第三章 第二節 第四話 水の底で揺れるもの
長老の居所は、
街の最奥にあった。
水中に沈むように建てられた、
巨大な石殿。
外壁には、
古い紋様が刻まれ、
魚人の歴史と誇りが、
静かに眠っている。
「……ここだ」
ネレウスが、
足を止める。
入口の前には、
二人の衛兵。
鋭い視線が、
一行を値踏みするように走った。
だが、
ネレウスの姿を認めると、
態度が変わる。
「水の騎士……」
短い言葉とともに、
道が開かれた。
「他の者たちも、
共に入れ」
意外そうに、
ドゥリアが目を丸くする。
「……いいの?」
ネレウスは、
小さくうなずいた。
「長老の判断だ」
ーーー
石殿の中は、
外とは別世界だった。
水は澄んでいるが、
どこか重い。
流れが、
ゆっくりすぎる。
フィリアは、
違和感に眉をひそめた。
「……水が、
少し鈍い」
リシアも、
同じことを感じていた。
「循環が、
均一すぎる」
「きれいすぎるのも、
不自然ね」
最奥。
玉座のような石座に、
年老いた魚人が座っていた。
長老だった。
白く変色した鱗。
深い皺。
だが、
目だけは鋭く、
長い年月を生き抜いた者の光を宿している。
「……久しいな、
ネレウス」
低く、
水に溶けるような声。
「外の世界は、
どうだ」
ネレウスは、
一歩前に出て、
膝をついた。
「……変わっていました」
「良くも、
悪くも」
長老は、
静かにうなずく。
「そうか」
そして、
視線が動いた。
ネレウスの背後。
ライナスたち一人一人を、
順に見ていく。
「他種族を連れてくるとは、
思わなかった」
責める響きはない。
ただ、
事実を述べているだけ。
リシアが、
一歩前に出た。
「私たちは、
港町の異変を追ってきました」
「魔物の増加、
水に適応した異質な存在」
「原因を探る中で、
ここに辿り着いた」
長老は、
しばらく黙っていた。
水音だけが、
殿内に響く。
「……外の者に、
見られてしまったか」
その言葉に、
空気が変わる。
「やはり……」
フィリアが、
小さく息を呑んだ。
長老は、
ゆっくりと立ち上がる。
「我らの水は、
澄んでいる」
「そう、
思いたかった」
静かな告白だった。
「だが、
現実は違う」
「少しずつ、
確実に、
濁ってきている」
ネレウスの拳が、
わずかに強く握られる。
「……街で、
暴れていた者を見ました」
ライナスが言う。
「紫色の欠片に、
似た反応もあった」
長老の目が、
一瞬だけ細まった。
「……あれは、
我らにとっても異常だ」
「原因は、
分からぬ」
「水の流れを調べても、
辿れない」
「ドラゴン様も……」
言葉が、
途切れる。
その沈黙が、
すべてを語っていた。
「水のドラゴンが、
苦しんでいる」
リシアが、
静かに言葉を継ぐ。
長老は、
否定しなかった。
「最近、
水が濁り始めてから、
対話も拒まれる」
「我らでは、
近づくことすら難しい」
ドゥリアが、
思わず声を上げる。
「……そんなの、
大変じゃん」
長老は、
苦く笑った。
「だが、
外には言えぬ」
「弱みを見せれば、
国は揺らぐ」
フィリアが、
そっと前に出る。
「……だから、
街では平気なふりをしていた」
「水は澄んでいると」
長老は、
ゆっくりとうなずいた。
「その通りだ」
「だが、
もう限界が近い」
長老の視線が、
再びネレウスに戻る。
「ネレウス」
「お前が連れてきた者たち」
「この者たちは、
異変に立ち向かった経験があるな」
ネレウスは、
一瞬迷い、
そして答えた。
「……はい」
「彼らは、
救えぬものと、
救えるものの違いを、
すでに知っています」
長老は、
深く息を吐いた。
「ならば……」
「力を貸してほしい」
その言葉は、
懇願ではなかった。
魚人の国が、
初めて外に向けて差し出した、
静かな信頼だった。
ライナスは、
一歩前に出る。
「俺たちは、
できることをやる」
「ただし、
全部を救えるとは、
約束できない」
長老は、
うなずいた。
「それでいい」
「……嘘より、
誠実だ」
石殿に、
再び水音が満ちる。
魚人の国は、
まだ崩れていない。
だが、
確実に揺らいでいる。
その中心に、
水のドラゴンがいる。
そして、
この国の行く末は、
彼らの選択に委ねられた。
静かな覚悟が、
水の底で交わされた。




