祝われた婚約書に署名はなく、時計係と同じ家へ帰ります
「まあ、見事に私を置き去りにした祝賀ですこと!」
春分間近の朝、玄関広間は淡黄、白、薄紫で埋まっていた。
窓辺には金色の房を垂らす花。階段には白い花弁を幾重にも巻いた鉢。薄紫の小花は銀糸の籠からこぼれ、朝日を浴びるたび、砂糖菓子のようにきらめく。
その中央に、婚礼衣装まで立っていた。
淡い黄の絹へ真珠を縫い、袖口には白銀の糸で日影棒の模様。私の濃紺の髪へ挿せという銀の花針も十二本。どれもたいへん美しい。美しいものに罪はない。
罪がありそうなのは、花束に結ばれた札である。
——宮廷主任時計師マルグス殿と、アシュリン様のご婚約を祝して。
花まで届いているのに、肝心の花嫁が署名欄へ到着していない。ずいぶん先走る水時計だ。
「おめでとうございます」
プリートが婚約書の写しを差し出した。
屋敷付きの水時計係である彼の指は、いつもなら四拍ずつ滴を区切っている。今朝は私の名の下へ置いた右手だけが、紙を作業台へ縫いつけていた。
「ありがとう。ところで、わたくしはいつ署名したのかしら」
「写しでは、六日前の正午前となっています」
「わたくしの記憶では、その時刻には水時計の補水を見ていたわ」
「はい」
「では、この署名は?」
「写しにあるだけです」
立派な答えである。滴口ほど狭く、石鉢ほど動かない。
私は紙の端をつまんだ。プリートの右手は放さない。もう少し引く。まだ放さない。
「押さえ方が強いわね」
「風がありますので」
屋内で?
窓布は垂直だったが、風にも職務上の都合があるのだろう。私は追及せず、受け渡し帳を開いた。
「この写しを受け取った時刻は?」
「朝番の水位補充から四拍後です」
彼はようやく紙を放し、木札を一枚置いた。朝番、夕番、交替者、石鉢の水位。十二枚で六日分。屋敷の時刻を支える、地味で正直な木切れたちだ。
最初の札には、婚約原本が公証所へ届いた日の朝の水位線が細く刻まれていた。
その下にあるはずの日影棒の観測欄は、空白だった。
「正午前に婚約が成立した写しなのに、正午を確かめた者がいないのね」
「細かな時刻など同じです」
花籠の陰からメイヴが現れた。記録係の銀鎖を胸へ掛け、婚礼衣装の裾を勝手に整えている。
「双方の家は承諾済みです。皆様がお待ちですから、衣装合わせを先にいたしましょう。祝賀の使者も昼には参ります」
「日影棒の欄が空いているわ」
「雲が出ていたのでしょう」
「六日前は晴天よ」
「記録係でない方には、時刻の幅がお分かりになりにくいのです」
彼女はプリートへ目をやった。そばにいた婚礼係も口元を袖で隠し、視線だけを返す。
なるほど。私の屋敷では、本人より先に婚礼衣装が返事をするらしい。
「プリート。訂正を」
「訂正は私の任務ではありません」
彼は一歩退いた。
私は原本保管庫の鍵を取った。銀の鍵環が鳴る。
その音には顔を上げなかったくせに、プリートの視線だけが、私の指から鍵穴まできっちりついてきた。
断定には一滴足りない。
ならば、足りるまで量ればいい。
* * *
夕刻、十二枚の木札のうち一枚が裏返っていた。
見つけたのはプリートだった。
彼は補水を終えると、木札の上端、下端を親指で確かめた。四拍。次の札へ移る。四拍。三枚目で指が止まり、摩耗した角をなぞって裏返す。
朝番と夕番が入れ替わった日付札が現れた。
「これでは六日前の受け渡し順が逆になるわ」
「はい」
「写しの受領時刻も?」
「ずれます」
「どちらへ?」
彼は答えず、懐から折った紙を出した。
「私は辞めます。都行きを歓迎いたします」
離職届だった。
話題が水位線から崖下へ落ちた。人間関係というものは、どうして滴口の調整ねじを無視するのか。
「まだ婚約していないわ」
「皆様は、そう扱っています」
庭先で婚礼係が私の名を呼んだ。
プリートの耳の縁だけが赤くなった。呼吸が一拍欠ける。右手は離職届を差し出しながら、左手では裏返った札を正しい向きへ戻している。
