第三章 第二節 第二話 歓迎されない海
霧が、薄く晴れた。
それまで世界を覆っていた白が、
ゆっくりと引いていく。
船首の向こう。
海の色が、変わった。
深い青ではない。
濁ってもいない。
澄んでいるのに、
どこか重たい。
「……見えた」
ネレウスが、
低く言った。
水平線の先。
海面から、いくつもの影が突き出している。
岩ではない。
人工物だ。
石と珊瑚が絡み合ったような、
巨大な構造体。
「……あれが?」
ドゥリアが、
身を乗り出す。
「魚人の国?」
「正確には、
その外縁だ」
ネレウスは、
舵を微調整しながら答えた。
「国そのものは、
海の下にある」
「ここは、
外の者を迎え入れるための、
境界だ」
境界。
その言葉が、
やけに重く響いた。
船が進むにつれ、
周囲の水が静かになる。
波が消え、
水面が鏡のように落ち着いていく。
まるで、
見えない手で包まれているかのようだった。
「……音が、
減ったね」
ドゥリアが、
小さな声で言う。
「風の音も、
波の音も」
フィリアが、
周囲を見回す。
「結界、ね」
「魚人の国は、
水そのものを扱う」
リシアが続けた。
「音も、
流れも、
全部制御下にある」
「歓迎の準備、
って感じじゃないな」
ライナスが、
静かに言う。
誰も否定しなかった。
ーーー
船は、
指定された位置で停止した。
碇を下ろす前に、
水面が揺れる。
泡が、
円を描くように浮かび上がった。
次の瞬間。
水の中から、
影が浮上する。
全身が鱗に覆われ、
人型の輪郭を持つ存在。
魚人。
四肢を備え、
背には薄いヒレ状の突起。
目は、
冷たく澄んでいた。
三人。
皆、
同じ装備をしている。
簡素だが、
よく手入れされた槍と、
鱗を加工した防具。
「……止まれ」
先頭の魚人が、
低い声で言った。
言葉は、
共通語だった。
「ここから先は、
許可がいる」
ネレウスが、
一歩前に出る。
「ネレウスだ」
「水の流れを読む者」
「外の調査から、
戻ってきた」
魚人たちの視線が、
一斉にネレウスへ向く。
その中に、
わずかなざわめきが走った。
「……外に出た者か」
「戻る理由は、
聞いていない」
「なぜ、
他種族を連れている」
空気が、
一気に冷えた。
ドゥリアが、
思わずライナスの服を掴む。
「……なんか、
空気、硬い」
「警戒だ」
リシアが、
小声で答える。
「想定内ね」
ネレウスは、
感情を抑えた声で続けた。
「外の海で、
異変が起きている」
「水に関わる問題だ」
「魚人の国に、
無関係とは思えない」
魚人の一人が、
鼻で笑った。
「外の問題だ」
「我らの水は、
清らかだ」
「外の争いを、
持ち込むな」
「……本当に?」
遮るように言ったのは、
リシアだった。
魚人たちの視線が、
一斉に彼女へ向く。
「最近、
水の流れが変わっている」
「港周辺で、
魚が魔物化した」
「水に適応した、
異質な魔族化も確認している」
「それでも、
無関係だと言い切れる?」
一瞬。
魚人の表情が、
わずかに揺れた。
だが、
すぐに無表情に戻る。
「外の話だ」
「我らは、
水を穢さない」
「それ以上は、
答えられない」
会話は、
完全に遮断された。
「……冷たいね」
ドゥリアが、
ぽつりと言う。
「まあ、
予想はしてたけど」
ライナスは、
ネレウスを見た。
「どうする?」
ネレウスは、
一瞬だけ目を閉じ、
そして答えた。
「……国へは、
入れる」
「だが、
条件付きだ」
魚人が言った。
「他種族は、
監視下に置く」
「問題を起こせば、
即座に排除する」
「……誇りは、
ないのか」
別の魚人が、
吐き捨てるように言った。
「水の騎士を目指した者が、
他種族の力を借りるとは」
その言葉に、
ネレウスの肩が、
わずかに揺れた。
だが、
何も言い返さない。
ライナスが、
一歩前に出る。
「力を借りるんじゃない」
「力を合わせるだけだ」
魚人が、
冷たい目で見る。
「同じだ」
「誇りを捨てた者の言葉は、
軽い」
リシアが、
口を開こうとした瞬間。
ネレウスが、
小さく首を振った。
「……いい」
「今は、
通してくれればいい」
沈黙。
やがて、
先頭の魚人が言った。
「……ついてこい」
ーーー
水の中へ。
船を降り、
導かれるまま潜る。
不思議と、
息苦しさはなかった。
水が、
身体を包み込み、
押し返してくる。
「……すご」
ドゥリアが、
目を輝かせる。
「沈んでるのに、
苦しくない」
「水路が、
制御されている」
フィリアが答える。
「魚人の国は、
水そのものが道なの」
やがて、
視界が開けた。
巨大な空間。
光が、
水面から差し込み、
揺れている。
珊瑚と石で組まれた建造物。
水草が、
自然に配置されている。
美しい。
だが、
どこか息苦しい。
「……見られてる」
ドゥリアが、
小さく言った。
周囲の影。
建物の隙間。
水の向こう。
無数の視線。
好奇心ではない。
評価でもない。
警戒と、
拒絶。
「歓迎、されてないね」
ライナスが、
静かに言った。
「当然よ」
リシアが答える。
「閉じた国は、
外を恐れる」
「そして、
自分たちが正しいと信じている」
ネレウスは、
街を見渡した。
「……そう聞いている」
「昔は、
もっと外と関わっていた、と」
その言葉に、
フィリアがそっと視線を向ける。
ネレウスは、
それ以上は語らなかった。
「……来て」
案内役の魚人が、
短く言った。
「長老に会わせる」
歓迎ではない。
審問に近い。
ライナスは、
仲間を見回した。
全員が、
静かにうなずく。
ここからが、
本番だ。
閉ざされた水の国。
その奥で、
何が待っているのか。
まだ、
誰も知らなかった。




