第1話 神に選ばれた男が、事故死した日
神に選ばれた男は、神ではなく都市保全局に殺された。
正確には、都市保全局が三年間放置した地下導水管に。
共和国軍の検死記録には、こう残っている。
頭蓋破砕。
胸部圧壊。
肺への泥水流入。
刃傷なし。
銃創なし。
神授魔法による干渉痕なし。
つまり、彼は誰にも殺されていない。
ただ落ちた。
ただ潰れた。
ただ溺れた。
帝国東方聖騎士団、ヴァルター・リーベルト卿。
通称、《聖域卿》。
神に向けられた刃も、弾丸も、殺意も、すべて無へ帰す神授魔法の持ち主。
共和国兵七百名を殺し、三つの砦を無傷で踏み潰し、帝国の民に「神に選ばれた者は死なない」と信じさせた男。
その男が、古い地下導水管の崩落で死んだ。
報告書の末尾に、レイ=アッシュフォード少尉はこう記した。
『直接原因:地下導水管の崩落』
『間接原因:都市設備の老朽化』
そして余白に、一行だけ書き足した。
『神は、保守点検を怠る』
――三時間前。
共和国辺境都市ラグナの広場では、まだ誰も神が死ぬとは思っていなかった。
人々は膝をついていた。
祈っているわけではない。
立っていれば、帝国兵に殴られるからだ。
広場の中央には、黒い杭が打ち込まれている。
帝国が占領した街に、必ず最初に打つ杭だ。
それが地面に刺さった瞬間から、街は帝国のものになる。
家も。
井戸も。
畑も。
橋も。
そして、人の名前さえも。
「俺は、トマだ……」
老人が首筋を押さえながら、何度も自分の名を呟いていた。
「トマだ。トマだ。忘れるな。俺はトマだ」
隣にいた老婆が、老人の顔を見て泣いている。
「あなた……ごめんなさい」
「何がだ」
「名前が……あなたの名前が、思い出せないの」
老人の顔から血の気が引いた。
首筋には、黒い線が薄く浮かんでいる。
見えない指が、皮膚の下からその名を塗り潰しているようだった。
別の場所で、母親が娘を抱きしめていた。
赤い髪の少女だった。
十歳ほどだろうか。
「この子だけは、神殿に連れていかないでください」
帝国兵が少女の腕をつかむ。
「喜べ。神に近づける」
その光景を、屋根裏に潜んでいたレイは見ていた。
手帳の紙に、ペン先が黒い点を作る。
同じ言葉を聞いたことがある。
――喜べ。君の妹は、神に選ばれた。
リィナ。
レイは妹の名を口にしなかった。
口にしたところで、神殿は返してくれない。
共和国も助けてはくれなかった。
だから彼は、祈るのをやめた。
神が人を奪うなら、神にも仕組みがある。
仕組みがあるなら、壊せる。
広場の隅で、灰色の外套をまとった少女が膝をついていた。
群衆と同じように頭を下げている。
だが、祈ってはいない。
彼女だけが、黒い杭を見ていた。
怯えではなく、罪を見るような目で。
布で髪を隠している。
顔も伏せている。
けれど、わずかに覗いた瞳だけは隠せていなかった。
深い金色。
帝国貴族の肖像画でしか見たことのない色だった。
レイは一瞬だけ、その少女を記録した。
『灰色外套。金眼。黒杭を注視』
そのとき、広場の奥がざわめいた。
白銀の鎧をまとった男が、馬上から人々を見下ろしている。
ヴァルター・リーベルト卿。
帝国貴族。
神に選ばれたとされる男。
「恐れることはない」
声は穏やかだった。
怒鳴っていない。
脅してもいない。
本気で、救っているつもりなのだ。
だから怖かった。
「お前たちは今日より、神の民となる。飢えも、迷いも、争いも、神が管理してくださる」
誰も答えない。
答えられない。
ヴァルター卿は黒い杭の前で馬を止め、慈悲深い聖人のように微笑んだ。
「名を奪うのではない。ようやく、お前たちにも管理される価値が与えられるのだ」
母親が叫んだ。
「やめてください! その子だけは!」
「喜びなさい」
ヴァルター卿は赤い髪の少女を見た。
「その子には適性がある。神に近づける」
黒い杭の周囲には、白い石で円が描かれていた。
帝国式の聖印。
登録礼の最後に、神授貴族はその中心へ立ち、杭へ手を置く。
そうして街の名と、人の名を、神前へ差し出す。
帝国兵は疑わない。
民衆は知らない。
