第二章 第四節 第三話 変わらない背中
夜の港は、
昼とは別の静けさをまとっていた。
人の声は減り、
波の音が際立つ。
灯りの少ない通りを、
ネレウスは一人で歩いていた。
集団とは、
少し前に別れた。
「また明日な」
軽い調子の声。
深い意味はない。
それでも、
足取りは重かった。
理由は、
分かっている。
考えないようにしても、
頭に浮かぶ。
あの声。
剣に手をかけることもなく、
責めることもなく、
ただ「危ない」と言った男。
「……ライナス」
名前を口に出して、
小さく息を吐く。
もう別れた関係だ。
今さら、
話すことはない。
そう思いながら歩いていたはずなのに、
気づけば、
見覚えのある通りに来ていた。
宿屋が並ぶ一角。
その中の一つ。
ライナスたちが泊まっている宿だ。
「……何してるんだ、俺は」
足を止め、
自嘲する。
会う理由はない。
会えば、
余計なことを考えるだけだ。
引き返そうとした、
そのときだった。
かすかな音が、
耳に届く。
風を切る音。
金属が空を裂く音。
宿屋の裏手。
人目につかない場所。
ネレウスは、
無意識に足を向けていた。
そこにいたのは、
ライナスだった。
一人で、
剣を振っている。
誰に見せるでもなく、
黙々と。
無駄のない動き。
派手さはない。
だが、
一切の迷いがない。
ネレウスは、
物陰で立ち止まった。
声をかけるつもりはない。
ただ、
目が離せなかった。
剣が振り下ろされるたび、
胸の奥がざわつく。
その光景が、
別の記憶と重なった。
水の都。
訓練場。
濡れた床。
槍を構える自分。
剣を手にしたエイリオン。
勝ちたいとか、
認められたいとか、
そんなことは考えていなかった。
ただ、
強くなりたかった。
互いに息を切らし、
笑いながら、
もう一本と構え直していた。
「……あの頃は」
純粋だった。
戦うことが楽しくて、
鍛えることに意味があった。
そこに、
立場も事情もなかった。
目の前の剣が、
空を切る。
ライナスの動きも、
同じだ。
誰かの評価のためではない。
居場所を守るためでもない。
ただ、
自分が正しいと思う鍛錬を、
続けている。
「……そういうやつだったな」
思わず、
そう思う。
押しつけない。
だが、
曲げない。
それが、
ネレウスの知っているライナスだった。
それに比べて、
自分はどうだ。
拒まれない空気。
受け入れられた感覚。
それを失うのが怖くて、
考えることをやめていた。
ライナスは、
剣を納める。
深く息を吐き、
汗を拭う。
その横顔は、
満足でも、
苦しそうでもなかった。
ただ、
静かだった。
ネレウスは、
その場を離れた。
声をかけなかったことを、
後悔はしない。
今は、
まだ。
だが、
胸の奥に残った感情は、
無視できなかった。
翌日から、
ネレウスは少しだけ変わった。
集団の行動を、
以前より注意深く見る。
準備の不自然さ。
説明の曖昧さ。
物資の扱い。
「細かいことは気にするな」
そう言われるたびに、
胸の奥がざらつく。
夜、
再び港を歩く。
宿屋の裏には、
もう誰もいなかった。
だが、
剣を振る背中と、
水の訓練場の記憶が、
頭から離れない。
純粋だったあの感覚が、
静かに、
胸の奥で息をし始めていた。




