どこかが壊れたオルゴール
『何処か』が狂っている。
そう、思った。
4月9日。それは、入学式の次の日。
自己紹介だけで終わる一日。
―時貞 藤黄―君が入院したと聞いて、クラスメイト初顔合わせの自己紹介を、放心状態だったからあまりよく聞けなかった日。
思えば、その所為で紫音の自己紹介を聞けなかったのかも。
確かに、彼も自己紹介をしていた。
階段状に並べられた机は、横に3つ、縦に7つ配置されていて、それぞれ1つにつき2人ずつ座れるようになっている。私が一番前の、黒板から見て右の席にいるのに対し、彼は一番後ろの左の席。ちょうど教室の対角にいた。
彼は淡々と自分の名を述べ、器用貧乏だからこき使って欲しい、と言った。
彼からすれば、最も遠い位置に座っている私に向かって。
・・・・。
顔も、目も、黒板の方を向いている。なのに、意識はずっと、私の方に飛ばしてくる。
「まるで見ていないのに見られている」という、不思議な感覚。
そちらへ目を向けていなくても、分かってしまう。
震えてしまいそうになる身体を押さえ込む。
ただ震えたからといって、どうなるわけでもない。親友である―紺青 葵―からすれば、藤黄君が大変な事になっていて、それに対して悪い方向へ想像を膨らませてしまっている、と考えているから震えている、というのもありえるのだから。
確かに『1回目』はそうだった。だから、このやけにソワソワして落ち着かない身体と、記憶、そして、感情の相違にズレの要因がある。
ズレというのは、私が見た、夢にも似た映像。映像のワンシーンを納めた一枚一枚の静画ではなく、とても滑らかに動く、動画。
私は、確かに見たのだ。
彼はたった今みんなを笑顔にさせるトークを繰り広げている。
彼は心配そうな表情でその瞳を曇らせていた葵をも笑顔にする。
とても、とても信じがたい事だけれども、私は確かに見た。
―― 彼が、目の前で自害する所を。
一瞬だった。
私にとっては、つい数時間前の事なのだ。
どこから取り出したのか、彼は細く、銀色の刃が綺麗なナイフを持っていて。
真っ白以外に表現のしようが無い病室で、彼―萩徒 紫音―は、自害した。
持っていたナイフを誰にも気付かれないくらい静かに持ち上げ、首に当て、一気に・・・・。
(・・・・うえぇ・・・・)
あぁ、もう。
思い出したら吐きそうになる。
そして連鎖的にこれまであった嫌な事が、頭の中でリピートされる。
ただ、つい数日前まではそれが単なる予知夢だ、悪夢だと「笑って話せる話」だったのにもかかわらず、今頭の中でリピートされているのは、どうやったって到底笑える事の無いものだ。
今までの『嫌だった事』を塗りつぶす、たった2枚の絵。
いや、動画である分、それは長く、強烈で、他にあった嫌な事が全て笑って千切って捨ててしまえるほどの小ささにすら感じてしまう。
止まらない吐き気を飲み込んで、何とかもたせようとする。
とりあえず、このいやに長く感じる自己紹介タイムが終わるまでは、もたせなければならなかった。
◇ ◆ ◇
本当に、狂っている。そう思った。
「あの、そんなに睨まれると動きづらいなぁ~、なんて」
私は、藤黄君のお見舞いに来た紫音を睨みつけていた。
というのも、絶対に『1回目』のような事にしたくないからだ。
おそらく、いや、絶対に、あれは夢なんかじゃない。そう思っているからこそ、今この時点を変えようとしている。
誰もいない静かな場所。病院独特の消毒液の臭いが満ちた一室。お見舞いに来た人が主に使う、洗面所。その用途の多くが、花を飾る為の花瓶を洗うか、中の水を入れ替えるか。
「ね、そこに1回置きたいのだけれど」
近くの棚に置かれたブレザー。目の前の紫音は、今、ワイシャツの袖をまくって、腕が結構ぬれた状態にある。結構綺麗に見えた花瓶を洗っていたのだ。
私は紫音を、見つめていた。
かなりの近距離で。
「――・・・・」
銀色のシンクが私達を映す。
布の上に置かれた花の香りが鼻をかすめた。
私は、ずっと、紫音の目を見て、眉間にシワを寄せて、それを崩さず、身体も動かさずにいた。
紫音は困った様子で、私を見ている。見ながら、一度逸らして、ちょっとヤル気に満ちた目をもって私を見つめた。と思ったら、すぐ再び目を逸らす。その繰り返し。
「・・・・はぁ」
諦めを含んだ溜め息が、紫音から漏れる。ゴトリと音を立てて、紫音が持っていた花瓶がシンクに置かれた。ガラスが光を反射させて、シンクに屈折された白い光が当たる。シンクも負けんと光を反射して、それが白い天井に当たった。
紫音はぬれた両腕を上げて、小さく「分かった、分かったから」と言った。何が「分かった」なのだろうとも思ったけれど、そういう事は、関係ない。
