第三章 第二節 第三話 静かに狂う水
魚人の国の街は、
一見すると整っていた。
建物は、
珊瑚と石を組み合わせた造りで、
水の流れを妨げない配置になっている。
道にあたる水路も、
淀みなく巡っていた。
「……思ってたより、
普通だね」
ドゥリアが、
きょろきょろと辺りを見回す。
「閉じた国って聞いてたから、
もっとピリピリしてるのかと」
「閉じているからこそ、
“普通”を保とうとするのよ」
リシアが、
淡々と言った。
「外に弱みを見せないために」
フィリアは、
周囲の魚人たちを見ていた。
行き交う魚人は多い。
生活も続いている。
だが、
目が合っても、
すぐに逸らされる。
会話は小さく、
笑い声は少ない。
「……息苦しい」
フィリアが、
ぽつりと漏らす。
「空気じゃない。
心、かな」
ネレウスは、
何も言わず前を歩いていた。
案内役の魚人に続き、
街の中央へ向かっている。
水路の分岐点。
流れが、
わずかに滞っていた。
「……ここ、
水、遅くない?」
ドゥリアが、
指を差す。
確かに、
周囲より流れが鈍い。
水草が絡まり、
色もくすんでいる。
「整備は、
されているはずだ」
ネレウスが言う。
「この区画は、
水の循環が安定している」
「でも、
今は違う」
リシアが、
水に手を伸ばし、
感触を確かめる。
「……魔力の流れが、
乱れてる」
「強くはないけど、
均一じゃない」
フィリアが、
眉をひそめる。
「生き物に、
負担がかかる流れ」
「……ねえ」
ドゥリアが、
声を落とす。
「魚人の子ども、
あそこ」
水路脇。
若い魚人が、
幼い子を抱いて座り込んでいる。
子どもの鱗は、
ところどころ色が薄く、
呼吸が浅い。
「大丈夫ですか?」
フィリアが、
思わず一歩踏み出しかける。
だが、
案内役の魚人が、
すっと腕を伸ばし、
制した。
「……医師が来る」
「問題ない」
短い言葉。
だが、
視線は逸らされている。
フィリアは、
それ以上踏み込まなかった。
助けを差し出すより、
今は見るべきだと判断した。
「……問題ない、ね」
リシアが、
小さく呟く。
「便利な言葉だわ」
ーーー
さらに進む。
神殿に近づくにつれ、
街の様子が変わっていく。
建物の表面に、
うっすらと紫がかった染み。
一箇所ではない。
点々と、
広がっている。
「……あれ」
ドゥリアが、
足を止める。
「前に見たのと、
似てる」
ライナスも、
同じ場所を見ていた。
「魔族のなり損ないのときだ」
「完全な結晶じゃない。
残滓に近い」
「水に溶けた、
欠片の痕跡」
ネレウスの歩みが、
わずかに遅れる。
「……その話は、
聞いている」
「だが、
街の中に出るほどではないはずだ」
「はず、ね」
リシアが言う。
「“はず”が、
崩れてきてる」
そのとき。
水路の向こうで、
ざわめきが起きた。
叫び声。
怒号。
そして、
何かが叩き壊される音。
「……何?」
ドゥリアが、
身構える。
案内役の魚人が、
舌打ちした。
「来るな」
「ここで待て」
そう言い残し、
走り出す。
だが、
様子はすぐに見えてしまった。
水路の中央。
一人の魚人が、
暴れている。
目は充血し、
呼吸は荒い。
槍を振り回し、
周囲の建造物を叩いている。
「……近づくな!」
「水が、
水が……!」
意味をなさない言葉。
二人、
三人と魚人が集まり、
取り囲む。
「抑えろ!」
「傷つけるな!」
叫びながら、
複数で組み付く。
暴れる魚人は、
異様な力を出していた。
通常の魚人なら、
ありえない。
だが、
数の力で押さえ込まれ、
やがて動きが鈍る。
「……っ、あ……」
力が抜け、
その場に崩れ落ちる。
周囲に、
重い沈黙が落ちた。
誰も、
こちらを見ない。
「……今の」
ドゥリアが、
小さく言う。
「魔物じゃない」
「魚人、だよね」
「ええ」
フィリアが答える。
「でも、
正常でもない」
リシアは、
魚人たちの動きを見ていた。
「慣れてる」
「初めてじゃないわ」
ネレウスは、
拳を握りしめていた。
何も言わない。
だが、
視線は震えている。
魚人たちは、
倒れた仲間を抱え、
何事もなかったように散っていく。
片付ける。
隠す。
日常に戻る。
「……見てしまったな」
案内役が、
戻ってきて言った。
声は、
硬い。
「忘れろ」
「これは、
我らの問題だ」
リシアは、
静かに返す。
「……忘れられる段階は、
もう過ぎてる」
案内役は、
答えなかった。
ただ、
踵を返す。
「長老がお会いになる」
「……全員だ」
その言葉に、
ネレウスが顔を上げる。
「全員?」
「……ああ」
案内役は、
一瞬だけ視線を伏せた。
「隠す意味が、
なくなった」
街は、
まだ動いている。
生活は続いている。
だが、
水は静かに狂い始めていた。
その中心に、
何があるのか。
それを語れる者は、
もう限られている。
長老のもとへ続く水路を前に、
ライナスは立ち止まった。
「……行こう」
「見た以上、
戻れない」
誰も、
異を唱えなかった。
水の国は、
静かに悲鳴を上げていた。




