第三章 第二節 第十一話 水が戻る場所
水のドラゴンのいる空間は、
ひどく静かだった。
神殿の最奥。
水そのものが壁となり、
天井となり、
床となっている。
濁りは、
ここまで来ると隠しきれない。
水は重く、
鈍く、
澱んでいた。
巨大な影が、
その中心に横たわっている。
水のドラゴン。
その身体は、
なお美しい。
だが、
わずかに震えていた。
「……」
誰も、
すぐには言葉を発せなかった。
救われた。
だが、
まだ完全ではない。
それが、
全員に分かっていた。
水のドラゴンが、
ゆっくりと目を開く。
その視線が、
ライナスたちを捉えた。
水の中に、
直接響く声。
言葉というより、
意思が流れ込んでくる。
ネレウスは、
思わず一歩前に出た。
「ドラゴン様……」
『我は、
負の感情を抱えることしかできなかった』
『寄り添い、
受け止めることはできても』
『手放す術を、
知らなかった』
水が、
わずかに揺れる。
『お前たちは、
違った』
ライナスは、
無言のまま聞いていた。
『名を聞かせよ』
一瞬、
間があった。
ネレウスが口を開きかけ、
しかし止まる。
ライナスが、
小さく前に出た。
「……ライナスだ」
ドラゴンは、
しばらく沈黙した。
そして、
穏やかに言う。
『ライナス』
『お前が今後、
水を必要とするなら』
『我は、
力を貸そう』
その言葉に、
空気が変わった。
約束だった。
恩義ではない。
対等な誓いだった。
「……ありがとうございます」
ライナスは、
深く頭を下げた。
ドラゴンは、
それ以上何も言わず、
静かに瞼を閉じた。
眠りではない。
休息だった。
ーーー
神殿の外。
光が、
差し込んでいた。
完全な澄み切りではない。
だが、
確実に違う。
水が、
流れている。
重さが、
薄れている。
「……戻ってきてる」
ドゥリアが、
目を見開いた。
水路を流れる水が、
わずかに透明さを取り戻していた。
「全部じゃないけど……」
フィリアが、
手を浸す。
「生きてる水だね」
ネレウスは、
静かにうなずいた。
「魚王の鱗がなくとも、
止まったわけではない」
「……だが、
魚人だけでは
今回の問題は解決できなかった」
その言葉は、
自嘲でも否定でもなかった。
事実の確認だった。
リシアが、
ゆっくりと息を吐く。
「だからこそ、
意味がある」
「他の種族が関わった」
「信仰ではなく、
現実として」
ドゥリアは、
装置の方を振り返る。
即席で、
完全ではない。
部品も、
定期的な交換が必要だ。
「……これ、
ずっとはもたないよ」
「分かってる」
リシアは、
迷わず答えた。
「でも、
今はこれでいい」
「水が戻る『時間』を
作れた」
「それが、
一番大事」
ドゥリアは、
小さくうなずいた。
「うん」
ーーー
街へ戻ると、
空気はさらに変わっていた。
倒れていた魚人が、
ゆっくりと起き上がっている。
暴れていた者たちが、
正気を取り戻し、
周囲に謝っている。
完全ではない。
だが、
確実に回復へ向かっている。
「……水が」
「軽い」
そんな声が、
あちこちから上がる。
最初は、
距離を取っていた視線。
だが、
次第に変わる。
「外から来た者たちが……」
「水を……」
言葉が、
つながっていく。
誰かが、
はっきりと言った。
「水を救った者たちだ」
その呼び方が、
広がっていく。
「この国を救った……」
「救世主だ」
その言葉に、
ライナスは固まった。
「……え」
完全に、
予想外だった。
フィリアが、
くすっと笑う。
「顔、
赤いよ」
「……やめてくれ」
視線を逸らし、
頭を掻く。
「俺、
何もしてない」
ネレウスが、
静かに言う。
「した」
「魚人には、
できなかったことを」
「それで十分だ」
ドゥリアが、
ぴょんと前に出る。
「ね、
救世主さま」
「……言うな!」
周囲から、
小さな笑いが起きた。
重苦しかった空気が、
少しずつ解けていく。
魚人たちの視線には、
もう警戒はなかった。
感謝と、
安堵と、
尊敬。
ーーー
その輪の外で、
長老が静かに頭を下げた。
「外のものと、
この国へ戻ってきた姿を見て、
わしは誇りを捨てたのだと思った」
「だが、
違った」
「閉じたままの誇りこそが、
この国を弱くしていた」
長老は、
ゆっくりと視線を上げる。
「ネレウス、
お前は間違っていなかった」
「そして……」
長老は、
ライナスたちを見る。
「外の者たちよ、
ありがとう」
「この国は、
お前たちに救われた」
その言葉に、
周囲の魚人たちも、
深く頭を下げた。
ーーー
夜。
灯りの下で、
簡素な食事が振る舞われる。
豪華ではない。
だが、
温かい。
「……変わったな」
ネレウスが、
ぽつりと言った。
「何が?」
ライナスが聞く。
「この国の、
人の目だ」
「昔は、
外を拒んでいた」
「今は……」
言葉を探し、
続ける。
「外を、
知ろうとしている」
リシアが、
静かにうなずいた。
「それが、
一番大きな変化ね」
フィリアは、
杯を両手で包みながら言う。
「水だけじゃない」
「流れが、
戻ったんだと思う」
ドゥリアは、
眠そうに目を擦る。
「……よかった」
その一言に、
すべてが詰まっていた。
ライナスは、
夜空を見上げた。
まだ、
問題は残っている。
魚王の鱗は、
戻っていない。
水も、
完全ではない。
だが、
進める。
この国は、
立ち止まらない。
「……次だな」
小さく、
そう呟いた。
水は、
再び流れ始めていた。
それは、
この国だけではない。
世界が、
動き始めている証だった。