「受領しません」
「離職の手続きは——」
「時刻が合いませんもの。日付も、婚約も、あなたの退職日も。三つ同時に狂う時計は、まず蓋を開けます」
私は離職届を受け渡し帳へ挟み、閉じた。これで紙は動かない。プリートは動くかもしれないが、その場合はアンハラッドへ命じて玄関を封鎖しよう。合理的な戸締まりである。
「グウェンリアン様へ使いを。晴れた正午の公開検分をお願いします。婚約原本、水時計の受け渡し帳、十二枚の木札を、同じ卓で開きたいと」
「そこまでなさるのですか」
メイヴの声が高くなった。私へ向けた時だけよく響く。
「皆様がもう祝っています。今さら否定なされば、マルグス殿のお名にも傷がつきます」
「だからご本人にも来ていただくのよ」
銀鎖が、彼女の胸元で一度跳ねた。
* * *
翌日は雨だった。
その翌日も雲が厚かった。
三日目、夜明けの空から灰色が消えた。
正午まで、あと四時間。
中庭の石床を洗い、中央へ長卓を出す。東端に日影棒。南側に水時計。北側に親族と使用人。西側に工房の職人たち。卓上には十二枚の木札を置いた。婚約原本の箱と受け渡し帳は、グウェンリアン様の到着を待つ。
花も置いた。
淡黄の水仙、白い星形の花、薄紫の鈴花。祝賀用として届いたものだ。成立していない婚約に使う気はないが、検分の卓を飾るぶんには働いてもらう。花は届け先を選べない。人間の記録係より気の毒である。
「時刻」
グウェンリアン様が中庭へ入った。
白髪を黒い布で包み、片手に公証箱、もう片方に水時計の引き継ぎ帳を持っている。
「本人」
私を見た。
「アシュリン。おります」
「マルグス」
「いる」
名高い主任時計師は、飾りのない灰色の上着で一礼した。
「プリート」
「おります」
「メイヴ」
「おりますわ。ですが、こんな大がかりな検分は必要ございません。写しはすでに各家へ——」
「時刻。本人。原本」
グウェンリアン様は一語ずつ置いた。メイヴの言葉が、三つの石で堰き止められる。
正午まで、あと十六分。
職人十二名が水時計を囲み、使用人たちが日影棒の先を見守る。親族は原本箱を挟んで座った。アンハラッドだけは椅子へ座らず、私の背後で腕を組んでいる。誰かが逃げた場合、襟首をつかむためだろう。家政役には家政役の公証法がある。
「検分を始めます」
グウェンリアン様が眼鏡を掛けた。
私は一枚目の木札をプリートへ渡す。
「婚約原本が公証所へ届いた日の朝番。補水後の水位は?」
「石鉢の第三線です」
「滴口は?」
「春分前の調整幅。四拍で三滴」
「実演を」
プリートは調整ねじへ指を置いた。
一、二、三、四。
三滴。
一、二、三、四。
また三滴。
工房の職人が身を寄せた。三巡目、中央の鉢へ落ちた水は、刻線のすぐ下で止まった。
「一滴、足りない」
年長の職人が言った。
「はい。朝番の記録どおりなら、ここで第三線へ届きます。ですが、写しに記された調整幅では一滴届かない」
メイヴが鼻で息をついた。
「古い滴口ですもの。三日も経てば変わります」
「変わる」
マルグス殿が短く認めた。
メイヴの口角が上がる。
「だから、六日分の札を十二枚使います」
マルグス殿が続けた。
口角が元へ戻った。上がる時は一拍、下りる時は半拍。たいへん性能のよい表示板だ。
プリートは一枚目と二枚目を並べた。木札の端には、受け渡しのたびに刻む小さな斜線がある。前の札の下端と、次の札の上端を合わせれば一本になる。
一枚目。合う。
二枚目。合う。
三枚目。合わない。
「削れています」
メイヴが言った。
「では、裏返します」
プリートが三枚目を返す。
斜線がつながった。
職人たちの間で、低い声が重なった。
「日付が逆だ」
「朝札じゃない。夕札だ」
「水染みも下端にあるぞ」
木札の下側には、夕刻の補水で触れた指の跡が薄く残っていた。染みは板目へ沿って広がり、裏面で途切れている。朝番として使ったなら位置が上下逆になる。
