序章 昏い月光の下で
カツカツカツ……。
「兄様、大丈夫かな……?」
殺人現場で倒れて一週間。大好きな兄は未だ意識不明のままだ。
『オリオール、これお兄ちゃんに持って行ってあげて』
同族の遊び友達に渡された、鮮やかなハニーレモンの薔薇の花束。両手に抱えたそれからは、聖樹の森に似た良い香りがする。
(前はよく兄様達と散歩したな……三人一緒の頃は、あんなに毎日幸せだったのに……)
一族の他の人々と違い、自分は彼をどうしても憎めなかった。それは最愛の兄への裏切り行為に他ならなかったし、純粋に彼の人柄が好きなせいだ。彼はいつも身を挺して自分達兄弟や仲間を守り、常時貧血の兄にしょっちゅう輸血してくれた。自分の体調など二の次で。
「帰って来てよ、お兄さん……」
思わず本音を漏らしてしまう。限界だ――自分達ではもう兄を支え切れない。戻って来てさえくれたら、きっと全てが元通りになるだろう。勿論、既に鬼籍に入った友人達までは無理だが。
「……駄目だ。僕が泣いてちゃ」ゴシゴシ。袖で涙を拭く。「これから兄様の所に行くのに、余計な心配掛けちゃう」
今の、誰にも聞かれなかったかな?万が一同族に見つかったらお説教を食らってしまう。幸い、傍に人の気配は無かった。
時刻は深夜十二時。同居の機械人とルザは既に就寝しているらしく、屋敷内の明かりは灯っていなかった。不死族の能力である夜目を使い、階段を昇って二階の廊下を歩く。
コンコン。
「ジュリト様、オリオールです。入ってもいいですか?」
付きっきりで看病する神父に呼び掛けるが、返事は無い。今度は少し強い力でドアを叩いた。
「ジュリト様、眠っているんですか?」
無言。更にバンバン叩くが、矢張り反応は無かった。
(熟睡してるのかな……?まぁ、無理もないか)
この一週間、殆ど彼は部屋から出てきていない。自ら望んでの事とは言え、そろそろ肉体的にも精神的にも疲労のピークだろう。
(頑固だよね全く。僕やルザだって看病したいのに。しょうがないなあ)
「入ります」ガチャッ、キィ……。ドアノブを回し、扉を開ける。
「ジュリト様?」
予想通り、神父はベッドの端に頭を置いてうたた寝していた。安堵した途端、信じられない光景に少年の目が見開く。
「兄様!!」
最愛の兄は窓辺に立ち、満ちる寸前の月を眺めながら子守唄を口ずさんでいた。
―――お眠りよ可愛い坊や……お眠りよ安らかに……。
母親のような甘く優しい声に、一瞬耐え難い程うっとりしてしまう。が、すぐに違和感を覚えて目覚める。
「兄様……?」
傍に子供などいないのに一体、兄は誰のために歌っている?
「う………っ!?」
突然、胸の奥が激しく苦しくなった。――痛みだ。二百年前、幼き生命と共に失ったはずの感覚。
バサッ。花束が落ち、黄色の花弁が鮮やかに木目の床を彩る。
―――お眠りよ永久に……。
振り返った兄は血色の目で無邪気に微笑んでいた。本来とは真逆の、心の芯まで凍てつかせる笑顔。
「駄目!兄様………!!」
死を纏った冷たい手が、苦痛に顔を歪める少年の顎を掴む。
―――お眠り、オリオール。
頬に口付けられた瞬間、彼の意識は底無しの闇へ飲まれた。