第8話
立てこもり三日目、午前七時。
凍てつく夜が明け、山荘を包囲する雪原には、どこか弛緩した、それでいて不気味な空気が漂っていた。
「……信じられない」
杉本は、ひび割れた窓ガラスの隙間から、信じがたい光景を目にしていた。
昨日まで怒号と銃声が飛び交っていた包囲網の最前線。機動隊の盾の裏側で、隊員たちが車座になり、白い湯気の立つプラスチックのカップを手に持っていた。
風に乗って、山荘の中にまで届いてくる。
安っぽい、だが暴力的なまでに食欲をそそる、醤油と香辛料の匂い。
彼らは、食べていた。
昨日、五人の同僚が殺されたその場所で。すぐ後ろの雪山には、まだ幼い中学生たちの遺体が転がっているというのに。
「ハッ、いい匂いじゃねえか」
真壁が、乾いた笑い声を上げた。
「杉本、あれが『国家』だ。あいつらにとっちゃ、俺たちを殺すのも、ガキを焼き殺すのも、その後の朝飯を美味く食うためのノルマに過ぎねえんだよ」
スコープを覗くと、隊員の一人が麺を啜りながら、隣の男と何かを話して笑っているのが見えた。
彼らにとって、この山荘は「異常事態」ではなく、ただの「現場」なのだ。
「……っ!」
杉本の胃が、拒絶反応で痙攣した。
自分たちが命を懸けて守ろうとしたもの、奪い合ったもの、それら全てが、あの立ち上る湯気の向こうで「日常」という巨大な怪物に飲み込まれていく。
一方で、指揮車の前に立つ島田和也だけは、食事を受け取らなかった。
彼は部下が差し出したカップを無造作に払い除け、双眼鏡を山荘の二階――杉本がいる場所――へと向け続けている。
『……杉本、聞こえるか』
無線の向こう、和也の声は、三日間一睡もしていない者の掠れ方をしていた。
『お前の後ろにいる奴らは、朝飯を食い終えたら、お前たちを焼きに来る。……それが終われば、彼らは家に帰り、家族と温かい風呂に入るだろう。誰も、お前たちの理想なんて覚えちゃいない』
「和也、お前は……お前はそれでいいのか!」
『……私は、麺を啜る気にはなれない。お前の断末魔を聴くまではな』
和也の視線の先には、いまだザイルで吊るされたまま、意識を失いかけているミチルの姿があった。
彼女の鼻先を、温かい食事の匂いが虚しく通り過ぎていく。
「阿久津……動けるか」
杉本は、隅でうずくまっていた少年に声をかけた。
「……外の奴らは、今、飯を食ってる。……今しか、ないんだ」
杉本の手には、成瀬が置いていった自動小銃があった。
「ミチルちゃんを降ろして、あの『日常』の中へ叩き返してやる。……あんな安っぽい匂いのする世界に、僕たちは負けるわけにはいかないんだ」
太陽が昇りきった。
朝食の時間が終われば、地獄の火蓋が再び切って落とされる。