「誰が裏返したのです」
私は尋ねた。
「プリートでしょう」
メイヴは即答した。
「水時計係なら、札へ触れられます。自分の記録を正しく見せるために、今ここで戻したのかもしれません」
「プリート。札を受け取った時刻は」
グウェンリアン様が問う。
「六日前、夕刻の補水前です。すでに裏返っていました。異議を一通、記録係へ提出しました」
「受け取っておりません」
先ほどまで私へ向けていたメイヴの声が、プリートへ向くと二倍になった。
「無爵位の係が公の記録を疑うなど、分を越えています。異議などと呼べる書面ではありません。あなたが札を入れ替えたのでしょう。責任を取りなさい!」
ほう。私が時刻を尋ねた時は「細かい」。プリートが時刻を記したら「改竄」。水位に合わせて罪名まで上下する便利な鉢である。
「異議はあります」
プリートは懐から三季分の私記録を取り出し、グウェンリアン様へ渡した。彼女は公証箱の受領控えと重ねた。
メイヴの声が止まった。
「六日前だけではありません。三季分。水位誤差、交替札の欠落、受領時刻の先書き。すべて私の公証所へ控えが送られています」
「存じません。公証所の受付が——」
「受領印はあなたの記録印です」
「プリートが盗んだのです。あの者なら屋敷へも公証所へも出入りできます」
「わたくしの屋敷へ出入りできることが、いつから窃盗の証拠になったのかしら」
「アシュリン様は騙されておいでです!」
私にはまた声が半分になった。見事な調整。宮廷へ納めたら鐘より正確に身分を告げるだろう。
正午まで、あと四分。
日影棒の先が石床の刻線へ近づく。プリートは水時計の流量を絞り、四拍ずつ数えた。
一、二、三、四。
右手が滴を切る。
一、二、三、四。
木札を二枚進める。
一、二、三、四。
裏返った札を正しい順へ戻す。
十二枚が、卓上で一本の時間になった。
「正午」
グウェンリアン様が言った。
日影棒の影が正午線へ重なった。
同時に、最後の一滴が石鉢の中央線へ落ちた。
職人たちが一斉に水位を確認する。
「一致」
一人目。
「一致」
二人目。
「一致です」
三人目から声が重なり、十二人目まで続いた。
グウェンリアン様は、六日前の札を二枚抜き出した。
「偽写しに記載された受領水位は、こちら」
裏返されていた札。
「婚約原本が公証所へ届いた水位は、こちら」
次の札。
日影棒で正午を定め、滴数で間を測り、斜線と水染みで札の順を戻す。偽写しの時刻が先。原本の到着が後。
メイヴが身を乗り出した。
「でしたら、写しの時刻を書き誤っただけです。原本の内容は同じで——」
「原本を」
グウェンリアン様が箱の鍵を開けた。
厚い白紙が取り出される。縁には銀粉。中央には両家の紋章を置く空所。下段には二つの署名欄。
どちらも空白だった。
私の署名はない。
マルグス殿の署名もない。
署名欄の横に、グウェンリアン様の筆で時刻と本人確認が記されていた。
——アシュリン、署名を拒否。
——マルグス、署名を拒否。
「わたくしは、これへ署名していません」
「私もだ」
マルグス殿が原本を確かめた。
「メイヴから、双方の家が承諾済みと聞いた。正式な署名は祝賀日に行うと。しかし、私の署名があるとするこの写しも偽りだ」
「マルグス殿、わたくしは家同士の意向を——」
「花を下げてくれ」
彼は婚礼係へ告げた。
「私の名で贈られたことになっている花も、衣装も、祝辞もすべてだ。婚約はない」
婚礼係たちが顔を見合わせた。祝賀の朝にメイヴと目配せをしていた一人が籠を持ち上げ、もう一人が婚礼衣装を畳む。淡黄の絹から光が消え、真珠の袖が箱へ収まった。
美しいものが、ようやく嘘の仕事から解放される。
「これは公証人の保管違いです!」
メイヴはグウェンリアン様を指した。
「そうでなければプリートの改竄です。アシュリン様が原本を差し替えさせた可能性も——」
「私記録を」
グウェンリアン様は三季分の紙束を職人へ回した。