私はただ、もう『あの未来』にだけはならないような台本を、見つけなければならないのだ。
「分かったからさ、とりあえず睨むのだけはやめてよ、ね?」
紫音は自分の頬をかいた。少しだけうつむかれた顔が、私に対して下から目線と呼ばれる状態を作り出すと、私はやっと、強張っていた表情を崩した。
ふわぁっ、と、おでこの辺りが温かくなる。
「えぇっとさ」
「うん」
紫音は頬をかいたのと同じ左手で、頭をかいた。そして、相変わらず目を逸らしたまま、言う。
「今は、何も持っていないから」
「・・・・え」
紫音はムッとした表情で、私を見た。
「だから、ナイフも何も持っていないよ。ほら。何も『今回も』死ぬ理由があるわけじゃないんだからさ、落ち着いてよ」
「・・・・え・・・・」
紫音は、濡れた手でブレザーを掴み、まるで付いた虫を引き剥がそうとするみたいに振った。ほんの少しの埃が舞って、ポケットに付いている蓋が捲れて。でも、そこには何も入っていなくて。
ほら。の辺りから、紫音は笑顔になっていた。まるでからかうみたいに。とても楽しそうな笑顔。とてもじゃないけど、憎めない笑顔。柔らかい、とか、硬い、とかいうイメージではなくて、これまでずっと見せていたような大人の笑顔じゃなくて・・・・。
そう、藤黄君みたいな、無邪気な子供の笑顔。
悪戯っぽい笑み、とでも言えば良いのだろうか。からかわれた。そんな感覚が、身体の力を緩める。
・・・・じゃなくて!
「こっ、今回も、って・・・・っ!」
「あぁ、それはまた今度、ね。今は花を何とかしないと」
「はぁ?」
再び、紫音は鼻歌混じりに花瓶の手入れを始めた。花瓶は洗い終わっていたので、水を入れて、そこに花を入れるだけ。
とても綺麗な花。それは『1回目』よりも輝いている気がした。
◇ ◆ ◇
上手く避けられている。授業中から放課後から、全体的に避けられている気がする。というか、絶対に、ほぼ完全に、避けられている。
病院での疑問を胸にアタックし続けて早1週間・・・・。
1度も、紫音とまともに話せていない。話せたとして、交わした言葉は「おはよう」とか「じゃあね」とか。他だと「あ、ごめん(廊下でぶつかってしまった時)」とか。
「また避けられた~・・・・」
「そう落ち込まないで? というか、紫音君、傍目では分からないような避け方をしているから、気付きにくいなぁ。誰も不自然に思わないもん」
葵に励まされつつ、放課後の教室でしょんぼりしてみる。葵の口振りからして、紫音は本来人付き合いの良い人間なのだろう。実際、初めて会った時は優しくて話しかけやすいヒトというか、同じくクラスメイトで天才の紫苑君に比べれば、断然明るくて会話が続くというか。
要するに、俗に言う『良い人間』ではあるのだ。そして私と紫音が既に会って会話をしているという事を知らない人間なら、彼が私を避けているとは全く思わないし、それを知っている葵でさえ、気付くのに1週間はかかっているのだ。
当事者である私だから結構早めに気付いたわけだけれど、そもそもどうして私を避けるような真似をするのだろうか。・・・・謎だ。
「ねぇ葵」
「ん?」
「紫音ってさぁ、隠し事があると人を遠巻きにするタイプなのかなぁ」
「えー?」
葵は長くて綺麗な髪を手櫛でとかしながら、口調は「そんなのどうでも良い」といった感じで答える。でも、これでも、結構真剣に聞いている方。
「逆だね」
「逆?」
葵は一度手を止めて、机に座っている身体ごと、私に顔を向ける。
「そう。紫音君って、どちらかというと、秘密があるとそれを隠せないで、他の人が近寄ってくるの。で、結局秘密をばらして、大恥をかいたり後悔したり」
そのまま机を降りて、私の前で膝立ちになり、腕を組んで顔を埋める。整った顔立ちで下から目線。ニッコリと微笑んだ。
「要するに、隠し事が下手なの」
おかしそうに話す葵は、埋めて見えない口元が緩んでいるのが分かるほど、とても楽しそう。髪が床すれすれに垂れていて、葵の頭に合わせて一部が揺れている。
おもわず零れてしまったような、そんな笑顔に、私もつられて笑みを零す。程度で言えば、下手な苦笑いのような、僅かな笑み。でも、苦笑いと違って、心の中には確かな温かい気持ちがあった。葵は嫌いな人がいないのか、いつもヒトを褒めているのだ。そしてその褒め言葉は、しっかりと的を射ているのだ。
だから、確信する。そんな素直な紫音が隠し通せるぐらいに上手い避け方をしているという事は、私に、話してはならない秘密があるという事。
彼は「また今度話す」と言っていた。でも話さないということは、その話す内容の中に話したくない事があるということ。おそらくだけれど、彼は「話す」というのは「全部話す」と同意で、多分、言える事と、言えない事を、全部ひっくるめて話すのが前提なのだろう。
