墜つ鳥跡を濁し 前編
1
腹を空かせているラーグと名付けた魔物の仔獣を伴って巣穴の外に出ると、既に夕刻に近付いていた。
遠く木々の彼方に、赤身を帯び始めた山々が見える。
夕日に照らされた、私の――老魔導師の屍を思い出す。
あの時はまさしく途方に暮れたものだが、今は緊張の連続でそんな暇はない。
いずれまた疲れ果て、往時を懐かしむものであろうが……。
「……さて、やはり肉が良いであろうな?」
ラーグが鼻を鳴らす音が聞こえた。
2
巣穴から少し離れたところ、より樹海の外側の辺りに、先頃からオークの一団が棲まうようになっていた。
私が追い出したゴブリンの群れはそれなりの勢力を誇っており、対して成り代わった私は独りであったので、少々果実や蜂の巣を失敬する程度であった。
この辺りはつまり、空白地帯のようになっているのだった。
(これは楽だの……)
森に入ってしばらく、私はラーグの背に乗っていた。
乗せられた、というのがより正確なのだが。
最初は、小柄な私を気遣ったのであろうかと思ったのだが、理由はすぐにわかった。
私より倍以上の体重があるであろうに、ラーグの足音がしないのである。
これも【隠蔽】の効果なのであろうか。
比べてみれば私の忍び足など、ハイキングに来た都会の子供のようなものでしかなかった。
かなり視界も悪くなってきたこともあるし、【隠蔽】の便利さが却って恐ろしくなった私は、【念動】による結界を張ることにした。
――したら振り落とされた。
なにをするか! と怒鳴ろうとして、ぐっと自制する。
出会って間もなく、ただ一緒に食事をして風呂に入っただけの――そんな友人がいたのはいつ以来だろうか?――間柄だが、無意味なことをするほどの幼子ではない。
じっと彼――雄であることは確認した――の真っ黒な眼を見る。
ラーグは足元の草木を揺らした。
当然、がさがさと音がする。
「……魔法を使われると【隠蔽】が使えなくなるのだな?」
鼻を鳴らす音が聞こえた。
かくして、私は長い毛皮に埋もれながら無為に過ごすことになったのである。
3
2匹のオークがこちらに向かって走って来ている。
といっても、私達が見つかった訳ではない。
何処かで縄張り争いでもしているのか、先程から何匹ものオークが樹海の外の方に走っているのが見えたので、先回りしたのである。
オークといえば、いわゆる豚面をした醜い人型の魔物として知られる。
鼻の穴が完全に前を向いている顔貌からの連想であろうが、その切れ込みを入れたような鼻は、寧ろ蛇の鼻面のようにも思える。
下顎から生えている牙が、その鼻の穴の横のところまで伸びている。
「さてと、お主の腕前を見せてもらおうか?」
だが、若子とはいえこの迷彩樹懶という稀有な魔獣の相手としては、些か不足であったようだ。
ラーグは、【隠蔽】で隠れている自身に気付かず不用心に近づくオークの首筋を、すれ違いざまに鉤爪で切り裂いた……と思われる。
なんと言っても、本気で隠れられると私にも見えなくなってしまう。
気付いたのは、夥しい血を流して倒れ伏すオークを、ラーグが前足で押さえつけていることだけだった。
あの親獣に同じことをされていたらと思うと、冷や汗が出るというものだ。
さて、ともあれもう1匹の方を片付けるのはこちらの役目であろう。
群れの仲間を呼ばれるのも厄介なので、風魔法の気体操作により、首から上を真空状態にしてしまう。
突然転げるように倒れた同胞に驚愕し、突如現れた格上の魔物に恐怖して絶叫する――したであろうオークだが、声が出ないことに恐れを深める。
そして、興奮すればするほどに、身体は新鮮な空気を求める。
醜い鼻の穴から体液を流し、喉を掻きむしるオークを杖で転ばせて、更に数秒。
動きを止めたのを確認して、魔法を解除した。
そんな風に確認していたら、ラーグは既に食事を開始していた。
それほど腹が減っていたのか、
(いや、魔石を喰らっておるのか)
鉤爪で器用に掘り起こした魔石を一呑みにしていた。
少しでも親獣に近づきたいのであろう。
私も同様に、杖の仕込みナイフでオークの魔石を取り出す。
その大きさは、ゴブリンウォーリアより若干大きい程であっただろうか。
物欲しそうな相棒の視線を感じながら、私もそれを飲み込んだ。
そして、鼻を短く鳴らしたラーグが、今度はオークの肉に齧り付こうとしているが、それを制する。
また新たなオークが近づいて来ていた。
4
私達は新たな獲物も危なげなく仕留めて、また魔石を頂戴した。
これで腹が膨れないのはどういう仕組みなのやら?