水位のずれ。滴口の調整。木札の欠落。夜間に凍結した石鉢を温め、朝番までに復旧した手順。交替者が倒れた日に代番を組み、工房を止めなかった記録。匿名で出された異議申立ての控え。
年長の職人が最初の一枚を見て、次の者へ渡した。
「この四の字。プリートだ」
「横線を最後に引く癖も」
「冬至前の凍結を直したのは、やはりお前だったのか」
「春の新しい滴口もだ。昇格候補の名が削られていたが、調整幅が同じだ」
プリートは答えなかった。
三季、無名のまま積まれていた仕事が、十二人の手を渡って名を得ていく。
グウェンリアン様は最後まで読み、眼鏡を外した。
「異議を申し立てた者まで消す写しは、公文書ではありません」
メイヴの指が胸の銀鎖へ掛かった。
「記録印を返却してください」
「誤解です。わたくしは工房を守るために——」
「記録印を」
アンハラッドが手を出した。
命令形。強い。
メイヴは鎖を握ったまま動かない。アンハラッドは手を引かなかった。
五拍目に、銀鎖が外された。
六拍目に、記録印が卓へ置かれた。
七拍目に、公証所の書記が受領札へ印を押した。
メイヴの名が記録職の欄から線で消される。屋敷の出入り札も回収され、門番が名簿を閉じた。
「荷物は門外へ運ばせます。工房、記録室、屋敷への立ち入りを禁じます」
「アシュリン様!」
私は婚約原本を見ていた。
空白はよい。
本人を置き去りにして走った時刻が、ようやく止まったのだから。
うん。たいへんよい正午である。
グウェンリアン様が婚約原本を私へ戻した。
プリートは拒否を記すための筆を取り、こちらへ差し出す。
「どうぞ」
けれど、軸を挟む二本の指は開かなかった。
一拍。
二拍。
三拍。
譲る言葉だけが先へ行き、右手は卓上に残っている。
私は筆を奪わなかった。
その指ごと握った。
プリートの呼吸が止まり、また一拍遅れて戻る。私は彼の手を導き、婚約原本の余白へ書いた。
——本件を拒否し、祝賀の撤回を確認する。
署名は、アシュリン。
マルグス殿も隣へ署名した。
「これでよい」
彼は一礼し、下げられていく花のうち白い一輪だけを卓へ戻した。
「検分への礼だ。今度は正しい用途で使ってくれ」
「ええ。時刻を違えず飾ります」
彼の退場を親族たちが道を開けて見送った。責任のない者まで悪役に仕立てるほど、こちらの台帳は雑ではない。
私は離職届を挟んでいた受け渡し帳を開いた。
今日から、水時計工房の共同台帳になる。
一人目の管理者欄へ、自分の名を書く。
二人目の欄をプリートの手元へ回す。
「お断りします」
言葉とは裏腹に、彼の右手はまだ筆を握っていた。私の指も重ねたままだ。
「困ったわ。筆がこちらへ戻ってこないの」
「これは……」
「水時計係なら、道具は所定の位置へ戻してくださる?」
職人たちが息を詰める。アンハラッドは口元だけで笑っていた。グウェンリアン様は眼鏡を拭き始める。見ていないふりが実に下手な方々である。
プリートは筆を戻さなかった。
二人目の欄へ、プリート、と書いた。
十二枚の木札が、また職人たちの手へ渡る。
一人目が朝番札へ署名した。
二人目が夕番札へ署名した。
三人目、四人目。滴口を作る者、石鉢を磨く者、日影棒を据える者。十二名がそれぞれ、自分の受け持った時刻へ名を書いた。
最後の札が戻ると、十二枚は共同台帳の上へ並べられた。
その中央に、アシュリンとプリート、二つの名がある。
「共同管理者へ、異議なし」
年長の職人が言った。
「異議なし」
「三季も黙って直されていたんじゃ、もう肩書のほうが遅刻だ」
「今度から匿名は禁止だぞ。礼を言う相手が見つからん」
笑い声が中庭を渡った。
プリートの耳の縁が、朝より濃くなった。
* * *
「任務が済めば辞めます」
プリートは中庭の片づけが終わるなり、そう言った。
頑固である。水時計なら分解して洗浄している。