だが、レイは知っていた。
過去三つの占領記録。
焼け残った儀礼図。
元神殿書記の証言。
聖域卿は最後に、必ずそこへ立つ。
黒い杭の正面。
聖印の中心。
広場の真下を走る、地下導水管の亀裂の上に。
その瞬間、広場の端で共和国兵が耐えきれずに発砲した。
銃声。
弾丸はヴァルター卿の額へ向かい、半歩手前で消えた。
音もなく。
火花もなく。
最初から存在しなかったように。
続けて三発。
全て消えた。
矢も消えた。
投げ槍も消えた。
火薬瓶も、火を噴く前に砕けて消えた。
ヴァルター卿は悲しそうに目を伏せた。
「なぜ分からない」
彼は怒らなかった。
ただ、哀れむように言った。
「神は、私に向けられた害意を私に触れさせない」
次の瞬間、帝国兵が発砲した。
先に撃った共和国兵の胸が弾ける。
屋根瓦の上で身体が跳ね、広場へ落ちた。
ヴァルター卿は死体を一瞥しただけだった。
「処理しなさい。彼はまだ、神の民ではありません」
誰かが失禁した。
誰かが祈った。
誰かが子どもの口を塞いだ。
屋根裏からそれを見下ろしながら、レイは手帳に書いた。
『銃弾、消失』
『矢、消失』
『火薬瓶、消失』
『対象を直接害する現象に反応』
『環境変化には未反応』
隣の伝令兵が震える声で言った。
「少尉……あれは無理です」
「何が」
「攻撃が全部消えます」
「全部じゃない」
レイは広場を見ていた。
小雨が降っている。
雨粒はヴァルター卿の頬を濡らしている。
泥は鎧についている。
馬の吐く息は白く曇っている。
蹄の音は石畳に響いている。
弾丸は消える。
矢は消える。
火薬瓶は消える。
だが、雨は消えない。
泥は消えない。
重力は消えない。
馬の糞尿さえ、神の聖域を素通りしている。
レイは次の一行を書いた。
『神は、事故を敵と認識しない』
伝令兵が喉を鳴らした。
「……少尉?」
「撃つな。斬るな。燃やすな。祈るな」
「では、どうするんです」
「儀式を待つ」
「儀式?」
レイは足元の床板に置いた古い都市図を見た。
ラグナは水路の街だ。
広場の真下には、三年前から修繕申請が出され続けていた地下導水管がある。
修繕はされなかった。
そして今朝、帝国はその真上に黒い杭を打った。
杭は石畳を割り、古い導水管の天井に亀裂を入れた。
小雨で増えた水圧が、亀裂を押し広げている。
レイは昨夜、その図面を読んだ。
導水管の位置。
漏水報告。
沈下記録。
黒い杭を打つために帝国が必ず使う広場中央の座標。
登録礼で神授貴族が最後に立つ位置。
全て、記録した。
神を殺すためではない。
事故が起きる場所を、確認するために。
「少尉、まさか……」
「俺が殺すんじゃない」
レイは広場中央を見た。
「街が壊れる」
ヴァルター卿は馬を降りた。
赤い髪の少女が、黒い杭のそばへ引き出される。
母親が泣きながら娘の名を呼ぶ。
聖印の中心から、少女までは近い。
近すぎた。
伝令兵が息を呑んだ。
「少尉、今なら卿は中央です」
「まだだ」
「でも、地面が」
「子どもがいる」
「この機を逃せば、全員が神殿送りです」
数で言えば、伝令兵が正しい。
少女一人の命と、街全体の消失。
比べるまでもない。
だが、レイはその計算をもう何度も見てきた。
妹のとき、大人たちは同じことを言った。
一人の子どもで、作戦を止めるな。
だからリィナは消えた。
レイは短く息を吐いた。
「三秒だけ待つ」
「三秒で何が変わるんですか」
「変える」
レイは屋根の隙間から小石を落とした。
小石は瓦を転がり、下の路地へ落ちる。
そこに潜んでいた共和国兵が、合図を受け取った。
その兵には、作戦の全体を伝えていない。
命令は一つだけ。
馬を驚かせろ。
誰を殺すのかも、何が崩れるのかも、兵は知らない。
だから、その空砲に殺意はない。
少なくとも、ヴァルター卿へ向けられた攻撃ではない。
次の瞬間、広場の反対側で銃声が鳴った。
銃口は空へ向いていた。
誰も狙っていない。
聖域は反応しなかった。
ただ、馬だけが驚いた。
白銀の馬が前脚を上げる。
帝国兵が一瞬、赤い髪の少女から手を離した。
母親が飛び出し、娘を抱き寄せる。