思考が脱線しそうなのを元に戻す。
「こやつらは一体どこに向かっていたのやら……」
考える間もなく、ラーグはのっそりと歩き出していた。
オークが向かおうとしたであろう方角へ。
更なる魔石を求めてのことであろう。
「下手な考え休むに似たり、か」
【隠蔽】を使われる前に、その背中に飛び乗った。
途中から、予感めいたものはあった。
オークの目的地は、老魔導師が死んだあの崖の下であった。
そして、私が崖から下ろしたあの馬車を背に、10名程の獣人の一団がオークの群れを交戦していた。
馬車には縄が掛けられて、崖の上に続いている。
察するに、馬車を上に引き揚げようと作業中、オーク達に見つかってしまったというところであろう。
獣人達はかなりの手練れと見え、更には崖の上から弓矢の援護もあるのだが、仲間と切り結ぶ魔物を射るのには距離があって危険すぎ、といって樹海の中に潜むオークを狙うのも難しいらしく、牽制程度にしかなっていないようだった。
このまま夜になれば、その牽制すらできなくなるだろう。
(……ほう! 女子ではないか)
獣人達の中心、凛々しく顔を引き締めた、黒髪の女剣士がいた。
魔物の素材で作ったであろう硬革鎧は一見冒険者風の出で立ちであるが、その鋭い太刀筋からは、正式の訓練を受けたような雰囲気を感じられる。
騎士か、少なくともその訓練を受けた者であることは間違いあるまい。
とすれば、獣人達は彼女の配下であろうか。
なかなかに興味をそそる組み合わせである。
獣人と一口に言っても、様々だ。
少し毛深かったり耳の形が異なっている程度の種族も居れば、二本足で歩くのが不思議に思えるような人間からかけ離れた種族もいる。
総じて人間よりも身体的に優れているが、殆どの地域で被差別階級や二級市民として扱われている。
何故か?
いくら健脚な獣人でも馬よりも早く長く走ることは出来ず、鋭い爪や牙をいくら研ぎ澄ませようとも、人の鍛冶師が鍛えた鋼鉄の刃には敵わない。
そして獣人は基本的に不器用であり、手綱を操るにも物を作るにも不向きであるというのがその理由である。
だが、軍勢同士がぶつかり合う会戦では力不足の一方、樹海のような場所での彼らは非常に頼りになる。
特に獣人達のうち一人、黒い毛皮の猫型の獣人は、手練れの中でもまた格が違うようだ。
大柄だがバランスの良い体躯はまさにネコ科の柔軟性を備えている。
相手にしているのは、こちらもオークのリーダー格であろうオークウォーリアなのだが、周囲の仲間をフォローする余裕さえ見える。
気づけば彼らに守られるようにして、他にも一人、若い男がいた。
魔導の発動体である杖を持ち、着ているローブは今はひどく懐かしいアイティセルム魔導師ギルドの研究員のものである。
(あれは……ウォーレンではないか!)
ウォーレン・デンビー。
老魔導師――アイティセルム魔導師ギルド評議員、ガルス・レイトレッドの最後の弟子、と言う事ができる。
別段出来が良いわけではなかったが、要領が良い生徒だった。
私が魔法を習い覚えた頃は、必要最低限のことを教えられた後は、理論は自分で調べろ、実践は師から盗め、と突き放されたものだったが、平和な時代が続いて最近は随分様変わりした。
難しい理論を教えると、「……で、それが一体なんの役に立つんすか?」等とのたまう馬鹿者も出てくる始末だが、ウォーレンは一応、年寄りが話をしている時には真面目に聞いている振りをするぐらいの分別は持っていた。
講義の合間を縫って若い娘を誘い出すような度し難い面もありはしたが……まあいい。
私が左遷されたのを機に、ギルドを辞して夫人の実家の商家を手伝うと聞いて、魔導師よりも向いているだろうと珍しく本心から祝福したものだが、こんなところで冒険者稼業でも始めたか?