共同台帳には、私とプリートの名がある。その上には、職人十二名がそれぞれ署名した木札が並んでいる。だが、紙の上で役職を与えるだけなら、私の意思を飛び越えた婚約書と同じ轍を踏む。
私は証書を閉じた。
「皆に尋ねます。プリートが三季にわたり守ったのは、工房の時刻だけ?」
「いいえ」
職人の一人が答えた。
「夜番の食事時間まで直しました。鐘が遅れて、温かいスープを逃す者が出ていたので」
「屋敷の冬支度もです」
使用人が続けた。
「凍る前に寝室側の配管を閉じ、朝には戻していました」
「病人が出た夜は、薬を煎じる時間を四拍ずつ測ってくださいました」
「門番の交替札も。遅れた者を罰するのでなく、夜道の灯りを一本増やして」
話すたび、プリートの右手が少しずつ拳になる。
「では、彼が辞めたなら困る?」
「困ります」
「たいへん困ります」
「朝番が三人泣きます」
「泣く前に働きなさい」
アンハラッドが切った。
朝番の三人が背筋を伸ばす。
彼女は二枚の新しい作業札を持ってきた。同じ大きさ、同じ木、同じ銀の留め具。一枚に私の名。もう一枚にプリートの名。
「工房の掛け具は中央を空けてあります。共同管理者お二人の札を、ここへ」
年長の職人が二枚を並べた。
片方を上へ置かない。
片方を陰へ隠さない。
二人分の札が、同じ高さで揺れた。
「アシュリン様」
親族の一人が呼んだ。
それからプリートへ向き直る。
「プリート様。共同管理者として、工房と屋敷の時刻をお願いいたします」
「私は無爵位です」
「時刻に爵位を足すと、一日が長くなるのかね」
老いた伯母が尋ねた。
「なりません」
「なら不要だよ」
親族たちが順に頷いた。
「お二人が管理者です」
「お二人とも、この家から追い出されることはありません」
その言葉のあと、軽口を挟む者はいなかった。
プリートは掛け具の二枚を見ている。
私は彼の右手を見た。
朝は偽写しを放さなかった。
夕刻は離職届を差し出しながら、裏返された札を戻していた。
正午には、拒否の筆を放さなかった。
ならば、最後に渡すものは紙ではない。
「アンハラッド」
「もう用意しております」
彼女は屋敷の鍵箱を開けた。
工房の鍵が二本。
原本保管庫の鍵が二本。
そして、屋敷の東廊下にある寝室の鍵が二本。
私の部屋と、その向かいに整えられた部屋。どちらも内側から施錠できる。扉の蝶番は打ち直され、窓の留め金も新しい。片方の部屋には濃紺の寝台布、もう片方には深い緑。夜番明けでも光を遮れる厚い窓掛けまでついている。
「勝手に整えました」
アンハラッドが言った。
「住む者が鍵を持たない寝室は、寝室ではなく物置です。今夜から使いなさい」
命令形。たいへん強い。
使用人たちが二本の燭台へ灯をともした。廊下の左右で、同じ明るさが扉を照らす。
「雇われた係のままです」
プリートは言った。
「そうね」
私は工房の鍵を取った。
「共同管理者でもあるわ」
寝室の鍵を取る。
「それに、今から同じ家へ帰る人でもある」
彼が返そうとした右手を開かせ、その掌へ鍵を置いた。
「帰りましょう。今夜から、あなたの席もこの家にあります」
指が閉じた。
返事より先に、鍵を握った。
それで充分だった。
夕食の卓には、白い布が掛けられていた。正午の検分に残った淡黄の水仙、白い星形の花、薄紫の鈴花が、小さな水差しへ活け直されている。
皿は二枚。
杯も二つ。
温かなスープの湯気が、二人分の席の間をゆっくり昇った。
「遅い」
アンハラッドが椅子を引く。
「スープの時刻は待ちません。アシュリン様、プリート様、お座りください」
プリートは自分の席の前で止まり、右手の鍵を見た。
四拍。
今度は何も数えず、椅子を引いた。
私も向かいではなく、その隣へ座る。
工房では二枚の作業札が同じ掛け具で揺れ、玄関には二人分の外套掛けが並び、東廊下には内側から施錠できる扉が二つある。
灯りの下で、屋敷の者たちが私たちを迎えた。
「お帰りなさいませ」
今夜の水時計は、誰一人置き去りにしなかった。




