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樹海という場所 後編

  4



 巣穴に戻る途中で、もう一度さっきの場所に戻らなければならなかった。

 結果としては、甘いものが疲労回復に非常に優れているということが確認できた。

 どうもやはり、生まれ変わって子供舌になってしまったのか、甘味が、


(無性に食べたくなるような……)


 そんな衝動に駆られるのである。

 頭の中まで子供……、などとは思いたくないものだが。






 そんな具合で、腹の中から蜂蜜の匂いが立ち上ってくるような有り様だったからこそ、その異質な臭いに気付けたのであろう。


(……血の臭いだ)


 巣穴の近くの木に、その元はあった。

 既に黒ずんだ血痕。

 果たして今朝巣穴から出た時にあったかどうか……。

 だがもし怪我をした魔物がここに辿り着いて、目の前に具合のよさそうな無人の穴があったら、……入らないわけがないように思える。


 巣穴の出入口がそれなり以上に広いため、扉もなにも付けていない。

 単純にそういうのを造り出す技術がないからなのだが。

 地魔法で即席で埋めてしまうというのも考えたのだが、いざという時逃げ込むのに不便かと思えたのだ。

 それにここは魔力溢れる樹海、魔力で成長力を強化された草木が、寝て起きたら一面に、ということもなくはない。

 入り口を埋めた上でそうなったら、さすがにすぐに見つけられる気がしなかった。


 いや、言い訳はすまい。

 油断をしていたのだ。

 このゴブリンの身体は貧弱ではあるが、いやだからこそであろう、五感に非常に優れている。

 だから、何か脅威が迫ったらわかるであろう、と考えてしまった。

 入り口を塞がなくとも、せめて痕跡がわかるように出入口を泥や砂にするなど、やりようはあったであろうに。


 巣穴の出入口から、まずは【身体強化】で嗅覚を強化して臭いがしないか確かめる。

 ちょっとカビ臭い以外はおかしいことはなにもない。

 この巣の先住者達の臭いは、数日掛けて魔法で洗ったこともあり随分とマシになった。

 次に、聴覚を強化する。

 血が流れているのであれば心臓が動いているはずであり、たとえネズミ1匹でも――と言うのはさすがに大げさな表現ではあるが――わかるはずであるが、異常は何もない。

 だが、私は警戒を緩めるつもりはなかった。



 ――【隠蔽】スキル。



 そう、呼ばれるものがある。

 卓越した技術であるとも言われるし、その信仰を大手を振って明らかに出来ない種類の神々からの恩寵であるとも言われる。

 いくつかの種族が先天的に持っているとされ、私も実際目の当たりにしたことがある。

 それは千変蜥蜴という掌から尻尾がはみ出る程度の大きさの爬虫類で、水槽の中で飼育されているそれが、目の前で消え去るのを確かに見た。

 実際には消えるわけではなく、見えているのに認識ができない――意識の中から消えるというのが正しいものらしい。

 その時は、砂の地面についた足跡を辿ることで見つけることが出来た。


(この先、人類がどれほど魔法を発展させても……)


 それをすることは敵わないのではないか、というような畏怖を覚えたことを覚えている。


 かのスカウトゴーレムのような魔物から身を隠すにはどうすれば……と考えた時、自然とその当時のことを思い出していた。

 意識がその方向に向いていなければ、こうして今その考えに思い至っていたかどうか……。

 今の身体ならば幸い、魔石や死肉を喰らうことで知識や技術を得られる可能性がある。

 であるとすれば……。


 私はまず、極めて微弱な【念動】による結界を展開する。

 原理は極めて単純で、視覚障害者が杖や手をついて安全を確保するのと全く変わらない。

 そして、一歩、一歩と踏みしめて広間を進み、「私は今、とてつもなく馬鹿げたことをしているのでは?」という脳裏の声に抗いながら、たっぷり時間を掛けて広間に到達する。


 入り口からの僅かの光しか入らない広間は、人間には真っ暗闇と大差ないであろうが、ゴブリンならば充分な光源だった。

 天井の高さは、自然の産物かゴブリン達が掘ったものかは不明だが、かなり余裕があり、広さに関しては数百匹のゴブリンが生活していたのだから、言うまでもない。

 人間の建物で言えば、そこそこ以上の規模の屋敷の、二階層吹き抜けの玄関ホールというところだろうか。

 私は結界を広げ、全体を隈なく探索できるようにする。


(やはり、なにもおらぬ、か……?)


 その時、【念動】が玄武岩質の地面と異なる感触を捉える。

 ――瞬間、この広間でさえ天井に突っかかりそうな偉容、壁に溶け込む黒灰色の巨体。

 それが、腕を振り上げている姿が突如として見えるようになった。

 まるで天井が落ちてきたような質量が、私に向かって振り下ろされた。



  5



 その巨躯がただそこにあるだけで、酒樽何杯分の血液が体内を流れるだろう? それを押し出すための心臓の質量は如何程か? 体積にしてどれほどの空気を吸って吐くというのか?


