第三章 第二節 第八話 濁りの底で
身体を起こしたとき、
まず感じたのは、
水の匂いだった。
重い。
澱んだ水の匂い。
潮の香りとは、
明らかに違う。
「……動ける?」
フィリアの声が、
すぐ近くで聞こえた。
ライナスは、
ゆっくりと視界を開く。
石の床。
割れた柱。
崩れた神殿の一部。
水のドラゴンの神殿から、
少し離れた場所だった。
「……なんとか」
喉がひりつく。
全身が痛む。
骨が折れてはいない。
だが、
体の芯に残る衝撃が、
まだ抜けきっていなかった。
周囲を見る。
ネレウスは、
膝をついたまま、
深く息を整えている。
ドゥリアは、
ころすけの部品を胸に抱え、
震える手で立ち上がろうとしていた。
リシアは、
壁にもたれ、
額を押さえながら、
周囲を見渡している。
「……生きてるわね、
全員」
乾いた声だった。
誰も笑わない。
それが、
どれほどの奇跡か、
全員が分かっていたからだ。
エイリオンは、
いなかった。
魚王の鱗も、
奪われたまま。
そして、
神殿の外から、
低いざわめきが聞こえてくる。
「……行こう」
ライナスは、
歯を食いしばりながら言った。
「国の様子を、
確認しないと」
誰も反対しなかった。
ーーー
街に戻るにつれて、
違和感は、
はっきりと形を持ち始めた。
水路。
かつては澄んでいたはずの水が、
今は、
鈍い灰色を帯びている。
流れはある。
だが、
生きていない。
水面には、
細かな泡が浮かび、
消えては生まれ、
また消えていく。
「……におい」
ドゥリアが、
鼻を押さえた。
魚の生臭さではない。
腐敗とも違う。
「……苦い」
フィリアが、
唇を引き結ぶ。
「薬草でも、
毒でもない」
「魔力が、
溶け込んでる」
歩くたびに、
水の音が、
不自然に大きく聞こえる。
ちゃぷ、
という音が、
やけに重い。
市場跡。
屋台は、
崩れかけたまま放置され、
魚籠は空。
床には、
倒れたままの魚人がいた。
「……おい」
ライナスが、
駆け寄ろうとする。
ネレウスが、
腕を伸ばして止めた。
「触るな」
「……魔力が、
荒れてる」
魚人の男は、
浅く息をしていた。
目は虚ろ。
鰓が、
異常に速く動いている。
その指先が、
ぴくりと動き、
爪が石を掻いた。
「……う……」
うめき声。
だが、
言葉にはならない。
フィリアが、
そっと回復の力を流す。
一瞬、
呼吸が落ち着いた。
だが、
すぐにまた、
苦しそうに身をよじる。
「……だめ」
フィリアが、
首を振る。
「体じゃない」
「水のほうが……」
それでも、
フィリアは力を緩めなかった。
完全には治せない。
それでも、
今ここで命を落とさせないために、
必死に支え続けている。
通りを進むと、
同じような魚人が、
何人もいた。
倒れている者。
壁にもたれて震える者。
仲間に支えられながら、
必死に歩く者。
子どもを抱いた母親が、
低い声で祈っている。
兵士たちは、
街を巡回しているが、
疲労が隠せない。
誰もが、
分かっていた。
これは、
偶発的な異変ではない。
「……広がってる」
リシアが、
低く言った。
「想定より、
ずっと速い」
ネレウスの表情が、
硬くなる。
「……魚王の鱗が、
ない」
「それだけで、
ここまで……」
「違う」
リシアは、
即座に否定した。
「鱗がなくなったから、
露出した」
「でも、
原因は別にある」
「水そのものに、
負の力が結晶化してる」
ライナスは、
拳を握った。
エイリオンの言葉が、
脳裏をよぎる。
――苦しみながら、
滅びろ。
「……長老は?」
ネレウスが、
近くの兵士に声をかける。
兵士は、
一瞬ためらい、
それからうなずいた。
「……奥に」
「状況が、
かなり悪い」
ーーー
長老のもと。
広間は、
重苦しい空気に包まれていた。
長老は、
椅子に深く腰掛け、
まるで一気に老けたように見えた。
ネレウスが、
一歩前に出る。
「街が、
壊れ始めている」
長老は、
否定しなかった。
「水の濁りは、
抑えきれぬ」
「ドラゴン様の力が、
及ばぬ」
「……終わりだ」
ドゥリアが、
思わず叫ぶ。
「そんなの、
決めるの早すぎるよ!」
長老は、
ゆっくりと首を振る。
「我らは、
水に生きる」
「水が死ねば、
国も死ぬ」
「魚王の鱗が、
あったからこそ、
持ちこたえてきた」
ライナスが、
静かに問いかける。
「……鱗は、
何をしていた?」
長老は、
少しだけ、
言葉に詰まった。
「……媒介だ」
「ドラゴン様が、
水を浄化するための」
「我らだけでは、
負の力を、
完全には消せぬ」
「だから、
ドラゴン様が受け止め、
鱗を通して、
流してきた」
リシアの目が、
鋭くなる。
「つまり」
「今は、
すべてがドラゴンに、
直接流れ込んでいる」
長老は、
ゆっくりとうなずいた。
「……限界だ」
沈黙が、
広間を包む。
ライナスは、
一歩前に出た。
「方法は、
二つある」
「水の浄化を、
どうにかする」
「そして、
ドラゴンを、
これ以上苦しませない」
長老は、
顔を上げる。
「……出来ると?」
「出来るかは、
分からない」
ライナスは、
正直に言った。
「でも、
やらないなら、
終わりだ」
リシアが、
静かに息を吐く。
「……役割を分けましょう」
「水の浄化には、
代替が必要」
「魚王の鱗の代わりを、
一時的に作る」
ドゥリアが、
目を見開く。
「……できる?」
「設計は、
私がやる」
リシアは言った。
「材料と、
実装はあなた」
ドゥリアは、
一瞬だけ迷い、
すぐにうなずいた。
「……やる」
フィリアが、
ライナスを見る。
「ドラゴン様は……」
「俺が行く」
即答だった。
ネレウスが、
静かに言う。
「……俺もだ」
「水の中に入るなら、
必要だろう」
フィリアは、
小さく息を吸い、
はっきりと言った。
「……身体が、
もたなくなる」
「だから、
私が抑える」
「少なくとも、
戻ってくるまで」
リシアは、
二人を見て、
短く言った。
「……任せるわ」
ドゥリアが、
不安そうに呟く。
「ライナス……」
リシアは、
はっきりと言った。
「大丈夫」
「あなたなら、
届く」
それは、
信頼だった。
広間の外では、
また一人、
魚人が倒れる音がした。
時間は、
残されていない。
国は、
崩れ始めていた。
だが、
まだ終わっていない。
彼らが、
動く限りは。




