第5話
立てこもり二日目。
夜明け前の凍てつく闇を、機動隊が放つ強烈な探照灯が切り裂いていた。雪は止む気配がなく、山荘を包囲する鉄の群れは、昨日よりもその距離を縮めている。
「……やめろ、真壁さん。それだけは、取り返しがつかなくなる」
杉本の震える声は、真壁には届かなかった。
山荘の二階、吹き抜けのベランダ。手すりには太いザイルが括り付けられ、その先には――ミチルがいた。
彼女は口を粘着テープで塞がれ、薄いジャージ一枚の姿で、真冬の虚空に吊り下げられていた。探照灯の光が彼女を白く照らし出し、雪原に細長い、絶望的な影を落とす。
「取り返し? 杉本、お前はまだそんな寝言を言っているのか」
真壁はミチルの首に、小型のワイヤレスマイクをテープで固定した。
「これは和也への『特等席』の招待状だ。あいつは今頃、ぬくぬくと暖房の効いた指揮車で、俺たちの出方を計算してる。……その計算式を、このガキの悲鳴でぶち壊してやる」
真壁がマイクのスイッチを入れた。
山荘の外、静まり返った雪原に設置された機動隊のスピーカー、そして和也の耳元のレシーバーに、ミチルの「ヒュー、ヒュー」という、凍りついた肺が懸命に空気を求める音が流れ始める。
『……真壁。貴様、何を考えている』
無線から、和也の声が届く。昨日までの冷静さは、もうそこにはない。喉の奥で獣が唸っているような、低く、濁った声。
「島田和也。お前の自慢の教え子だぞ。ほら、よく見てやれ。マイナス十度の風に吹かれて、あと何分、このガキの心臓が動くかな?」
真壁は笑いながら、ミチルの身体をザイルごと、さらに数メートル下へと蹴り落とした。
「あ……あぅ……!」
テープ越しに、ミチルのくぐもった悲鳴が響く。杉本はその場に膝をついた。
「和也、助けてくれ! 突入してくれ!」
杉本が無線に向かって叫ぶ。
「もう革命なんてどうでもいい! この子を、ミチルちゃんを降ろさせてくれ!」
『……杉本か』
和也の声から、ふっと感情が消えた。それは怒りを超越した、絶対的な断絶の音だった。
『……お前たちは、越えてはならない線を越えた。……今この瞬間をもって、山荘内の全員を「排除対象」と認定する』
「和也……?」
『救援ではない。これは、掃討だ。……杉本、お前も、そのガキも、まとめて灰にしてやる』
山麓から、重厚なエンジン音が響き渡った。
ミチルの特異な聴覚が、絶望の中でその音を拾う。
「……あ……あぁ……(火……火が来る……)」
彼女の目には見えていた。包囲網のさらに後ろ、機動隊の列を割って前進してくる、化学防護服に身を包んだ一団と、巨大なノズルを備えた装甲車。
「……火炎放射器か」
真壁が、嬉しそうに目を細めた。
「いいぞ、島田。それでこそ『督戦兵』だ。愛する教え子ごと、すべてを焼き尽くせ」
杉本は、吊り下げられたミチルの指先が、寒さで紫に変色し、力なく垂れ下がっていくのを見た。
かつて和也と奏でた、あの穏やかな音楽の世界は、もうどこにもない。
あるのは、燃え盛る地獄を待つ、真っ白な雪原だけだった。




