真夏の誘拐犯へ
耳に響くセミの声。目を開ければ、視界に広がる赤い朝顔。
「あ、起きた?」
朝顔が喋った。
「……まだ眠い?」
――――違う、彼女だ。
茹で上がるような暑さの外と比べて、幾分か涼しい室内。ひんやりとした畳の上に、敷かれた白い蒲団の上で、僕は少し寝ていたようだ。
大きく開いた障子の向こうには、一本の大きな桜の木。今は花は散り、一匹のセミがとまって細く長く鳴いている。
木で出来た縁側に、ゆったりと腰掛けているのが彼女。彼女は長い髪を結い、色とりどりの朝顔柄の浴衣を着て、細い腕を動かして和紙の団扇を仰いでる。その度に袖の朝顔が揺れて、まるで本物の花々が夏風にふかれているようだった。
これは、僕が選んだ浴衣だ。
よく似合っていると思う。
「……夏休みがあと一週間で終わるね」
彼女がポツリと呟いた。僕は横になったまま、そっかと返す。
「ここに来てもう1ヶ月近くかぁ」
彼女の言葉に合わせて、パタパタと団扇が動く。それを目で追いながら、僕はもう一ヶ月かと、すでにぼやけ始めてきた記憶を思い起こす。
――――僕と彼女の関係は、的確に言い表すとしたら『誘拐犯』と『被害者』。
誘拐犯は僕で、被害者は彼女だ。
彼女の名前は凪。どこにでもいる、普通の高校三年生。
日が落ちるのが遅くなってきた夏休みの始まり。下校中の彼女を、僕は拉致した。彼女は部活帰りで、車に連れ込むために腕を強く引いたとき、彼女から仄かな汗の香りがしたことを覚えている。
僕の方は確か病院帰りで、いつもより体が楽だった気がする。肉の削げ落ちた骨のような手で、よく彼女を捕まえられたな、と今なら思う。まあ、誘拐が成功した一番の理由は、おそらく彼女が何一つ抵抗しなかったことにあるのだろうけど。
それからこの広い家で、僕は彼女と二人きり。
「もうこの家の間取り図完璧だよ」
ふふっと、彼女は軽快に笑った。
拉致監禁というには、僕は彼女を自由にし過ぎていると思う。
あっけなく事故で死んだ親の財産だけが残るこの家には、たまに親戚とかいう名の他人が来る。薄い笑顔を張り付けて、分かりきった財産目当てで。その時ばかりは彼女を、手入れのしてないホコリ臭い納戸に閉じ込めてはいる。だけど、それ以外は拘束したことなどなかった。
逃げようと思えばそれこそいつでも逃げられる。
現に今だって、僕が寝てる間に彼女は逃げられたはずだ。何より、男相手とはいえ、病弱な僕のこと。台所から刃こぼれの酷い包丁でも持って来れば、僕は見ただけで震え上がって何も出来ないだろう。逃げるチャンスなど、それこそ庭で転がっているセミの死骸ほどあった。
それでも彼女はこの一ヶ月、一度もこの家から出ようとはしなかった。まずこの家に連れてきてから、目立つ抵抗すらしたことないが。
「ねぇ、あなたはこの家好き?」
嫌いじゃないと答える。
彼女は時々、こうやって僕に関する質問をする。
彼女の中での僕のプロフィールは、19才・大学生・心臓が弱い・料理が上手い・特にオムライス・ちょっと憂いを帯びた病的な美青年、らしい。
「私はね、自分の家は嫌い。居たら宿題しなさいか、部活に行きなさいしか言わないもん」
どこか遠くを見つめて、酷く子供っぽい表情で彼女は拗ねたように言った。
ちなみに、彼女はテニス部だ。
一年生の時から、グラウンドで練習をする彼女を、僕は見ていた。義務となった病院の帰り、彼女の学校の前を通るたび、車からずっと。
仲間から離れて、一人でひたすら壁打ちする姿を、飽きるまで。
「先週で大会、全部終わり」
知ってる。僕も高校の時はテニス部だったから。
「みんな、勝ったかなぁ」
彼女の瞳には、きっと黄色い球が飛び交う、テニスコートでも見えているのだろう。その横顔はどこか懐かしむようで、それでいて寂しそうであった。
新聞を見れば勝敗はわかるよ、と言いかけたが、そんなことは彼女も知っているだろう。それでも一度も見ようとしなかったのは彼女なんだから、余計なことは言う必要はないと、僕は口を閉ざした。
緩慢な動作で、僕が寝返りを打ったところで、彼女がポツリと呟く。
「……ずっとあなたに言いたかったんだ」
彼女が悲しげに目を伏せた。セミの声がやけに五月蠅く耳につく。
「――――誘拐してくれて、ありがとう」
彼女の額から流れた汗が、一筋の涙のように見えた。
僕は知っている。
