唐突に開かれた扉
明日から数えて、三日後が入学式。寮に来たのは2日前で、徐々に寮の生活に慣れていく私と、既に慣れて暇を持て余しているらしい葵。
只今午前10時。あの汽車の中を思い出させる暇を、私も持て余していた。寮の中を探検して「こんな所があったのかぁ、ワーイワーイ」なんて出来る年齢はとうの昔に過ぎている。それに、その系統の驚きがありそうな場所は、粗方葵に案内してもらっているのだ。
「藍菜ちゃん」
と、机に座って何もせず、ただ呆然と、片肘を付いた姿勢でどこも見ていなかった私を、葵が呼んだ。葵は2段ベッドの上から、本を片手に私の方を見ている。
「何」
「うん。あのね、今日、外でちょっと面白い事があるの。行こうよ」
楽しそうな笑みを浮かべつつ、葵はすっくと立ち上がった。今日はピンク色のパフスリーブブラウスに、薄いオレンジ色のラッフルスカートを合わせ、白いニーソックスをチョイスしたコーデ。
「面白い事って?」
「ふふっ。外を見れば分かるよ♪」
「外?」
横の幅が1m弱の、窓の下を持って外側に開け、棒状の金具で閉じないように出来る仕組みの窓を、私は開けた。
外は、桜の花びらが風に乗って踊っていた。そして、この部屋のある3階から下の景色は、人の賑わう、とても明るい広場。寮の前にある広場で、学校のグラウンドよりも広い、とパンフレットに書かれていた事を思い出す。
人がそこかしこにいて、小学生らしき子供達の笑い声が絶え間無く聞こえてきた。それと同じくらい絶え間無く私の思考にあったのは、とても甘い、お菓子の香り。
入口付近には、出店用の車があった。側面が上方に開いていて、車の中にあるキッチンのような場所で、何か袋のような物を配っている。
ここからでは何を配っているのか分からない、と思いながら見ていると・・・・。
「あれはクッキーを配っているんだよ!」
と、聞こえた。
後ろからではなく、下から。
聞き覚えのある声に顔を下に向けると、そこには、手を振っている少年がいた。・・・・無論、此の寮にいる私の知り合いで、しかも男性は、空音君しかいない。
「わぉ、空音君。情報が早いね! 誰に聞いたの?」
と聞いたのは葵。
「僕の友達があいつしかいないって知っているだろ? そんな事よりも、藍菜さん、降りてきなよ。クッキーがもらえるよー」
「えっ、あ、え?」
葵にはどこか素っ気無い態度をとっている空音君が、私を呼ぶ。空色の前開きになった半袖のワイシャツの下に、白い薄手の長袖Tシャツ。深緑色のズボンを着た空音君が、手を振っている。
とはいえ、私は外に行ける格好ではなかった。Tシャツとショートパンツで、とりあえず、私の中では外に行ける格好ではなかった。
葵が「ゆっくり着替えても良いと思うよ」と言っていたけれど、それほどゆっくりしていられるとは思えない。急いでタンスの中を漁り始めた。インナー、ジャケット、あ、ズボンにしようかな。スカートの方が良いかもしれない・・・・。
と、色々悩んだ末に、私は白い無地のワンピースチュニックに、蒼い無地のカーゴパンツを合わせ、青緑と白の縞々模様が入った靴下をチョイスした。鏡を見て、ピンク色のシュシュを取り出し、それで肩よりも下まで伸びている髪を、左肩の部分で留めた。
「OK? 行こうか」
「う、うん」
緊張は無い。あるのは焦りだけ。私がどれだけ行動の遅い人間なのか、自分が一番よく知っている。だからなるべく急がないと。
「藍菜ちゃん」
「え、な、何・・・・?」
「女の子の着替えはね、遅くて当たり前。空音君はそこら辺を知っている人だよ」
