終章 冥府の王と舞い降りる炎
ジャッ!!「わっ!!」
その瞬間、僕を取り巻く景色が一変した。人工眼球の数センチ前に突き出された長い爪。付着したぬらぬらと光る赤。その先に僕の恐怖が、人の形で実体化していた。
「ま……こと、さん……?」
目に宿っていた穏やかな闇色は朱に染まり、左背からどす黒い骨の翼が生えていた。狂気に冒され、顔の半分を髑髏にしながらも、死を象る彼は酷く優しく微笑む。
―――かわいそう。
どこか幼い響きは、間違い無く僕が正気を取り戻した事に対する発言だった。――そのまま向こうの世界にいれば、苦痛を感じないまま死ねたのに。
「クレオ殿………」
後ろから僕の肩を掴んだ大きな手は、簡単に振り払えそうな程握力を失っていた。
「気が付いたなら……逃げろ……!“黒の絶望”は私が食い止める………お前は出来るだけ遠くへ行くんだ、いいな……!!」
僕を押し退けたシルクさん(勿論ちゃんと全身のある)の身体はもうボロボロで、ハルバードに掴まって辛うじて立っている状態だ。なのに、金色の瞳の中ではまだ尽きせぬ闘志がメラメラと燃えていた。鋭い爪の傷で服が半分以上破け、全身血だらけにも関わらずだ。格好良い、不謹慎にもエンジンが高鳴る。
流血で前髪を額に貼り付けたまま、愛しい女性は怪物と化した誠さんを睨み、武器を構える。
「彼には手を出すな、”黒の絶望”!貴殿の相手は私だ!」
僕が前後不覚になっている間に、現実では相当時間が流れたようだ。月は沈み、黎明の闇が海上の果てまで続いていた。しかし夜明けは――まだ遥か先だ。
「シルクさん、まさかずっと……」守ってくれていたのか、荷物にしかならない僕を。そのせいでこんな重傷を負って。
「そんな事はどうでもいい!!私が戦える内に船着場へ走れ!無線で応援を」
―――なにしてもむだなのに。
誠さんが右腕を上げると、闇と化した道路からずるずるずる……複数の人型の影が這い出てきた。立ち上がったそいつらにははっきり立体感があり、僕より数センチ高いぐらいの身長だ。
「またか……!クレオ殿気を付けろ!この影は触れた者の生きる気力を吸い取る。この街の住民達の仮死状態もこいつ等が原因だ」
ブンッ!ハルバードの刃が真っ暗な身体を薙ぎ、真っ二つにして消し去る。僕もレイピアを抜き、傷付いた広い背中を守りたい一心で一体に剣撃を見舞った。
―――……うぅぅ。
「っ!?」
切り裂いた影に手が掠り、一瞬猛烈な脱力感が全身を襲う。幸いすぐに治まったが、彼女の言う通り連続で受ければとても立っていられない。
「大丈夫か!?」
「問題ありません。僕にはシルクさんから貰った勇気があります」
「?何の事だ?」
返事の代わりに左手を誠さんに向け、氷の弾丸での射撃体勢を取る。
(今の僕達では、誠さんを元に戻す方法は分からない。ここは一旦退却するんだ。とにかく一刻も早くシルクさんを治療しないと……!)
今の彼女は気力で辛うじて立っているだけだ。この出血量、本来ならとっくに気絶していてもおかしくない。(僕なんかを庇ったせいで!!)情けなさにエンジンが沸騰してしまいそうだ。
―――いっしょがいい?
彼は無邪気に笑い、腕を天空へ向け上げた。
「っ……!!」
影達の姿が変化し始める。手足が無くなり、頭部が先鋭化してナイフ状に。そして切っ先が一斉に僕達へ向いた。
シルクさんが動く前に、僕は両腕を広げて彼女と影達の前に立ち塞がった。機械のこの身体なら、一度は全ての刃を受け止められるはずだ。
―――むだだよ。くすくすくす……。
「絶体絶命、か……」
シルクさんは嘆息し、済まないリサ、今度と言う今度は戻れそうにない、と謝罪した。
「クレオ殿、一か八かだ」耳元に唇を寄せ、「同時攻撃するぞ。狙うは心臓、“黒の絶望”だけでいい。どちらかの刃が通れば、或いは活路を見出せるかもしれぬ」
予想通りそこが弱点か。確かに、人間でも心臓は立派な急所だ。予めエルさんに教えられていたにしては詳し過ぎる気もするけど(”燐光”ではなく”絶望”と言っているのがその証拠だ)、そんな事はどうでも良かった。今は少しでもこの状況を好転させないと。
「はい、分かりました」
まず氷弾をオーバーヒート寸前まで連続発射し、動きを封じるんだ。その後全力で斬りかかる。仮令僕が修復不可能なまでに壊れても構わない。生かすんだ、この人を!
僕達が一歩踏み出した時、ゴウッ!上空で風の鳴く音がした。同時に辺りが見る見る明るくなる。でも、まだ夜が明けるには早い。
「っ!?何だ!!」
僕等は慌てて上を見、同時にそのオレンジがかった赤い光に目を奪われた。
光の正体は真っ赤に燃え上がる炎の鳥だ。体長約五メートル。優雅に翼を動かし、旋回しながら真っ直ぐこちらへ舞い降りてくる。
「私と似た力を感じる……何者だ?」胸の内でグリューネ様が訝しむ。
「見て下さい!影が」
炎の強烈な光に晒され、闇が苦しげにずるずる……と人家の影へと逃げていく。
―――やっときてくれた。
誠さんはどこか恍惚とした表情で空を見上げた。
―――でも、もうおそい。
「クレオ!!」
急に自分の名を呼ばれて凄く驚く。途端鳥が急降下し、僕とシルクさんは同じ腕に掴まれてあっと言う間に地面から引き剥がされた。
「うわぁっ!!」「くっ!!」
急速に離れていく街と誠さん。しかし不思議な事に、紅蓮の羽毛は全く熱くなかった。むしろ人肌の温かさとふかふかさを持ち、何時までも触っていたくなる。
「大丈夫か二人共?」
窮地から救ってくれた命の恩人の顔を見て、絶句した。見覚えがあるどころか、彼は僕の誕生日に特製のバースデーケーキをプレゼントしてくれる程、とても大切な友人だった。
「ウィルネスト、さん……」
僕が名前を呼んだ瞬間、彼の薄い茶色の瞳が揺れた。