(これが【隠蔽】か……)


 ここまで見事に騙されると笑いがこみ上げてくるというものだ。

 意外に冷静なものである。



 今、私は殺されようとしているというのに……。



 それほどだった。

 それほど圧倒的な魔力だった。

 この巨獣から迸る魔力の波動は、ゴブリンロードが10匹集まってさえ、この圧力には及ぶまい。


 初撃を躱せたのは、この巨獣の獲物としては私は小さ過ぎたこと、そして広間の段差のお陰であろう。

 付け加えるなら、この樹海のヒエラルキーの最底辺にいる生物――ゴブリンとしての本能が、一切の抵抗を考えずに逃げる、という選択を私にさせたかもしれない。

 盾として武器として、広間の奥に鎮座するゴブリンロードの玉座を【念動】で動かして巨獣にぶつける。

 巨獣の【身体強化】した腕が玉座を砕く前に、ぎりぎりで土魔法による【硬質化】が間に合った。

 硬度を増した玉座は、その形は保ったままだった。


 私は少しずつ距離を取りながら、全魔力を【念動】と【硬質化】に注ぎ込む。

 言うまでもないが、既に私の頭に、この魔物の魔石を奪うことは完全に消え去っている。

 僅かでも巨獣の意識を散漫にさせ、攻撃させれば玉座で防ぐ。

 この巨獣が怪我をしているであろうことだけが一縷の望みであろう。

 だが、巨獣は私を追おうとはせず、私が操る忌々しい大岩を睨みつけているばかりだった。



 背後に何かを庇うように。



 それは、巨獣の子供と思われる小さな――といっても私よりよほど大きいが――獣だった。

 その幼獣に、果たして意識があるのかどうか。


(血の臭い……)


 そう、血の臭いであった。

 この獣の親子は、濃密な血の臭いを纏っていた。

 これがなければ、そもそも私はこの獣の存在に気付きもしなかったはずで、自分が死んだことさえ気付かずに叩き潰されていたであろう。


『大きなものよ、なぜ傷ついておる?』


 なぜそのようなことをと問われたら、好奇心と答える他あるまい。

 言語はゴブリンロードの魔石から得たゴブリン語である。

 この巨獣がこれまでにゴブリンの魔石を喰らっているのなら、言葉が通ずる可能性は充分にあるように思えた。


『小さきもの共を従えた、大きく醜く歪な存在にだ。小さきものよ』


 この巨獣をしてなお、大きいと評する存在がいる。

 この巨獣を傷つけることができるだけの存在が。

 殆ど期待もしていなかった質問に対して答えを得られたという興奮が、じわりと膨らむ恐怖心によって打ち消されてしまった。


(これが樹海という場所か……)


『小さく歪だが賢きものよ。我はもう死ぬ。だが我の魔石を喰らうことは小さきものには叶わぬであろう。喰らうならば我が子にせよ』


 我が子を喰らえ――およそ想像の埒外の言葉だが、ゴブリンとしての私には少し理解できる気がした。

 子供の魔石を他の魔物に与えれば、子供の知識や魔力はその中で続いていく。

 それはある意味、命を繋ぐということだ。

 スカウトゴーレムのような樹魔王ドライアスの眷属の手に落ちれば、意思なきゴーレムに成り果てる、それよりは良いと思ったのではないだろうか?


『大きなものよ、お前の子に大きなものの魔石を食わせることはできないのか?』

『我が子にもまた耐えられぬ』


 一体この巨獣は、どれだけの年月を生き、どれだけの魔石を喰らって来たのだろうか?

 私の、老魔導師としての年月さえも敵わないのかもしれない。


『ここの小さな魔石がある。これを喰らえば治せるか?』


 私はゴブリンの魔石を取り出した。

 先刻、スカウトゴーレムによって壊滅した群れのものだ。

 私には既にこの魔獣への敵意も恐怖心はなく、ただただ圧倒的な力と深い知性に対する憧れと敬意を抱いていた。

 ゴブリンとしての私が、


(この存在に喰われて一つになれるのならば……)


 とさえ思える程に。

 そして老魔導師としての気持ちを言葉にするとすれば、「惜しい……」というものだった。

 何故ならば――


『我が子はまだ間に合うかもしれぬ。しかし、我に小さきものからそれを奪う力は残っていない』


 ――気付いていた。

 【隠蔽】が解除されて私の鼻に届くようになったこの臭いは、この巨獣が纏うものは、血臭というよりも死臭ではなかったかと。

 腹に開いた傷痕からは、既に血が流れてもいない。

 黒ずんで乾いた血液が、長い毛皮を固めている。



 この獣はもう死んでいる!



