第三章 第二節 第十話 水に溶ける声
水のドラゴンのいる空間は、
ひどく静かだった。
神殿の最奥。
水そのものが壁となり、
天井となり、
床となっている。
濁りは、
ここまで来ると隠しきれない。
水は重く、
鈍く、
澱んでいた。
巨大な影が、
その中心に横たわっている。
水のドラゴン。
その身体は、
なお美しい。
だが、
わずかに震えていた。
「……やっぱり、
苦しんでる」
ドゥリアが、
小さく呟く。
フィリアは、
言葉を失っていた。
回復魔法を流しても、
意味がないことは、
一目で分かる。
これは、
傷ではない。
ネレウスは、
水を見つめたまま言う。
「負の力を、
受け止め続けている」
「寄り添って、
抱え込んでしまったのだ」
その声は、
魚人としての理解だった。
「水のドラゴンは、
守る存在だ」
「濁りを拒まず、
抱く」
「だが……」
言葉を切り、
続ける。
「負の力の扱い方が、
わからない」
その瞬間、
ライナスは一歩前に出た。
「呼びかける」
誰にともなく、
そう言った。
水に近づき、
声をかける。
「……聞こえるか」
返事はない。
ドラゴンの身体が、
わずかにうねるだけだ。
何度呼んでも、
反応はない。
声は、
水に溶けて消える。
「……だめだ」
ライナスが、
歯を食いしばる。
その背に、
ネレウスが声をかけた。
「待て」
「別の方法がある」
全員が、
ネレウスを見る。
「魚人の中で、
選ばれた者だけが使う術だ」
「水のドラゴンと、
精神で直接繋がる」
「精神を、
水に溶かす」
空気が、
一気に張りつめた。
「……戻れない可能性もある」
ネレウスは、
隠さず言った。
「精神が溶けきれば、
戻らない」
沈黙。
その中で、
フィリアが一歩前に出た。
何も言わず、
ライナスの手を取る。
強く、
離さない。
「……行くなら」
小さな声。
「ちゃんと、
帰ってきて」
それだけだった。
命令でも、
励ましでもない。
約束だった。
ライナスは、
短く頷く。
「……必ず」
ネレウスが、
水に手をかざす。
術が、
静かに始まった。
水が揺れ、
ライナスの意識が、
ゆっくりと沈んでいく。
――
そこは、
暗かった。
重く、
冷たい感情が、
渦を巻いている。
悲しみ。
怒り。
救われなかった想い。
それらが、
形を持たずに漂っている。
その中心に、
水のドラゴンがいた。
巨大だが、
怯えている。
抱え込むだけで、
どうしていいか分からない存在。
ライナスは、
言葉を選ばなかった。
近づき、
ただ存在を示す。
逃げない。
否定しない。
「……苦しいって言っていい」
その声に、
ドラゴンの感情が揺れた。
初めて、
こちらを見る。
「寄り添うだけじゃ、
終わらない」
「抱えたままじゃ、
救われない」
ライナスの中にある、
数えきれない後悔と、
選び続けてきた意志が、
光として広がる。
負の力が、
怯える。
ドラゴンは、
初めて知る。
寄り添う先に、
解決があることを。
一緒に、
手放せることを。
水が、
ゆっくりと澄み始めた。
外で、
ドゥリアが息を呑む。
「……濁りが、
引いてる」
フィリアは、
手を離さなかった。
祈るように、
道標であり続ける。
――
やがて、
水が静まる。
ライナスの意識が、
引き上げられる。
目を開くと、
フィリアの顔があった。
「……おかえり」
その一言で、
ライナスは息を吐いた。
水のドラゴンは、
静かに横たわっている。
さっきまでの震えが、
少しだけ収まっていた。
ネレウスは、
深く息を吐いた。
「……届いたな」
水は、
まだ完全ではない。
だが、
滅びは止まった。
ここから先は、
時間をかけて取り戻せる。
ライナスは、
水の向こうを見つめた。
まだ、
終わっていない。
だが、
確かに一歩、
前に進んだ。
水は、
再び流れ始めていた。




