第1話
雪はすべてを覆い隠すはずだった。若かりし日の過ちも、行き場を失った理想も、そして、これから流される血の赤さえも。
浅間連峰の奥深く、朽ち果てた山荘「雲雀館」の二階。
杉本は、凍てつくライフル銃のボルトを引き抜いていた。指先の感覚はない。あるのは、鉄の冷たさと、自身の呼気が白く濁る視界だけだ。
「……杉本、震えてるのか」
背後から、低く、錆びたナイフのような声が届く。
リーダーの成瀬だ。かつて大学の法学部で「万人の平等のために」と熱弁を振るっていた男は、今や煤けた迷彩服に身を包み、眼光だけを異常にぎらつかせている。
「いえ。……寒さのせいです」
「嘘をつけ。貴様はまだ、その指にこびりつく血の重さを想像して怯えている。いいか、外にいるのは家畜だ。国家という巨大な病に侵された、思考停止の肉塊だ。それを間引くのは、外科手術と同じだ。慈悲だよ」
成瀬が顎で示した先――山荘を包囲する機動隊の防壁。その隙間から、異様な光景が広がっていた。
雪原を、小さな影たちが這い上がってくる。
それは、重い鉄兜を被らされ、自分たちの身の丈に合わない自動小銃を抱えた子供たちだった。
『修学旅行:平和学習の旅』。バスの窓に貼られていたはずの紙は剥がされ、彼らは国家の「肉の盾」として、あるいは「洗脳の成果」として、この戦場に放り込まれた。
「中学生……」
杉本が呻くように呟く。スコープを覗くと、先頭を走る少年の顔が見えた。涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにし、過呼吸気味に肩を揺らしている。その指は、暴発を恐れるようにトリガーから遠ざけられていた。
その後方、機動隊の盾の列から、拡声器の怒声が響く。
『前進しろ! 止まることは反逆とみなす! 背中を向ける者は、我々が処置する!』
督戦兵。逃げようとする味方を後ろから撃つ、冷酷な番人。
その声に、杉本の心臓が跳ねた。聞き覚えがある。いや、忘れるはずのない声だ。
杉本はスコープの倍率を上げた。
機動隊の列の中、一人の指揮官が立っている。防弾ヘルメットの奥に見える、鋭く、それでいてどこか空虚な瞳。
「……和也か?」
島田和也。
かつて同じ安アパートで、一枚の布団を分け合い、ベートーヴェンのレコードを聴きながら「世界を少しでも良くしたい」と語り合った親友。音楽を愛し、誰よりも優しい手を持っていた男。
その男が今、子供たちの背に銃口を向け、「進め」と命じている。
「杉本、何をしている。狙え」
成瀬が杉本の肩に手を置いた。その手には、自陣営の規律を乱す者を処刑するための「総括」の重みが乗っている。
「ガキどもが境界線を越えた瞬間に掃射しろ。奴らを殺せば、国家の非道が白日の下に晒される。この子供たちの死体こそが、革命の狼煙になるんだ」
杉本の指がトリガーに触れる。
スコープの中では、泣き叫ぶ少年が、和也の構える銃口に追われるようにして、山荘へと近づいてくる。
左側には、狂気に憑かれたリーダー、成瀬。
右側には、冷酷な執行官へと成り果てたかつての友、和也。
正面には、何も知らずに死へと進まされる無垢な犠牲者。
杉本の脳裏に、かつて和也と聴いた第九の旋律が流れた。
『すべての人々は兄弟となる』
その歌詞が、皮肉な嘲笑となって雪原に響く。
「……ごめん、和也」
杉本は、浅い呼吸を止めた。
視界から感情を消し、冷徹な「観測者」へと自分を追い込む。
狙うのは、突撃してくる少年ではない。
「おい、杉本? どこを狙って――」
成瀬の言葉が終わるより先に、静寂が引き裂かれた。
乾いた銃声。
一発。
弾丸は雪の結晶を切り裂き、まっすぐに「答え」へと向かった。