 ――ああ! なぜゴブリン語などという未発達な言語でしか語れないのか。

 この、我が子を守るためにその身を捧げる、この巨獣を賛美するのに必要な語彙が、この言語には致命的に欠けていた。


『私が大きなものの子を癒やそう』

『……それで小さく賢きものが何を得るのかは知らぬが、好きにするがよかろう』


 糸が切れたように――正にその言葉通りに、巨獣は事切れた。

 余りにも、余りにも呆気なく、それ本来あるべき姿に戻った。



  6



 改めて親獣の姿を観察する。

 それは非常に長い――私自身の腕よりも長い――毛に覆われた、痩せ型の熊のような魔物だった。

 遥か昔に出版された樹海に関する書物で見たのみであるが、迷彩樹懶(ギリーテリウム)という魔物であると思われた。

 毛色を自由に変えることが出来、地形に溶け込んで待ち伏せ型の狩りをすると想像されていた。

 今は玄武岩質に溶け込む色をしていて、【隠蔽】は解除されているのに見事な保護色であった。


 私は親獣の瞼を閉じさせた後、気を失った幼獣に【回復力強化】の始原魔法による治療を開始した。

 意識が戻るのには数分を要した。

 私を親の敵と思うのではと内心身構えたのだが、親の姿に顔を向けると、寂しげに鼻を鳴らすだけで、大人しくしていた。

 この仔獣も、既に親獣の息が絶えていたことを知っていたのであろう。


 親獣に言った通りに、仔獣に魔物を与える。

 ゴブリンロードの魔石が1個、ウォーリア種の魔石が4個、ゴブリンの魔石が50個以上。

 スカウトゴーレムが仕留めて解体したものを奪い取ったものである。

 でなければ、こんな大量の魔石――特にゴブリン種の魔石は小石というよりも砂利程度しかない――を集めるのは願い下げである。

 先日自分の身に起こったことを考えて、小さい魔石から慎重に与えようとしたが、まどろっこしそうにする仔獣に奪われてしまった。

 身体や魔石の急成長が起こった様子がないのは、種としてのポテンシャルに差がありすぎるためか、あるいは消耗が激し過ぎたためだろうか。

 ……後者だと思いたいものだが。


 次に食べ物だが、私にとっては一抱え程もある蜂の巣をこれまたペロリと平らげられてしまって、これには弱らされた。


「まだ食い足りないのかね?」


 呆れて、思わず人間の言葉で話しかけてしまうと、仔獣は私に口に鼻先を寄せてスピスピ言わせてきた。

 察するに、口に入れるものをもっと寄越せ、という感じだろうか。

 魔石がまだ馴染んでいないのか、子供故に喉や舌がまだ成長しきっていないのか、ゴブリン語は話せないようだが、こちらの言うことがなんとなく通じているような気はした。

 親を見ても明らかに知性が高かったので、教え込めば人間の言葉も操れるようになるのかもしれない。


「わかったわかった。だがその前に、少しは身綺麗にせねばならんな」


 勿論清潔に越したことはないが、それ以上に血の匂いを漂わせている現状は危険である。

 この樹海のどこかには、あの親獣ですら敵わない存在が棲息しているのだから。






 老魔導師としての私は、やはりたまには風呂に入りたかったので、ゴブリンの繁殖用の小部屋を改装して造っていた。

 といっても、さすがに湯船までは作っていない。

 まず、足首まで浸かるぐらいの深さになるまで岩を溶かして抉った。

 その場所に水を張って、高温に熱した石を放り込む。

 極めて原始的ではあるが、いわゆるスチームバスと呼べるものであろう。

 言うまでもなく上下水道の完備など夢のまた夢であるから、風呂の準備から後片付けまで、全て魔法が頼りとなる。

 幸い、私自身の身体が成長することを見越して余裕のある造りにしたため、仔獣であっても余裕を持って入ることができた。

 無論、今のところは、という注釈が必要であろうが。


「身体から古いものを出して、新しいものが作られるようにするのだよ」


 実際困ったのである、1年分の成長期が数日に凝縮して現れたようなものだったから、垢やフケが酷かったのである。

 仔獣にもその悩みがあったのかなかったのか、あるいは単に血の臭いを取るためだけにか、ともあれ嫌がりながらも私のされるがままになってくれた。

 汗を流したら水を浴び、また汗を流して、と3回繰り返す。

 終わって熱風で毛を乾かすと、長い毛が膨らんで最初に見た時よりも二回りは大きくなったように見えた。


 私は胸中に湧き上がる不思議な衝動に抗って、努めて冷静に口を開く。


「では、狩りに行くとするか。……ふむ、その前に名前をつけるべきか」


 『好きにするがよかろう』か。

 一体そこにはどのような気持ちが篭っていたものか……。


(まあ、良いわ)


 そう、好きにさせてもらおう。


「うむ。これからはお主を『ラーグ』と呼ぶことにする。『大きなもの』という意味であるぞ」


 幼獣――ラーグは、親の遺骸をを見て何事かを吠えた。

 『大きなもの』に見送られて、私達は狩りに出た。

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