穴を掘る
もともと、地面を掘るのは好きだった。
一生懸命に土を掻き、必死になって身体を潜らせ、そうして得るものはあまりに小さく、けれどもともと、地面を掘るのは好きだった。
ううん、地面を掘っている誰かを見るのが好きだった。
だから、そう。
それをずっと見ていられただけでもう十分だって、最後にそう思えたことは私にとって救いだったのだと思う。
だから、そんなに悲しそうにしないで。一緒に笑って。
これは私たちの出発のお話なのだから。
……上手く、笑えてたよね。
うん。あのひとに見えるように笑えていたら、それでいい。
「こんばんは、モグラさん」
「やあ、こんばんは、ハルカ」
地面を掘るといったらこの方でしょう、と、私は毎朝、今のように地面から顔を覗かせるモグラに向けて挨拶をする。穴から顔を出したまま、時間を見計らって私を待っていてくれたモグラは挨拶を返してくれる。すこしだけそれがくすぐったくて、すこしだけそれを幸せだと感じてしまう。
「どう? 今日の調子は」
「ああ、この分ならもうしばらくあれば辿り着ける筈さ」
いつものように尋ねれば、いつものように答えが返ってくる。
毎朝、毎日、毎週、毎月、毎年繰り返すそれに、「そう、がんばってね」とおざなりにならない程度に熱の籠もった平坦な口調で励を飛ばせば、これまたいつもどおりに「ありがとう、お嬢さん」とこちらも用意された定型文。
それを、嘘、と指摘するのは野暮である。
嘘しかないこの町において、それは嘘でもなんでもないのだから。
モグラに手を振って歩きだす。地面から顔を出していた彼は、調子の外れた鼻歌混じりに穴の中へと舞い戻る。
地面の中は闇の世界だけれど、地面の上も大して変わらない。まだ彼が夢と希望を持っていられる分、地面の中の方が余程明るいのではないかと、私はそう思う。
「こんばんは、モグラさん」
「ああ、こんばんは、ハルカ」
昼過ぎ、また私はここにいる。モグラの顔を出す穴の前に。
辺りに建築物の無い、町外れのむき出しの大地。穴はいくつも空いているけれど、彼が顔を出すのは決まってこの外壁に近い位置にあるここである。理由は簡単、周囲に視線を向ければ、すぐ近くに、外壁作業員が撤去し忘れてそのまま忘れ去られてしまったベンチが一つ置かれているから。塗装が剥がれてむき出しの鉄は赤錆色をしているけれど、座る分には特に支障は無いそこに腰を掛け、私はモグラが地面から出てくるのを待った。
よいしょと掛け声を掛けて身体を引き抜き、土を払ってから私の隣に腰を落ち着ける。
「お疲れ様です」
そう言って水筒を渡すと、彼は一気に中身をあおった。それもいつも通りのことなので、私は彼から空の水筒を受け取るともう一本おかわりとして差し出した。
「ありがとう。今日は麦茶かい」
「ええ、夏ですからね」
「ああ、そういえばそうだったっけか。七月?」
「いいえ、もう八月です」
「おっと、それは失礼。言われて見れば随分暖かいような気もするね」
「御冗談を」
「いいや、土の下よりは余程暖かいさ」
乾いた声で笑い合う。
気温など、変わる筈がないのだ。
空に陽が昇らず月の満ちることのないのと等しく、気温の変化が無いのも最早この世界では常識であるのだから。
「今日も暗いですね」
「ああ。役所の奴ら、外壁周りの街灯は住宅区のみ設置などと勝手に新しいルールを決めてしまったからね。不本意ながら我慢するしかないだろう」
「何だか悔しいですね」
「そういう街で、そういう時代さ。誰も文句は言えないさ」
弁当を手渡しながら、私は真っ直ぐ前を見る。剥き出しの地面がしばらく続くその先には、煌々と明かりに照らされた住宅区を望むことができる。反面こちら、外壁に沿って広がる大地には何の灯りも存在しない。闇を照らすのは住宅区から漏れる光のみで、それすら外壁寄りのここには遠く届かない。
薄暗いよりももっと暗いここには、私とモグラの持つ小さくて頼りないペンライト以外のどんな光も、存在していなかった。
自分の弁当箱を開き、もぐもぐと玉子焼きを頬張りながら、私は尋ねる。
「調子はどう?」
渡した弁当箱を開き、もぐもぐとソーセージを頬張りながら、モグラは答える。
「上々さ。あと少しって所だね」
これも定型。そう、頑張ってと返す私の言葉も定型。
ここでは何も変わらないのだから、全てが全て定型でも別段おかしなことはない。けれど。
「そう、明日には全て掘り終わるはず」
そう言ったモグラの言葉と真剣な目は、定型ではなかった。
「は?」
思わず吐息を漏らす。もう少し、もう見える、といつも通りの漠然とした答えを当然のように待っていたのに、それは明らかに今までにないような具体的な未来の予想で。
「ごめんなさい、今なんて?」
「あと少しって」
「その後」
「明日には全て掘り終わるはず」
頭が混乱していた。
街が夜に飲まれてから、外壁が生まれてから、全てを諦めきっていた私はそれが彼の目的でそれを知って見守って応援していたにも関わらず。
私はただただ混乱していた。
だから、その日はその後何を話して、どうやって帰宅したのか覚えていない。