それでは、私を遠巻きにしていたのも頷ける。
だって、話したくない事が混じっているのだから。
しかもそれは、彼がどうしても隠さなければならないような、そんな秘密。
「ね、藍菜ちゃん。とりあえず、紫音君と積極的に話す事から始めたら? こっちから話題を振れば、紫音君って大体会話を断れないし」
「そうなの?」
「うん。だって、根っからの素直さんだもん♪」
葵は立ち上がり、とてもとても楽しそうに笑った。小首を傾げて笑う姿は、もう、ファンクラブがあってもおかしくないほどに、かわいい。
いや、もしかしたら既に作られているかも知れない。このかわいい笑顔とスタイルの良さ、すましている時の凛々しく美しい表情と雰囲気。この紺青 葵という人間は、ファンクラブが無ければおかしい、とさえ思えるぐらいに、魅力的な少女なのだ。
「葵って、魅力的な子だよね」
「えー?」
口調も調子も先程と変わらない声だったが、表情はちょっと違う。呆然とした、というか、ありえない、と思っている時の表情。
あれ? 何か変な事でも言ったかな、私。
「・・・・ねぇ、藍菜ちゃん」
葵の表情が呆然から怒りに変わる。ただ、それほど怒ってはいない。声を荒げるでもなく、手を振り上げるでもなく、ただ若干眉間にシワが寄っただけだ。
「あのね、私、魅力っていうのは容姿だけで決まるわけではないと思うの」
「え・・・・」
そして紡がれたのは、何処と無く心配そうな声色で、諭すような口調の言葉。
「藤黄君とかの方が、ずっと魅力的。分かるでしょう?」
半分ほど、諦めているかのような、そんな声。
葵は結構、いやそれ以上に魅力的な人だと思うのに、本人はそれほど自覚していないらしい。
もしくは、藤黄君の方が『圧倒的に魅力的だ』と思っているからか。
・・・・分かる気がした。
私は葵より断然かわいさは足りないだろうし、ルックスも普通だ。到底彼女に敵うはずの無い存在であるという事を知っている。
―― 葵にとっての藤黄君は、私にとっての葵なのだ。
日常的に話す私と葵は、傍から見れば「仲良いなぁ」とか「何を話しているのかなぁ」とか、そのくらいしか思われないだろう。中には「あの2人は吊りあっていないよ」とか言う失礼極まりない奴もいるかもしれない。
その私と葵の関係が、葵と藤黄君の間にもあるのだ。性別が違うから色恋沙汰にもなる事があるだろう。何処と無く、それは嫌だ。
藤黄君には失礼だけど、私は藤黄君と2人きりに(そもそもそんなシチュエーションは無いだろうケド)なりたくない。もし同じ女の子同士だったとしても、その意見は変わらないと思う。そして私が男の子になったとしても、同意見だと思ってしまう。
彼は、魅力的な人間なのだ。
何処がどう、という訳ではない。ルックスは結構上位に入るかもしれないけれど、心臓が弱いという事を入れると中の上、良くて上の下辺り。顔は金髪だとか、左右で色の違う瞳とかが一見目立っているけれども見慣れてしまえばそれなり。格好良いかもしれないし、格好悪く・・・・は、ないかな。
そう、何処がどう、というわけでは決して無いのである。ただ醸し出す雰囲気が、自然と目を引かせるというのはある。けれども、それが何故なのかまではまったくもって分からないのだ。
彼と一緒にいると、嫌でも彼の魅力と自分の魅力を比較してしまう。私はそれほど被虐的な人間ではないと思うけれど、彼といると、どうしても自分の普通でしかない部分を見つめてしまうのだ。
なんて事を、夕暮れ色に染まる商店街を見ながら歩く。
門限を気にしながら、私は小さな子供達の笑い声や、遠くに聞こえる車の走る音に耳を傾ける。自然と、古い町並みの方から聞こえてくる、活気付いた色々な店主の声も聞こえてくる。
それに対して、この場所は静かだ。車は少しだけしか通らないし、店主の声も無い。ただ遠くから聞こえてくるだけなのだ。全体的にオレンジ色に染まった町は人通りも少なくて、ただただ切ない雰囲気を作るだけだった。
「―― あれっ、どうしたの、そんな所で」
「えっ」
噂をすれば何とやら。幼馴染が、その言葉をやけに多く使っていたのを思い出す。よく先生の秘密話を、多くの友人に言いふらしては叱られていた。
「藤黄、君」
そこには、藤黄君がいた。綺麗な夕焼け色に染まっていても、綺麗な金色だと分かる髪を揺らしている。彼は制服にエプロンを着けて、歩み寄ってきた。
「うん? どうしたの、藍菜ちゃん。何か不思議な表情だけれども」
「そ、そうかな。それより、何で此処にいるの?」
・・・・そう、何も考えずに聞いてしまった。
けれど、少し考えれば分かる。
彼が身に着けているエプロンには、フランス語で『黄色』を意味する《JAUNE》という緑色の文字が刺繍されていた。