分がヒカルに対して多少なりとも良い影響を与えれたのだとすれば、それはとても誇らしい事だった。
「新天地へと向かうボクに、何かアドバイスはあるかい?」
「アドバイスという程でも無いけど、お前は少し目立つかもしれないな。その特徴的な話し方とかさ」
「そうかな?」
「女子高で一人称がボクなのは目立つだろ」
「言われてみればそうだね。少し女の子らしい言葉使いでも練習した方がいいのかな」
何となく頭に浮かんだのだろう。ヒカルは「ごきげんよう」だの「ごめんあそばせ」など普段使わないような言葉を口にした。
「女の子は女の子でも何でお嬢様風のセリフばかりなんだよ。それにしても似合わねえ」
良い意味でヒカルには似合っていなかったため、輝は思わず破顔し大きな笑い声をあげた。
「失礼だな、ボクだって女の子なんだから少しは傷つくよ」
「悪い悪い。でもさ、やっぱりいつも通りのお前が一番魅力的だと思うよ。そのままのお前をきっと転校席の奴らも受け入れてくれる」
「ずるいな。少しだけムッときてたのに、そんなことを言われたら嬉しい気持ちが勝っちゃうじゃないか」
本当はちっともムッときていないのに照れ隠しでそう前置きした。そうしないと、嬉しいなどという言葉は恥ずかしくて口に出来なかった。
「時間だね……」
ヒカルは教室の時計に視線を向ける。もうそろそろ下校しないと学校が閉まってしまう。本当はずっと会話を続けていたいのに、時間はそれを許してはくれない。
「ボクはそろそろ行くよ。お別れの言葉は言わないでおく」
「奇遇だな。俺も同じことを思っていた」
ヒカルはリュックを背負って立ち上がり、輝は席に着いたままその背中を見送る。
「またね、輝」
「またな、ヒカル」
去り際に二人の声が重なった。
誤字脱字を修正しました。物語そのものには手を加えていません。
まだ誤字脱字を見落としている個所があるかもしれませんが、それらは気がつきしだい随時修正していければと思っています。