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神谷サンちの猫―Kamiyasanchi・no・Neco―  作者: 風魔 和之
第Ⅲ匹 猫に小判
39/50

#14

……まぐろ?


チュンさんはそのあと、何も答えなかった。仄は息継ぎする間もなく―海に生息してるらしいんですが―と・前置きして

〈伝説の魚、マグロはめっちゃ美味しいんです!詳しくは知らないんですけど。チュンさん、知らないですか?人間が作る料理でめっちゃ旨いんですよね~‥たまに人間がくれるんですけど‥舌触りとか滑らかで、噛めば深みが広がって―〉


夜の湿気みち(あふ)れる暗がり、恍惚な表情浮かべる仄は思わずよだれがでそうになる。無意識な口を露わにして、〈Gokuri〉‥呑み込んだ。気取った言葉を並べ立てる話からは、絢爛な食事風景がかきたてられる。


“…深み、コク。”


あっけにとられていたチュンさん。そのまま、ふらり雑誌の敷物から立ち、神妙な面持ちで歩を進めボクを横切る。刺のある強く固い表情から柔らかな優しさが(こぼ)れ落ちるのを見てしまう


…お前がそこまでいうなら…


やみそうにない流れ、暗黒の水溜まり。斑点みたい。仄は「えっ」と聞き返す。無反応。。―なんか、お前変わったな


まあしゃーないわな。その写真の女、探したるわ。


(妙な冷静さが宿る仄は言われるがままに振り返り、雑誌のある片隅まで写真を運んでいった)


ただし報酬は忘れんなよ。これは仕事だから。


ふと雑誌が目についた。開いた状態のまま、破れかぶれ。目的なく這いつくばり、「ござ」がわりになっている。視界に飛び込んだページの端っこ。見つめる。考え込む。どこかでみた気がする女性の()()みとした面持ち。なぜか一方に視線を送りつづけている。目も会わさず、頑なに見つめてる光景を本物じゃないと気づかせてくれたのはチュンさんの一声。意識が戻り、いつのまにか横にいる先輩、しわくちゃのページを見下ろし、時は膠着していく。なんでだろう。思い出せない。


雨宿りの虫たちも、たかっている。軽くいなすと散り散りになる。ちょうど不自然な形で隣り合わせになる落ちた写真―見比べる…いつか目にした記憶の背中をいくら追っても距離は縮まらないんだ。美しい肌を披露するその人は今、ボクの足元で晒し出されて瞳、まるで氷のよう。目下の雑誌にはおどろおどろしい文体、踊り狂う(イビツ)な標題


『芹沢かよ―悲劇の女優に怪しい噂―』


なにかを紹介する文言であることにうっすら気づく


‥チュンさん、これ読める‥?

「えっ」隣の先輩は人間の文字とにらめっこを始めた、時はたち、多少どもりながらも解読していく。流れついた数だけ言葉は意味を持ち始める。


(暴露本というものが人間界で発表された。ある女優の過去をさらけだした問題作であると雑誌は論じている)


じっくり咀嚼して朗読したけど、チュンさんは満腹したように「なんだ…この人、死んでんじゃん」


…え?


あ。そうなんや‥仄はふと頭をかしげた。


雨が打つ音楽、いよいよ、やかましく聴こえてくる。まるで分離する観客席に、たった二匹だけ居るみたい。ひんやり暗いと身体が叫んだ。


「人間界には悪いやつもいるんだな。」目をほそめチュンさんは右の前足を舐めはじめた。放たれた言葉、目の前で潰えて、曖昧な返事しか出来ない。先輩の毛繕いがおわってもなお、その意味さえわからず、囲まれる沈黙。虚しさによって渇いた感情が、濡れゆく外をなぜか欲した。右側の隧道(トンネル)に向かって足を運び、ひたひた歩く。境界線のびしょ濡れの出口まで。


そよぐ肌。


ロン―


“……!”


