第二章 第五節 第五話 それでも踏み込む
その場に、
誰も踏み込めなかった。
建物の影に立つ人影は、
今にも崩れ落ちそうに揺れている。
呼吸は荒く、
指先は不自然に震えていた。
だが、
目は閉じていない。
焦点は合っていないが、
完全に失われてもいなかった。
「……あ……」
喉から、
かすれた音が漏れる。
意味のある言葉にはならない。
それでも、
生きている証だった。
「……意識がある」
ネレウスが、
低く言う。
剣に手はかけている。
だが、
抜かない。
「近づきすぎるな」
後ろから、
冷たい声が落ちた。
振り返らなくても分かる。
リシアだった。
いつの間に来たのか。
足音はしなかった。
「境界を越えかけてる」
「ここから先は、
戻れない」
フィリアが、
一歩踏み出しかけて止まる。
「……リシア」
その名を呼ぶ声は、
震えていた。
「この人は……」
「見ないで」
リシアは、
即座に遮る。
「見たら、
判断が遅れる」
杖を握る手に、
力がこもる。
その姿を見た瞬間、
リシアの中で、
別の光景が重なった。
――薄暗い部屋。
――ベッドに縛られた小さな身体。
――荒い呼吸。
――助けを求める声。
弟。
まだ、
魔族になりきっていなかった頃。
「……姉……ちゃん……」
呼ばれた気がした。
実際には、
聞こえていなかった。
だが、
あの時と同じだった。
意識はある。
苦しんでいる。
助けを求めている。
「……やめて」
誰にも聞こえない声で、
リシアは呟く。
あの時、
彼女は躊躇した。
助ける方法を探そうとした。
治せる可能性を捨てきれなかった。
その結果。
「感情を捨てられなかったから、
余計に苦しめた」
師匠の言葉が、
脳裏に蘇る。
「迷いが、
弟を殺した」
「だから、
お前は向いていない」
正しかった。
理屈としては。
だからこそ、
今も胸に刺さっている。
「……もう、
繰り返さない」
リシアは、
杖を構え直す。
「ここで終わらせる」
「それが、
一番被害が少ない」
魔力が、
集まり始めた。
その瞬間。
「待て」
低く、
だがはっきりした声。
ライナスだった。
一歩、
前に出る。
剣は抜かない。
盾も構えない。
ただ、
その場に立つ。
「まだ、
終わってない」
リシアの視線が、
鋭く刺さる。
「どいて」
「できない」
短い答え。
「……感情論よ」
「そうだな」
ライナスは、
否定しなかった。
「でも」
視線を逸らさない。
「俺は、
現場に立ってる」
「目の前で、
助けを求めてる人を見て」
「それでも、
何もしない選択はできない」
ネレウスが、
息を呑む。
フィリアは、
無意識に回復魔法の準備をしていた。
ドゥリアは、
歯を食いしばる。
「……まだ、
人だ」
ライナスは、
ゆっくり言う。
「意識がある」
「それなら、
可能性は残ってる」
「ゼロじゃないなら、
試すべきだ」
リシアの手が、
震えた。
それは、
怒りでも迷いでもない。
恐怖だった。
――もし、
あの時。
――こんな人間が、
そばにいたら。
――弟は、
救えたのではないか。
その考えを、
必死で振り払う。
「……甘い」
「現実を、
見てない」
「私は、
見てきた」
「希望を信じて、
何人も失った」
「……それでもだ」
ライナスは、
一歩も引かない。
「だからこそ、
俺は踏み込む」
「次は、
救えるかもしれない」
沈黙。
波の音だけが、
遠くで響く。
やがて、
リシアはゆっくりと杖を下ろした。
魔力が、
霧散する。
「……勝手な人」
小さく、
吐き捨てるように言う。
だが、
拒絶ではなかった。
「……分かった」
その声は、
かすれていた。
「今回だけよ」
「私が責任を取る」
ライナスは、
小さく息を吐く。
「頼む」
それだけだった。
こうして、
選択は下された。
正しさではなく、
可能性を選ぶという、
最も危険な選択。
リシアは、
その一歩を、
再び踏み出してしまった。
弟の時に、
選べなかった道を。
この瞬間から、
彼女はもう、
傍観者ではいられなくなった。