三年生の彼女にとっては、高校生活最後の大会。誰よりも努力し、誰よりも必死に練習してきた彼女は、ついに一度もレギュラーにはなれなかった。その代わり、途中から入部した、身長の低い可愛らしい顔立ちの女の子が、あっさりとレギュラー入りをした。部活にすべてを注いだ三年間、彼女は結局、大会という晴れ舞台には、一歩たりとも立たせてはもらえなかったのだ。
僕は鮮明に覚えている。
期待と不安が入り乱れた中で、グラウンドで行われた大会のメンバー発表。女の子たちの歓声と、輝く笑顔。それらを僕は、コートの外から死角となる場所で、ただただじっと見ていた。もちろん、彼女の絶望の表情も。
才能がないと言われればそれまでだ。テニスの強豪である彼女の高校は、部員もたくさんいて、出られなかった者も他にも大勢いた。それでも、三年生で出られなかったのは彼女だけだった。
気遣うような仲間の視線に、彼女は笑ってみせた。
その笑顔は、セミの一生なんかよりも儚くて、咲き誇る朝顔よりも美しく。
それでいて、過ぎ行く夏を一人見送るような、何とも言えない物悲しさを僕に感じさせた。
「仕方ないよ。好きだけど、元から才能なんてないし。努力もきっと足りなかった。……でも、私は性格悪いからさ。心から、みんなに頑張ってなんて言えなかった。自分の出ない試合なんか、これっぽちも応援したくない。途中から入ったあの子が、レギュラーのユニフォームを着るのも見たくない 。――それでも私は、にこにこ笑って応援しなきゃいけない」
彼女が一気に口を動かした。そんなに喋ったら、喉が乾かないかと心配になる。
…………誘拐といっても金を要求したわけでもないし、世間ではそこまでニュースにはなってない。夏休みのちょっとした家出くらいの扱いだろう。でも、当たり前に親や友達は、彼女を探してその身を案じているはずだ。
彼女が一言でも「帰りたい」と言えば、僕はいつでも帰してあげるつもりだった。
「嫌で仕方なかった。何より、心から応援できない自分が。大会で勝っても、みんなと笑えるかずっと不安だった。私がいない試合なんて、負けてしまえばいいって……そう思う日が来ることが、嫌で嫌でたまらなかったの」
彼女の思いが静かな慟哭が、縁側から溢れて夏の空へと溶けていく。
僕は白い布団に身を預けたまま、黙って耳を傾けていた。
「……でも、あなたが拐ってくれたから。私は無理にでも、居たくない場所に立たなくて良くなった。いつも私がいる世界から、遠く離れたこの場所でなら、私は嫌なことを考えなくて済んだの。――――私ね、あなたが一年生の時から、ずっと私のこと見てたの知ってるよ」
もしかしたら僕は彼女に、自分を重ねて見ていたのかもしれない。
僕も大会には一度も出られなかったから。壊れたこの体の、心臓の病気のせいで。コートを自由に駆け回るみんなを、ただ見ているだけだったから。
……彼女がいつか試合に出て、青い空へと球を打つのを見るのが、いつの間にか僕の夢になっていた。勝手な話だけど、僕は彼女の球に自分の夢を見ていたんだ。
「最初はね、何かわからなくて怖かったけど、途中で気付いた。あなたの目はいつも、ただただ純粋に私を応援してくれていた。友達の下手な慰めより、コーチの安い激励より、親の気遣う態度より、何倍も励まされた。あなたのおかげで私は、何の結果も残せなかった三年間を、一人でラケットを振って頑張り続けることが出来たんだよ。……実はね、ずっと聞きたかったことがあるの」
励ますなんて大層な話。ようは僕は、彼女のファンでストーカーなんだ。
「あなたの名前は?」
高宮正樹だよ。
「ただの誘拐犯だよ」
彼女は解れた髪を揺らして、おかしそうに笑った。
「戻ったらこんな言い訳はどう? 夏に拐われてました」
「イマイチだよ。なんなら僕が犯人だって自首しようか?」
「それはダメ。お母さんに目一杯怒られて、それからあの子に聞くの。大会どうだった? って。勝ってたらおめでとう、負けてたらドンマイ!」
「言える?」
「今なら笑えるから」
「そっか。じゃあ僕はもう一回寝るから、蚊取り線香つけといて」
「はいはい。おやすみ」
白地の中で揺れる朝顔を目に焼き付けて、それから僕はゆっくりと目を閉じた。
目を覚ましたら、きっと彼女はもういない。畳まれた浴衣と、煙をたてた蚊取り線香があるだけだ。見送りは、セミがしてくれるだろう。
「ありがとう」
――――肌に感じた風は、確かに秋の風だった。