ヴァルター卿は眉をひそめた。
帝国兵が剣に手をかける。
ヴァルター卿は片手を上げ、それを制した。
「よい」
彼は、母娘を責めなかった。
本気で、神へ捧げる前の子どもを傷つけたくなかったのだ。
「怖がらずともよい。神は逃げる者まで、見捨てはしない」
そう言って、ヴァルター卿は黒い杭の前へ戻った。
聖印の中心へ。
儀礼どおりに。
疑いもせずに。
彼は杭へ手を伸ばす。
「この街を、神前へ」
石畳が、低く鳴った。
ヴァルター卿の眉がわずかに動く。
レイは手帳を閉じた。
「神は、敵を消す」
伝令兵が顔を上げる。
レイは言った。
「だが、世界は敵じゃない」
石畳が割れた。
広場が崩れた。
ヴァルター卿の身体が、馬ごと真下へ落ちた。
「卿!」
帝国兵が叫ぶ。
だが、落下は攻撃ではない。
重力は帝国法を読まない。
老朽化した石材は神学を知らない。
破裂した導水管は、誰が神に選ばれたかを判別しない。
崩れた石材が馬を潰した。
折れた黒い杭が、泥の中で火花を散らした。
地下水が一気に流れ込み、泥と瓦礫が白銀の鎧を飲み込んだ。
ヴァルター卿の叫びは、半分で途切れた。
広場に沈黙が落ちた。
帝国兵も。
共和国兵も。
避難民も。
赤い髪の少女を抱きしめた母親も。
全員が、崩れた穴を見ていた。
穴の底で、白銀の鎧が泥にまみれている。
神に選ばれた男が、動かない。
最初に声を漏らしたのは、帝国兵だった。
「……なぜ」
神授魔法は破られていない。
誰も聖域卿を斬っていない。
誰も聖域卿を撃っていない。
誰も聖域卿を焼いていない。
だからこそ、誰にも理解できなかった。
神に守られた男が、神と無関係な場所で死んでいる。
レイは屋根裏から降りた。
伝令兵が慌てて止める。
「少尉、危険です」
「だから行く」
「今出る必要が?」
「今じゃないと、ただの事故で終わる」
レイは広場へ出た。
銃は持っていない。
剣も抜いていない。
手帳だけを持っている。
帝国兵たちが一斉にこちらを見た。
何人かが銃を構える。
だが、撃てなかった。
彼らを守っていた神の代理人は、泥の中で死んでいる。
共和国兵たちが屋根の上へ姿を現した。
銃口が帝国兵を囲む。
レイは崩落穴の縁に立った。
泥に沈んだヴァルター卿を見下ろす。
それから、避難民の方を向いた。
赤い髪の少女が、母親の腕の中で震えている。
名を忘れられかけた老人が、首筋を押さえている。
灰色の外套の少女だけが、レイではなく、黒い杭を見ていた。
レイは言った。
「見ただろう」
声は大きくなかった。
それでも、奇妙なほどよく通った。
「神は、あいつを守らなかった」
誰も動かなかった。
レイは知っていた。
神が平民を選んだわけではない。
神が貴族を見捨てたわけでもない。
ただ、ヴァルター卿が穴に落ちただけだ。
だが、そのままでは事故で終わる。
だからレイは、事故に名前をつけた。
「伝えろ」
レイは言った。
「神は、死ぬ」
最初は、誰も復唱しなかった。
ただ唇だけが動いた。
神は、死ぬ。
次に、老人が声にした。
「神は死ぬ」
母親が、娘を抱いたまま泣き笑いのように呟いた。
「神は死ぬ」
赤い髪の少女も、かすれた声で言った。
「神は、死ぬ」
それは歓声ではなかった。
祈りでもなかった。
もっと悪いものだった。
感染だった。
広場の端から端へ、同じ嘘が広がっていく。
神は死ぬ。
神は死ぬ。
神は死ぬ。
帝国兵たちが後ずさる。
共和国兵たちは勝利を信じかけている。
レイだけが、その声を祝福として聞いていなかった。
そのときだった。
折れた黒い杭が、低く鳴った。
泥の中に半分沈んだ杭が、ぴしり、とひび割れる。
死んだはずの鉄が、もう一度息をし始めたようだった。
広場の隅で、灰色の外套の少女が顔を上げた。
誰よりも早く。
まるで、その音を知っていたかのように。
次の瞬間、老人が悲鳴を上げた。
首筋の黒い線が、濃くなる。
「名前が……!」
老婆が老人の肩を揺さぶった。
「あなた、あなたの名前は――」
言葉が出ない。
母親の手首にも黒い印が浮かぶ。
赤い髪の少女の頬にも。
共和国兵の一人が、自分の掌を見て凍りついた。