振りかえると分岐点にたたずんだ茶色い猫。垂れ墜ちた尻尾の(こうべ)を前足付近まで寄せ、瞬きせず静かな口元


「…戻ってこないか?」


ロン…俺、すべてを失ってよくわかった。


もう一度戻らないか



「昔に」波打つボクの髭。


その憂鬱な揺らめき、揃えた前足


…パチケンもああ言ってるけど、ホントは昔みたいにつるんでいきたいと思ってるで、あんな風に強く当たったんやと思うわ、多分


先輩の少し汚れた身体、虎模様をじっと見て、なにもかも伝えることはもうやめた。真っ白だった。頭の中で描いてきたことが次次、うち消されてゆく。。


…ごめん。変なこといって。あとはお前しだいや。ただ


パチケンやウーピンの事、忘れないで欲しい


「親を知らない俺たちが…本気でぶつかれるのは、親がわりになってくれたウーピンやパチケンだけ。本気にさせたのも、なれるのも…あの猫だけ。」

暗闇の中で、描写する記憶。思い起こす雨。

〈…わかった。うん。〉ボクはそのまま直進した


「頑張ってな―」


囃し立てる方向に向かって駆け抜ける。闇の抜け穴から、さめきった身体に容赦ない刺激が待ち受ける。背を向けたら降りかかった。呼び止める鳴き声。幾千の尋常じゃない空から落下を受けつづけ、かきけされるコンクリート遊具が振りかえる先飛び込んでくる。


―なんかあったらいつでも戻ってこいっッ!

「俺はしばらくここで待ってるから」


道すがら

茶色い猫の次に発した響―走り出す仄、抜け穴から見送るチュンさんの姿は死角があっさり奪い去る、自分はただ、張り裂けるような激動の中を駆け抜ける

記憶と引き換えに全力疾走していたら、頭のなかはいつしか言葉を絶やしていた


朝に向かって落ち着きを取り戻す未明の町。傷だらけのアスファルト、咲く無名の花の蕾から水玉が浮かぶ。静寂に包まれた空気、涼しい顔で脱水する地べた、仄の歩き方は、少し退屈そうだった。また再始動すれば


風を切る夜ー


自宅の扉を見つけ出し、瞬時に隣の家との間、左折する―。


ゴール目指して小道走る目の前に現れたのは、曇りガラスの壁、その大いなる遮蔽板の下、わずかな隙間、潜り込んでゆく。なんとか這いつくばって観葉植物の森に囲まれたら右側のガラス戸が口を微かに開けて、待っている。瞳孔を開き、暗闇一つ一つ目で追っていくとガラス越しにリビングの景色がぼんやり映り込んできた。出発地点に戻ってこれた―そう確信した仄はそろり隙間をこじ開け、なに食わぬ顔のまま、そそくさ這い上がってゆく、二階へと。


《―》


警告音を発した。過敏にも、耳は吊られるような反射神経で身体の動きを止める。階段の途中、尻尾まるめて折り返した―少し距離をおいて、物陰にひそむ。微弱な振動はいよいよ迫り、高鳴る。体内の流れが速さを追い求め、鼓動は膨れ上がる。段を下る震動の正体。


老婆がランニング姿で出没した。か細い足首が淀みなく進行方向の扉めざせば、階段入り口の向かい側、それはトイレだった。閉めきったタイミングを見計らって一段目忍ばせた足、ゆっくりゆっくりと中腹まで辿り着けば、うってかわって一気に駆けのぼる

二階の冷めきった廊下を疾走し差し掛かった右手の半開き。扉の前でためらうことなく、わずかな隙間に頭を突っ込み、開かれた居住地、住み処へ還ってきた。牢屋の鉄線の間をそのまま猛烈に掻い潜る―


“…ハア…は…”


滅茶苦茶になった身体。うずくめたあとの顔の強張り。息つく暇もない。さっきまでボクがいた場所を縦に走る銀の輝き。計画が無事、遂行されたことを知る。見つめていたら、等間隔で固く、痛く、冷たい鉄線は牢屋の中が君の居場所だよ、“おかえり”とでも言っているかのよう。足元でそっと横たわる優しい感触に力が抜け、腰を落とす。静寂、過ぎ去った嵐のあと、口をつむぎ、胸の高鳴りとしばらく相対する。動揺してる。お腹が妙に空いている謎は謎のまま、部屋はより暗く見える。お腹…減った。


自分より自分のことを知っていた先輩チュンさんの面影


こんなにも悲しくて虚しいなんて。心にぽっかり孔が空いたみたいだ。夜のコンクリート遊具の中から見つめた、雨に打たれ、ざわめく暗闇が思い浮かぶ。改めて自分は野良時代の猫たちに依存した生活を送っていたんだと、実感した。


大切な何か、もの…

それを失ったとき、もっと悲しいんだ、きっと

ボクにとって、それは一体、何だろう

視界はしぼみ・どっと瞼が垂れ落ち、眠りに誘う波紋


現実が溺れていた



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