……いや、わかっている。
私が赴任途中で死んだから遺体の引き取りや、事務手続きを押し付けられたのであろう。
いや、そもそも……。
(……儂はちゃんと死んだことになっておるのか?)
死体は埋葬した。
遺品が見つかればとも思うが、杖とローブはこの通り持ち歩いているし、サイズが合わない衣服もそのうち使えるようになるのでは、と持ってきてしまっている。
確かに、崖から落ちた。
それは、私と違って素面だったあの御者も覚えているだろう。
だが、あの後――現に今見えているように――馬車を崖の上から下ろしたように、鳥のように空を舞うことはできなくとも、多少浮くぐらいはなんでもない。
客観的に考えて、上級の魔導師が崖から落ちたと言われて、それで死んだことになるかと言われると……。
(……もしや、失踪したと思われておらんか?)
下手をすれば捜索隊が組まれてしまう、そうなればあの巣穴まで見つけられてしまうであろう。
ああいう魔物の棲家に適した場所は、見つけられれば潰されてしまうのが大概だ。
死体を見つければ帰るだろうが、生憎と老魔導師の屍は火葬してしまった。
私の人格の元となった人物の死体であるし、他の魔物に食い荒らされるというのは、正直な所気分が悪い。
そうした感情的な部分は横に避けておいても、老魔導師の死体を食べた他の魔物に影響が出るのは好ましい事態ではない。
もしも、私と同じ人格を持つゴブリンが量産されたら、というのは面白い想像ではないだろう。
といって、私が私として目覚めた以上、私自身でその死体を食うのも考えられない。
だから焼いた。
念入りに。
骨まで溶かした。
無造作に馬車の周りに散骨したから、恐らく連中はそうと知らずに何度も踏みにじっていることだろう。
……なんとも言葉にし難い。
「なんとか穏便に帰ってもらうしかないのぅ」
5
丁度良い具合に樹木に巻き付いている蔓草があった。
魔力を通して操って、崖下の争いの場へと這わせる。
――樹人!?
――魔王の眷属! 退け! 退くのだ!
「とんだ勘違いであるな」
確かに、樹人がこういう手段で攻撃することはある。
植物を操る樹人の魔法は、樹海においてはどれだけ警戒してもし足りない。
しかし、私がやっているのは蔦に魔力を通して強靭にし、更に【念動】で動かしているだけである。
その蔦が、木々の間に潜む豚面の魔物に絡みつく。
蔦1本で動きを止めることができ、2本あればオークを為す術もなく引き摺ることができる。
オーク達も樹人の襲撃と思い込んでいるのか、既に恐慌状態に陥ろうとしていた。
囚われたオークはそれを解こうとするが、半ばが蹄と化している彼らの手は、そういう作業には極めて向いていない。
(ここは一気に勝負を掛けるべきか)
連中の腰が引けている間に、操る蔦の本数を一気に増やす。
当然、巧みな動きはできなくなるが、狙うは1匹、オークウォーリアである。
1本が腕に向かうが、さすがに容易く引き千切られる。
しかしその時には、死角から2本の蔦が両足を絡めとる。
更に3本、上半身を縛り付ける。
「止めは任せるぞ」
ラーグが鼻を鳴らして、それを実行した。
オークウォーリアの魔石が1つと、オークの魔石が先の4つを合わせて17個。
なかなかの収穫と言えよう。
……オークウォーリアの魔石はいつの間にかラーグに喰われてしまったが。
『ウォーレン……ウォーレン』
風魔法で彼の耳元に声を届ける。
ウォーレンは見知らぬ声――今の私は子どものような声になっているであろう――に慌てて周囲を見回す。
こちらを見た時に合わせて、杖を持ち上げて見せつける。
この杖が誰のものであるか、あ奴なら当然知っている。
ついでに、向こうの声も聴くとしよう。
――す、すみません、アリシア殿、その、ちょっと別行動を。今のうちに馬車の引き揚げをお願いします。
――何を馬鹿なことを!
