紅
「・・・・」
まだ、頬の辺りが火照っているのが分かった。それはただ単に恥ずかしい、というだけのものではなく、おそらく知恵熱が混ざっているのだろう。
頬を押さえながら、そして茜色の空を見ながら、私は歩く。
「こんにちは♪」
「ふぇ?」
急にかけられた声に、私は少々の驚きが混じった声を出して振り返った。
声は幼く、かわいらしい女声。高校生のものではないだろうな、と思った。
けど、声だけで人を判断するのはよくない。
振り返った先にいたのは、見るからに高校生ではなかったけれども、失礼な言葉に対する罪悪感が残る。
「あ、あの、あなたはいった・・・・」
「今日は良いお天気ですね」
「え、あぁ、そうですね?」
私の言葉に重ねた声は、力強く、私の言葉を掻き消すには十分な声量だった。
「あ、あの」
「紅い世界って、ステキですよね」
「え、は、はぁ」
「・・・・でも、凄く怖いんだよねぇ・・・・」
そう言いつつ、名を名乗らぬ少女は、茜色に染まった、不自然なほどに『白い』髪を揺らした。
そして、そのまま去って行く。
私は訳が分からないまま、再び帰途を辿る事にした。
「―― 藍菜ちゃん」
「ひぃっ?!」
それほど大きくは無い声に呼び止められて、私は驚いてしまう。そして声は、後ろからではなく、前の方から聞こえてきた。
見ると、笑顔と金髪が煌く藤黄君が、灰色の壁に寄りかかったまま、そして笑顔のまま驚いていた。口元が引きつって、ECTをいじっている姿勢のまま動きがフリーズしていた。けど次の瞬間には瞬きを2回して、寄りかかっていた体を起こす。
「ご、ごめん。そんなに驚くとは思わなくて」
そう言って笑顔で謝罪する藤黄君は、笑顔だけど、本当に困ったように謝った。
「あっ、や。わ、私も驚きすぎたから。ごめんなさい、ボーッとしていて」
「いやいや。それより寮まで一緒に行かない?」
「へ?」
藤黄君の家は、パティスリー『ジョーヌ』で、店は学校から寮までの道とは反対の道を行かなくては辿り着けない。彼の家は商店街エリアの中央通りゾーンにあって、ちょうど、北と南で町を真っ二つにする線の上に、寮と店は位置している。
何故わざわざ逆の道を選んだのか、私は疑問を禁じえなかった。
「理由ならあるよ? これをムラノさんに届けるからさ」
そう言うと、コンクリートで固められた道路の上に置いていた、白いビニール袋を差し出した。中には、ゼラチン、クリームを絞る時に使う金具、クッキーの型など、スイーツ系の道具がたくさん入っている。
ビニール袋自体はそれほど大きくない。けど、持ち上げた時に聞こえてくる金属と金属がこすれたり、ぶつかったりする音が、それを重いように感じさせる。
「あの、もしかして、入学式からずっと待っていたの?」
「え? いや、一度これを取りに家まで戻って、それからだよ」
心臓の弱い人が出来る事なの? それ。
「あのねぇ・・・・僕は心臓が弱いだけで、体はそんなに弱くないよ? 適度な運動なら出来るし、短距離なら医者のお方から走っても良いと許可が出されているのだから」
そう、遠慮しながらも自慢げに言って、藤黄君は「帰ろうか」と私に笑顔を向ける。この人・・・・笑顔しか出来ないのかな。
というか、さっきから私の心が易々と読まれている。こんな簡単に読まれてしまうほど、私は心が読まれやすい人間なのだろうか。ただ、そう思いつつ改めて自分を見てみると、私は、私自身の目線をずっと藤黄君に向けている事に気が付いた。
こんなに見られていたら、相手が何を考えているのか、嫌でも予測してしまうのではないだろうか。
「―― うん。良い天気だね」
「へっ?」
「ふふっ。綺麗な茜色の空。ね。綺麗だよね」
「あ、う、うん?」
―― 違和感を、覚えた。
既視感と言った方が良いかもしれない。
デジャヴとも言う。
先程、あの少女が言っていた事と、同じ台詞を、藤黄君が紡いだ。
その既視感にとらわれて、私は歩いていた足を止めていた。
「ねぇ、藍菜ちゃんさー」
藤黄君の声に、我に返る。
「もし、人生を何度でもやり直す力が手に入ったら、どうする?」
藤黄君はいつの間にか、5m先の、住宅街の狭い十字路、その中央に立っていて。
「心理テスト・・・・?」
その距離を保ったまま、会話が続く。
「どう取ってもらっても構わない。で、答えは?」
笑顔のままの藤黄君と、半分だけ呆けたままの私で。
「・・・・嫌な事があったら、それを良い事に変えられるようがんばる、とか?」
そんな私が考えた答えを、藤黄君は変わらない笑顔で受け止める。
「がんばる、ねぇ・・・・かわいい答えだなー」
口調はいたってバカにしているような、けど声そのものが真剣で、矛盾した2つの雰囲気が衝突する。
「そうだな・・・・僕だったら・・・・」
そして不意に、右の道から聞こえてくる大きな音。
「この時間をもう一度やり直せるのなら・・・・」
その正体に気付きかけた所で、藤黄君は最高の笑みを浮かべた。
「僕は――」
「 ―― 、 、 」
・・・・
それは、唐突に訪れる。
藤黄君は何て言った? 分からない。
聞こえなかった。
でも。
その代わり。
ドンッ、という音が、聞こえた。
鈍くて、大きな音。
それが聞こえるより前から聞こえていた、石か何かを金属で引っ掻くような音。
藤黄君の声を、掻き消す音。
段々と大きくなって、藤黄君を連れ去った。
声が、出なかった。
ただ、冷酷なまでに残虐な『音』が、その場を支配していた。
勢い良くマットに突進した時にも似たような、そんな音が聞こえてきた。
石と石を、力強くこすれ合わせたような音も。
気分が悪くなるような、何かを千切るような音が聞こえた。
―― ブチブチと、不快感を煽り、吐き気を呼ぶ音。
僅かに焦げた臭いが、私の鼻を通り抜けた。
―― 決して美味しそうとか、そういう類の臭いではなくて。
オレンジがかった灰色のコンクリートに、鮮やかな色が滲んだ。
―― まだ空に浮かんでいる太陽より、その光に照らされた雲よりも濃い、紅。
手足の震えが止まらない。
その時の思考は、ほぼ完全に停止していた。
あったのは、彼が『最期』に私へと向けた、彼自身の自問自答に対する自分自身の答え。
それをも掻き消す『音』の奔流と、一瞬で消え去った『彼のいる世界』だけ。
・・・・。
・・・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・。
気付いていたはずだ。
不審な音には、随分と前から気付いていたはずだ。
気付いていながら、私は動けなかった。
気付いていながら、私は動かなかった!
その時、動く事が出来ていたならば。
こんな、こんな『紅い世界』を、見なくて済んだはずなのに。
「・・・・ぅあ・・・・っ?」
もう少し、早く動いていれば。
「・・・・・・・・ぅうう」
もう少し、早く気付いていれば。
「あ・・・・ぅうあ・・・・っ」
もう少し。
・・・・。
―― もし もう一度 やり直せるならば