えらく真剣な雰囲気に、私は何も言う事が出来なかった。
ただ表情は笑顔で、口調も明るかった。なのに、彼女から発せられた言葉は、とても重い気がした。
◇ ◆ ◇
「速かったね、2人とも」
そう、空音君が優しく言う隣で、
「ね。急いでいた様子だったから、考えているよりも速いとは思っていたけれど・・・・ここまで速いとは思っていなかったよ」
と、見知らぬ人が飄々とした態度と口調で述べた。けどその外見を見た時、私の脳裏に、2日前の空音君と話していた時の光景が浮かぶ。
金髪で、左が碧で右が蒼い目をした人。空音君よりも若干背が低くて、空音君と同じくらい声が高い人。同じくらい、と言っても、男性にしてみれば、という程度だけど。
それは、空音君の言っていた『お友達』の特徴。
「紹介するよ。これが僕の友達で、―時貞 藤黄―。両親共にクォーターらしい。だから結構見た目に特徴あり、かな」
「これ呼ばわりしないでよ。それと、見た目に特徴あり、っていうのが僕の軽いコンプレックスって事を、空音君は忘れてしまったのかい?」
言葉も、その口調も、ムッとしているように思えた。けど、表情はずっと笑顔。困ったように、眉だけが逆の「へ」の字を作っている。
藤黄君。この人が、空音君のお友達。そして、ECT開発者の親友。まぁ、それは葵もそうだって判明したけど。それらを聞いたのはどちらも2日前で、でも、あのご飯の後、葵に半ば尋問気味に色々聞いたので、既に葵に対しての、何かのモヤモヤ感は無い。
一方、こちらにはまだまだ聞きたい事があった。外見的特徴のある、ザ・ジャパニーズな名前の少年藤黄君。藤黄って、確か色の名前だったよね。
藤黄君が「よろしく」と手を差し伸べてきた時に気が付いた。外に出てからクッキーの物らしい甘い香りと共に、何か別の甘い香りが鼻を撫でていたのだ。それと同時に、何か消毒液っぽい香りも。それが藤黄君から発せられている事を、知った。
勝手な想像だけど、何と無く、藤黄君は何かの病気持ちなのだろうか、などと失礼な事を考えてしまう。自分で勝手に、気まずい雰囲気を作ってしまった。
それに気付いたのか否か。藤黄君は握手する私の目を見ながら、口を開く。
「お察しの通り、僕は病気持ちだよ」
「ふぇっ?」
いやに間抜けな声が出てしまった。
私の声に驚いたのか、それとも別の要因があるのか、空音君と葵も、私の横で目を見開く。
「まぁ病気というか、生まれつき心臓が弱くてね。消毒液の匂いは日常的に病院に行っているから染み付いたもの。で、甘い香りは、僕が家の中で使っている、お菓子用とは別の砂糖の香りだよ」
変化の無い笑顔で言われる。小首を傾げて、中身が小さい子供みたいな、そんな錯覚を起こさせる雰囲気に、思わず飲み込まれそうになってしまう。
藤黄君は、ちょっとだけつり上がっている、ちょっとだけ細めた目を私に向けている。怪しげで、それでいて素直そうな。変な印象の笑み。顔と顔の距離はそんなに近くないはずなのに、何故か、目の前に顔があるような感覚。不思議。
「よろしく~、藍菜ちゃん」
他の人よりも、若干リズムが遅い言葉達。何だろう。かわいいとか、格好良いとかとはまた違う。けど、何と無く見てしまうような、そんな根本的な魅力を感じた。
・・・・魅力がある人、って、本当はこういう人の事を言うのだろうか。
「で、これからどうするの? こっちは手伝いが終わって暇だけど」
「手伝い? あぁ、だから藤黄君も来ていたのね」
葵は納得した、という表情で頷いた。え、何?
