第三章 第二節 第五話 水の嘘、誇りの沈黙
長老の広間を出た瞬間、
空気がわずかに変わった。
重さが消えたわけではない。
ただ、
胸の奥に溜まっていた圧が、
少しだけ動いた。
石造りの回廊。
水灯の淡い光が、
魚人の彫刻を照らしている。
足音が、
やけに響いた。
「……なあ」
ドゥリアが、
小さな声で言った。
「さっきの長老さん、
なんか……」
言葉を探して、
口を閉じる。
ネレウスが、
代わりに答えた。
「余裕がない」
「それを、
見せないようにしている」
「……隠してる?」
ドゥリアが首を傾げる。
「隠してるというより、
守ってる」
ネレウスの声は、
静かだった。
「この国では、
“知らないふり”も
守り方の一つだ」
リシアが、
鼻で小さく息を吐く。
「ずいぶん不器用ね」
「誇り高いって、
そういうことよ」
皮肉に聞こえるが、
否定はなかった。
ライナスは、
前を見たまま言った。
「長老は、
嘘はついていない」
「ただ、
全部は話していない」
「それを、
俺たちに見抜かせた」
フィリアが、
小さくうなずく。
「“任せた”というより、
“見せた”に近いわね」
ーーー
回廊を抜けると、
外気が肌を打った。
湿った風。
水の匂いが濃い。
街の中心へ戻る道。
昨日までは、
異国の景色として
眺めていたはずの光景が、
今日は違って見える。
「……人が少ない」
フィリアが、
ぽつりと言う。
市場は開いている。
魚も並び、
商いも行われている。
それなのに、
人の声が低い。
笑い声がない。
「外の者が来たから、
警戒してるんじゃない?」
リシアが言う。
「それだけなら、
まだいい」
ライナスは、
すれ違う魚人たちの顔を見た。
視線が合わない。
避けているのではない。
余裕がない。
「……疲れてる」
ドゥリアが、
小さく言った。
「みんな、
ねむそう」
ネレウスは、
一瞬だけ唇を噛む。
「夜が、
長い」
それ以上は、
何も言わなかった。
ーーー
水路の近くに立つと、
違和感はよりはっきりした。
水面が、
不自然に細かく揺れている。
波ではない。
流れの乱れだ。
「……落ち着いてない」
フィリアが、
目を閉じて感じ取る。
「水の流れが、
少しずつ噛み合ってない」
「それって、
どれくらいまずいの?」
ドゥリアが聞く。
フィリアは、
少し考えてから答えた。
「今すぐ
何かが起きるわけじゃない」
「でも、
積み重なれば
確実に歪みになる」
「歪み?」
「魚の動きが変わる」
「水草が枯れる」
「病が増える」
「……生活が、
静かに壊れる」
リシアが、
腕を組んで言った。
「それでいて、
一気には壊れない」
「だから、
誤魔化せる」
ネレウスが、
低く続ける。
「この国は、
誤魔化しに慣れている」
「水が澄んでいると
言い続けることで、
澄んでいると
信じる」
「……信じたいんだ」
その言葉に、
誰も否定しなかった。
ーーー
宿へ戻る途中、
ネレウスが足を止めた。
小さな祠。
水の意匠が刻まれている。
供えられた花は、
少し枯れていた。
「……ここは」
ネレウスが、
静かに言う。
「昔は、
人が集まる場所だった」
「今は?」
リシアが聞く。
「……通るだけだ」
フィリアは、
祠の水皿を見た。
水が、
わずかに濁っている。
それでも、
誰も触れようとしない。
「見ないふりを、
選んでるのね」
リシアが言う。
ネレウスは、
否定しなかった。
ーーー
夜。
宿の部屋。
五人は、
同じ空間に集まっていた。
魚人の宿は、
必要以上に広くない。
距離が近い。
逃げ場がない。
リシアが、
机に紙を広げる。
「整理しましょう」
指を折る。
「紫の欠片は、
水用に精製されている」
「街の水は、
見た目ほど安定していない」
「住民の空気は、
平穏じゃない」
「そして――」
一拍置く。
「長老は、
私たちを
神殿に通す気でいる」
ドゥリアが、
目を見開く。
「……ほんとに?」
ネレウスが、
うなずいた。
「今日、
俺だけでなく
全員を通した」
「それが、
答えだ」
フィリアが、
静かに言う。
「魚人だけでは、
対処できないと
認めたのね」
「……認めたくはない」
ネレウスは、
そう言ってから、
小さく息を吐いた。
「だが、
限界だ」
ライナスが、
短く言った。
「だから、
俺たちがいる」
その言葉は、
励ましではなかった。
事実の確認だった。
リシアが、
紙を畳む。
「明日は、
神殿へ行く」
「水のドラゴンの
“状態”を確認する」
「原因も、
対処も、
まだ分からない」
「でも――」
視線を、
全員に向ける。
「見なかったことには、
できない」
ドゥリアが、
小さく拳を握る。
「……いこ」
「こわいけど、
ほっとけない」
フィリアが、
微笑んでうなずく。
ネレウスは、
ゆっくり立ち上がった。
「正式な手順が要る」
「俺が話をつける」
「時間は、
かからない」
リシアが、
口角を上げる。
「誇りって、
ほんとに手間ね」
ネレウスは、
珍しく皮肉を返した。
「だからこそ、
簡単に捨てられない」
その言葉に、
誰も笑わなかった。
水は、
もう揺れている。
それを、
見ないふりを続けるほど、
国は静かに壊れていく。
五人は、
それぞれの顔を見た。
まだ、
答えはない。
だが、
次に進む理由だけは、
はっきりしていた。