神に選ばれた男は死んだ。
だが、黒い杭はまだ生きている。
「少尉!」
伝令兵が叫ぶ。
「印が広がっています!」
レイは舌打ちした。
卿ではない。
杭だ。
神の命令は、まだ止まっていない。
撃てば止まるか。
壊せるか。
いや、遅い。
黒い印は、広場の人々の皮膚に広がっていく。
その時、灰色の外套の少女が立ち上がった。
彼女が見ていたのは、黒い杭ではなかった。
赤い髪の少女の頬だった。
黒い印が、少女の目元へ伸びている。
灰色の外套の少女は、そこで初めて唇を噛んだ。
そして、歩き出した。
「下がれ」
レイが言った。
「そこはまだ死ぬ」
「知っています」
少女はそう答えた。
怯えてはいなかった。
ただ、覚悟していた。
彼女は崩落穴の縁に立つと、懐から小さな短剣を抜いた。
レイは目を細めた。
「何をする気だ」
「止めます」
「何を」
「あの杭を」
「なぜ君にできる」
「今は、聞かないでください」
少女は迷わず、自分の掌を切った。
赤い血が、白い指を伝う。
その血が、折れて露出した黒い杭の切っ先へ落ちた。
瞬間、杭が金色に光った。
広場に浮かびかけていた黒い印が、一斉に止まる。
老人が首筋を押さえた。
老婆が泣きながら老人の名を呼んだ。
母親が手首を見る。
赤い髪の少女が、頬に触れた。
印は消えていない。
だが、止まっている。
代わりに、少女の掌の傷口が黒く滲んだ。
黒いものが血管のように手首へ伸びる。
少女はわずかに息を詰めた。
それでも、膝はつかなかった。
レイは理解した。
救ったのではない。
止めただけだ。
そして、代わりに彼女が何かを引き受けた。
撤退しかけていた帝国兵の一人が、少女を見た。
金色に光る杭。
血を流す少女。
深い金色の瞳。
男の顔色が変わる。
「まさか……殿――」
言い終える前に、共和国兵の銃声が響いた。
帝国兵の喉元が弾けた。
声だけが、そこで消えた。
だが、遅かった。
広場に残っていた帝国兵たちが、一斉に銃を構える。
彼らは少女の正体を理解していなかった。
ただ、膝をつくべき相手を見たのだと、本能で悟っていた。
熱狂は、一瞬で戦場に戻った。
「少尉!」
伝令兵が叫ぶ。
「ここはもう持ちません!」
レイは少女の腕をつかんだ。
「名前は」
少女は答えなかった。
「名乗れない名か」
「今は」
「帝国の人間か」
少女は答えない。
沈黙。
黒い杭を止めた血。
帝国兵が言いかけた敬称。
あの金色の瞳。
答えは一つしかない。
「皇女か」
少女は否定しなかった。
それだけで十分だった。
レイは一瞬で判断した。
帝国に渡せない。
共和国にも渡せない。
なら、ここから消すしかない。
「最悪だ」
「否定はしません」
レイは少女の腕を引いた。
「来い」
「私は、逃げるために血を使ったのではありません」
「知ってる」
レイは広場を見た。
黒い印の止まった老人。
娘を抱きしめる母親。
泥の底に沈んだ聖域卿。
そして、まだ震えている黒い杭。
「だが、君が残れば、君を奪うためにもっと死ぬ」
少女は唇を噛んだ。
「……どこへ」
「神の視界の外だ」
少女は一瞬だけレイを見た。
その目には、怯えではなく、怒りがあった。
自分を鍵として扱う者たちへの怒り。
自分を火種として扱うレイへの怒り。
それでも、少女は走った。
レイは皇女の腕を引き、崩れた広場から路地へ駆け込む。
背後では、民衆の声がまだ広がっていた。
神は死ぬ。
神は死ぬ。
神は死ぬ。
その声の下で、折れた黒い杭が金色に明滅している。
少女が走りながら、息を呑んだ。
「……見つかった」
「誰に」
「神に」
レイは空を見上げた。
雲の切れ間に、薄い金色の環が浮かんでいた。
太陽ではない。
月でもない。
巨大な瞳孔のように、ゆっくりとこちらを向いている。
広場ではまだ、同じ嘘が燃えていた。
神は死ぬ。
神は死ぬ。
神は死ぬ。
レイは皇女の腕を引いたまま、路地の闇へ駆け込んだ。
嘘は走り出した。
神は、その嘘を見ていた。
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