「藤黄君はね、あそこに来ているワゴンの、元のお店。えぇと、スイーツショップ『ジョーヌ』の、跡取り息子なの。お菓子作りは病的に上手いから、今度食べてみて」
「え。えっ。ジョーヌって、あのジョーヌ?!」
葵の言葉に、私は困惑してしまう。だって、スイーツショップ、同じ意味でパティスリー『ジョーヌ』と言えば、小さな町でがんばる超人気店スイーツ店の、トップ3に入っているお店! 世間に疎い私でも知っているほどの有名店だ。
行列が出来る事もあるそのお店は、日替わりで姿形が変わるショートケーキが見所らしい。という、変な嘘(噂?)のような本当の話を知っているほど、人気だ。
「病的に、は褒め言葉として受け取っておくね。えぇと、藍菜ちゃん」
「な、何でしょうか・・・・っ」
この町って、有名な人が多すぎるのではないだろうか。
「町探検でもしない? 空音君にも案内したい所、たくさんあるからさ♪」
藤黄君はウィンクして、前開きのパーカー、そのフードをかぶった。どうやら、先程の「見た目にコンプレックスがある」というのは本当らしい。
私はクッキーの事を忘れて、頷いて。ただ藤黄君の後ろに付いて行った。
まるで、催眠術にでもかかったかのように。
◇ ◆ ◇
「―― で、此処が商店街エリア中央通りゾーンです!」
寮から学校までの道のり。学校から商店街までの道のりを、私達は辿っていた。そしてその中で、この町の、あらゆる地域の呼び名がある事を知る。
この青桐町には、エリアと呼ばれる、大きくその場所の雰囲気を表す言葉がある。それは、私達のいた寮などのある『住宅街エリア』や、学校が集まった『学校エリア』など。そして此処は『商店街エリア』で、この3つは、西から東へ平面にリボンを置いたような形で繋がっている。
このリボンを縦にすると、北側に在るのが『公園エリア』で、南にあるのが『職場エリア』と呼ばれる場所になっているらしい。
そして、それぞれのエリアにおおよそ2つずつ、エリアとしての雰囲気を更に細かく分けたゾーンというのもあるようで、此処は『商店街エリア』の『中央通りゾーン』というわけだ。
名前の由来は、エリアの北側を新しいお店のビル群が。逆に南側を、昭和をにおわせる古風な店達が占めており、その境目にあるこの場所は、新しくも古くも無いお店の並ぶ、静かな通り。ただ現代風かと言えば違うので、単純に中央通り、という事だ。
その中央通りには、興味のそそられるようなお店が幾つもあった。カフェや小物屋や、それなりに大きい電気量販店なんかもある。
そんな私の興味をくすぐるお店達の中で、一際目に付いたのが、ちょっと珍しい髪留め屋さん。一件古風なかんざしから、髪の絡まないヘアゴムなども用意されている。
「わぁ」
「藍菜ちゃん、何か気に入ったの、あった?」
「あ、その、まだ」
話しかけてきた葵の横で、様々な小物が色々ありすぎて、目移りしていた。全3種類のシュシュを日替わりで使ってこの髪型、というのを保育園の頃から一貫していて、正直、別の髪型にする気は無かった。それにそもそも違う髪型にしたい、とか全然考えた事も無かったのだ。
だから、葵に不意にシュシュを取られてしまって、アタフタしてしまう。
「ちょ、ちょっと、葵?」
「むむ。藍菜ちゃんって、やっぱり今の髪型より降ろしている方が良いと思う」
続けざまに「あの夏の日は編みこんだ髪の毛をお団子風にしていたじゃない?」と葵は言った。でも確かあれは、お母さんにやってもらったのであって、自分で、というわけではない。つまり、やり方を知らないし、知っていても、作るのに時間が掛かってしまうだけだと思う。
「それは時間掛かると思うから、こんな感じじゃないかな・・・・あ、ごめんね」
と、私の髪を無断で触った空音君に叱咤しようとした途端に、空音君に謝られてしまう。長年の友を失ったような感覚の中で、彼に対する言葉が何も浮かんでこなかった。
「―― 出来た」
「「・・・・わぉ」」
藤黄君と葵の声が重なる。え、何。何をされたの、私。
「良い。良いよそれ! 藍菜ちゃん、それ買おう!」
「え、あの。何が起こって・・・・」
葵が興奮気味に言ったかと思うと、
「そうだ、空音君が買ってあげたら? 君がチョイスした物だし!」
と、同じようなテンションで藤黄君が言った。
というか、藤黄君何を言っているのかな?! そんな、空音君のお金が勿体無いし、そもそも私、欲しいとは一言も言っていないし、更にそもそも何を付けられたのかも分からないし!!
「えと、僕が?」
「すみません、これ、ください」
「ちょっ、藤黄?!」
あぁ、もう。この半ば強制的な感じで場面が移り変わっていくの、あの夏以来だよ。
疲れるような、でも、楽しいような。
この楽しいのが、明日や明後日も続くのかな。続いて欲しいな。
入学式から卒業以降まで・・・・なんて・・・・今から夢見過ぎかな。
―― その日は、少なくとも、そう思える一日だったという事を覚えている。