第二章 第五節 第六話 選び直した正しさ
人影は、
壁にもたれかかるように立っていた。
近づくにつれて、
息遣いの異常さが分かる。
浅く、
速く、
そして不規則。
「……近づくな……」
かすれた声。
拒絶ではない。
恐怖だった。
「……だいじょうぶだ」
ライナスが、
ゆっくり声をかける。
距離を詰めすぎない。
剣も抜かない。
ただ、
視線を合わせる。
「俺たちは、
助けに来た」
その言葉に、
人影の肩が小さく震えた。
「……うそだ……」
「みんな、
そう言った……」
喉の奥から、
泡のような音が漏れる。
魔力が、
体内で暴れている。
「……時間がない」
リシアが、
低く言った。
「これ以上進めば、
完全に向こう側に行く」
「処理するなら、
今」
その言葉に、
空気が張りつめる。
「待て」
ライナスが言う。
「……ドゥリア」
短い呼びかけ。
それだけで、
ドゥリアは動いた。
指輪が光り、
地面が低く唸る。
ゴーレムが、
人影の背後から姿を現し、
逃げ道を塞ぐ。
力任せではない。
壊さないよう、
正確に。
人影の身体が、
ぎくりと止まった。
「……っ!」
呻き声。
だが、
抵抗は弱い。
その一瞬。
ライナスの脳裏に、
別の光景が重なる。
――少し前。
ギルド長の部屋。
机の上には、
分厚い資料が積まれていた。
「魔族化は、
自然に起きているわけじゃない」
ギルド長は、
低い声で言った。
「最近の事例は、
すべて外部から仕込まれている」
「……毒ですか」
「正確には、
負の力を含んだ媒介だ」
「それが体に吸収される前なら、
取り除ける可能性はある」
ギルド長は、
一度言葉を切る。
「だが、
すべてを出し切ることはできない」
「必ず、
少量は体内に残る」
「それでも」
ライナスは、
問い返した。
「それでも、
助かる可能性は?」
ギルド長は、
しばらく黙っていた。
「……ある」
「残った毒に、
肉体が耐えられるか」
「精神が、
負けずに踏みとどまれるか」
「その両方を越えた場合のみ、
魔族化を回避できる」
「成功例は?」
「確定した記録はない」
「だが、
未遂で止まった形跡はある」
「研究が、
まだ未完成だからだ」
――回想が、
途切れる。
現実に戻る。
「ネレウス!」
「分かってる!」
ネレウスが一歩踏み出す。
槍を地面に突き立て、
静かに魔力を巡らせる。
「……理論上は、
な」
低く呟き、
水を解き放った。
澄んだ水が、
人影の身体を包む。
洗うための水ではない。
押し出すための水。
「……ぐ……っ!」
喉が引きつり、
口から黒ずんだ液体が溢れ出す。
魔族化の毒。
「出てきてる……!」
フィリアが、
思わず声を上げる。
だが同時に、
身体が大きく揺らいだ。
骨格が軋み、
皮膚が裂ける。
「このままじゃ、
体がもたない!」
「……分かってます!」
フィリアは、
即座に回復魔法を重ねる。
治すためじゃない。
壊れきらせないため。
治して、
崩れて、
また治す。
限界ぎりぎりの綱渡り。
「……やだ……」
人影が、
震える声を漏らす。
「……死にたく……ない……」
その言葉に、
ライナスは一歩前に出た。
剣は抜かない。
目を見て、
声をかける。
「聞こえるか」
「名前は?」
一瞬の沈黙。
やがて、
かすかな声。
「……レイン……」
「レイン」
ライナスは、
はっきりと言う。
「お前は、
レインだ」
「魔族じゃない」
「戻りたいなら、
耐えろ」
「俺たちが、
つなぎ止める」
その言葉が、
楔になる。
精神が、
踏みとどまる。
吐き出された毒が、
地面に溜まる。
「……残すな」
リシアが、
一歩前に出た。
杖を掲げる。
炎が、
静かに立ち上がる。
切り捨てるための炎ではない。
未来を断つための炎。
「……これで、
終わり」
炎が、
毒を包み込む。
焼き尽くす。
跡形もなく。
再利用も、
研究も、
許さない。
炎が消えたとき、
その場に残ったのは、
静かな呼吸音だった。
レインは、
力なくその場に崩れ落ちる。
だが、
呼吸は安定している。
「……生きてる」
ドゥリアが、
ぽつりと言う。
「完全じゃないけど」
フィリアが続ける。
「魔族化の痕跡は、
残っています」
「それでも」
ネレウスが、
静かに言った。
「……人として、
戻れた」
リシアは、
その光景を見つめていた。
――弟の時。
――私は、
一人で決めた。
――正しさを、
優先したつもりだった。
「……違ったのね」
小さく、
呟く。
「感情が、
間違いだったんじゃない」
「一人で、
抱え込んだことが……」
リシアは、
ライナスを見る。
「……今は、
研究が未完成だった」
「次は、
同じとは限らない」
それでも。
一歩、
前に出る。
「だからこそ」
「私は、
ここにいる」
「同じ被害を、
二度と出さないために」
それは、
師匠の正義ではない。
ライナスの正義でもない。
リシア自身が、
選び直した正しさだった。