それほどまでに、私はただひたすら混乱していたのだ。
次の日の朝。
手早く簡単に荷物をまとめて、私は住居のアパルトメントを後にした。
もともと私物は少なかったのだけれど、いざまとめてみれば思っていたよりも遥かに少なかった。替えの服を数着と財布とそれからお弁当だけ持って、五年間暮らしてきたそこを振り返りもせず身軽なまま、私は雑多な通りを悠々と歩いた。
公園通りを抜け、繁華街を抜け、住宅区を抜け。
いつもの場所にはいつものモグラ。
「こんばんは、モグラさん」
「こんばんは、ハルカ」
いつもの挨拶。いつもの空。いつもの町。いつもの闇。
それでも今日この日だけは、なぜかいつもと違う風に感じてしまう。
「調子はどう?」
「ああ、繋がったよ」
「そう、おめでとう」
「ああ、ありがとう」
定型。定型。それ以外の何を言うでもなく、私はモグラの待つ穴へと向かった。人が並んで三人は入れそうな幅。改めて見ても、穴は十分に大きかった。これならば、私とモグラが横に並んで進んでもさして問題はないだろう。
どちらともなく、私達はごく自然に手を重ねた。
彼の変異は五年前に起きたという。その時から変わらないモグラの手は土ばんでいてざらざらな上、長い爪の先端が時折肌を引掻くこともあってお世辞にも良い感触とは言えないけれど、私のものよりずっと大きなそれは確かに温かく、柔らかだった。
「お仕事、今までお疲れ様でした。随分早く繋がりましたね」
外の世界に。私達のいた場所に。
「キミが毎日来てくれたからさ。一人だったら絶対に諦めていたよ」
くしゃっと歪んだモグラの顔の示す表情は認識できなかったけれど、それがどのような感情かは理解できる。
だから、私も。
にっこりと笑うの。
「ありがとう、モグラさん」
「ありがとう、ハルカ」
手と手を取り合って。
穴を通って。
私達はそうして、数年振りに外へ出た。
数年後。
街はいつもより少しだけざわついていた。
活気と騒音と怒声の止まぬいつもの通り。雑多な商店の立ち並ぶ大通り。
そこに、例えば、以下に類する光景がよく見られたという。
それは、例えば、少女と女性の会話であったという。
それは、少女が顔馴染みのふくよかな中年女性から小さなパンを購入していた時の話であった。
「聞いたかいお嬢ちゃん」
「え? えっと、すみません。いつどこで何をですか?」
「さっき。そこで。全区画ラジオ。つい今しがた発表されたんだけどね、この町を出ると、出た瞬間に誰かに撃たれちまうんだって。こう、パンって」
「はぁ。出られた人、いたんですか?」
「居たみたいよ。役所の仕事の一環であの高ぁぁい壁を必死で上って乗り越えた人がね、てっぺんに着いた途端に撃たれて落ちてきたらしいのよ」
「ひゃ、おっかない」
「でしょ。誰が撃ったかとか詳しいことは調査しないと分からないって言ってるけど、どっちにしろ一回壁を超えないと調査なんてできないじゃないかい」
「それ、結構詰んでるじゃないですか」
「いっそのこと地面に穴掘って壁越えした方がいいのかねぇ」
「壁、地面の相当深くまで掘ってもまだあるって話ですけど」
「どうしたもんかねぇ」
「どうしたもんですかねぇ」
言って、少女と女性は顔を見合わせて苦笑する。
どちらにせよ少女にも女性にも、壁を越えて何かをしたいという欲求は欠片もない。
少女はウサギの顔をしていた。身体は辛うじて人を保っていたけれど、そのどちらとも付かないアンバランスな姿は見る者に深い違和感と嫌悪を植え付けた。
女性の下半身は鳥であった。歩く度にぴょこぴょこと上下に揺れ、素早く走ることは決して叶わない。翼の無い、上半身が人の姿の鳥は鳥ではない。そして当然人でもない。
道行く人は皆、二人を脇目に見ることすらない。早足に通りを行くもの。喋りながら通りを行くもの。気だるげに通りを行くもの。皆一様に異形であるのだから。
ここを出ても。
結局少女と女性に行くあては無いのだ。
「もしかしたら、撃ったのも親切からなのかもしれないですよ」
撃たれて、親切。
そこに違和感を持つ人は、この町にはきっとあまり、いない。
女性はううーんと少しだけ唸って、頬を掻きながら少女に言った。
「親切ねぇ。だったら言葉で最初に言ってくれる方が私は嬉しいね」
「それもそうですね……」
「やっぱり外には出れないのかね」
「穴掘ったり壁乗り越えたりしてみたらどうです? 撃たれてもいいのなら」
「そうだねぇ、嫌に決まってるねぇ」
「そりゃそうですってば。……まあ、私はそれでもいいんですけどね」
「撃たれても?」
「じゃなくて」
「出れなくてもってことかい?」
「ええ、そう」
「奇遇だね、私もだよ」
「ふふっ、それは奇遇ですね」
「ははっ、奇遇さ奇遇」
笑い合って、パンを受け取り代金を渡し、少女と女性は再び日常へと還っていった。
町は相変わらず暗く、人の心には諦めと倦怠感が根付いているけれど。
それでも、この町の人は皆生きていた。
真昼の空。夏の空。
外の空は、普通の明るい青色で。
涙に曇る視界が馬鹿馬鹿しくなるくらい晴れ渡って澄み切って。
モグラと彼女は、ただ、早すぎただけだった。