止めたのは、あの黒髪の騎士だった。
やはり、それなりの身分であると見える。
――……失礼しました。しかし、ガルス導師の二の舞いになっては間違いなく国際問題です。いえ、もう問題は起きているのです。
『大丈夫だから誤魔化せ……!』
――いえその、大丈夫だそうです……多分。
まったくあやつは……機転が利かん。
男女比の偏った魔導師ギルドで嫁をこさえた者とも思えん。
……あの時、他の教授や講師にどれだけ嫌味を言われたと思っておるのだ。
――重ねて失礼。ウォーレン殿の意思は聞いておりません。調査のために森に入るならそれも結構! 我々も同行するだけのこと。
視力を強化するまでもなく、ウォーレンが頭を抱えたのがわかる。
それにしてもあの娘、言い訳をしない物言いはむしろ心地よいが、それも時と場合によるというものだ。
――アリシア殿、そう頭ごなしでは話も進まぬというもの。
そこを、先程の黒い獣人が宥めに入った。
――見ての通り、この森は危険に御座います。我ら一同、殿下より可能な限りウォーレン殿の意に沿うように申し付かっておりますが、ウォーレン殿ご自身の身を危険に晒しては元も子もないというもの。
恩師の身を案ずるウォーレン殿のお心、我ら一同襟を正す思いに御座いますが、既に時刻も時刻。明日、また手勢を集めて探索ということにさせてはいただけますまいか?
ウォーレンは泣きそうな顔でこちらを見てきた。
古風ではあるが、そこいらの騎士にも出来ないであろう、見事な振る舞いと言えよう。
ああやって飴と鞭を使い分けているのだとすれば、二言目には「マジ!?」だの、語尾に「ッスか?」だのという珍妙な言葉遣いしかできない最近の若者には太刀打ちできまい。
魔導師ギルドは礼儀作法を教える場所ではないので、私に責任があるわけではないが、嘆かわしい限りである。
……というか少しは視線を隠せ、見つかってしまうではないか。
「すまぬ、ラーグよ。お主には関わりなきことだが、少しばかり手伝ってくれぬか?」
数秒開けて、鼻を鳴らす音が聞こえた。
もう一度「すまぬ」と繰り返して、また蔦に魔力を通わせる。
『最初からこうすれば良かったわ……。歯を食いしばれ』
――え? ええ!? あ、ちょぉ――――!
蔦で四肢を縛り付けて、一気に引きずり込む。
オークの巨体に比べれら、ゴブリンと大差ない。
……一応、加減はしたが。
「――ぉぉおおお!? って、ゴブリンメイジ!?」
――ッ!? 追え! 全ては殿下のために!
――殿下のためにッ!!
「あああああ、畜生! 向こうは向こうでやる気ありすぎだよ!?」
「いい年をした男があたふたと見苦しい! ラーグ! 其奴を巣穴へ!」
「あんた相変わらず無茶苦茶だ先生ぇ――――――……」
さて、少し足止めをさせてもらおうか。
蔦で先陣を切る女騎士の足首を掴んで宙吊りにする。
オークの腕力でもなかなか切れなかった蔦ではあるが、あの剣腕相手では頼りない。
少々申し訳ないが、あの姿勢では剣を振るえまい、恐らく。
黒い獣人は手強い、オークウォーリアにしたよりも更に多くの蔦を向かわせる。
5本――うち3本が躱され、2本が爪で切り裂かれた。
惚れ惚れするほど見事な【強化魔法】である。
あと5歩もない距離まで詰め寄られて更に7本――ようやっと片足に絡め取る。
だが爪先では吊り上げることは無理だ。
態勢を崩したところに追加で5本――手近な樹に縛り付けさせてもらう。
この2人が指揮官であろうから、とりあえずはこれで時間を稼ぐことはできるか。
辺りにまだオークはうろついているであろうが、他の獣人が遠からず解放してくれるだろう。
(相すまんことだが、なかなかに楽しめたな)
樹海の外でその領域をちまちまと広げている人間と、樹海の只中で生き抜く魔物達。
数値で言えば力も魔力も魔物の方が上であろうが、数値で示せないものが人間にはあると信ずる。
魔法をギリギリまで維持しながら、私は巣穴に向かって走り出した。