第二章 第二節 第五話 選択の代価
坑道の空気が、目に見えない圧となって押し寄せた。
冷気ではない。
息を吸うたび、肺の奥が軋むような感覚。
ライナスは剣を構えたまま、一歩も動かなかった。
目の前に立つ男――
人の姿をしているが、その存在は明らかに坑道と溶け合っている。
足音がない。
影だけが、地面を這って動いている。
「……獣型だと報告された理由が分かった」
ライナスが低く言う。
「影しか見えなかったんだろうな」
男は薄く笑った。
「人間は都合よく世界を見る。
理解できないものを、獣にしておけば安心できる」
影が、ぬるりと動く。
「旧坑道は便利だ。
使われていない。
崩れても表沙汰にならない」
男は周囲を見渡した。
「それに――」
影が天井を撫でる。
「ここが崩れれば、新坑道にも影響が出る。
貴族は、それを一番恐れていた」
ドゥリアが息を飲む。
「……あなたが、脅したの?」
「脅す?」
男は肩をすくめた。
「少し“教えてやった”だけだ。
この坑道がどうなれば、
鉱山がどうなるかをな」
影が、床を叩く。
「貴族は賢い。
だから選んだ」
ライナスの視線が鋭くなる。
「……冒険者を送ることを、か」
「そうだ」
即答だった。
「金貨一枚。
銀貨百枚分だ。
安いだろう?」
影が笑うように揺れる。
「冒険者は来る。
危険を承知でな。
死んでも、事故で済む」
ドゥリアの指先が震えた。
「……生け贄」
男は否定しない。
「そう呼んでもいい。
恐怖と死は、よく育つ」
その瞬間、空気が弾けた。
影が地面を走り、刃の形を取る。
「来るぞ!」
ライナスは踏み込み、剣を振るう。
影と刃がぶつかり、
硬質な音が坑道に響いた。
重い。
剣越しに伝わる圧が、腕を押し返す。
「……っ」
影が形を変え、
刃の隙間から滑り込む。
ライナスは剣を引き、体ごと回転して距離を取る。
「遅い」
男の声が、背後から響いた。
次の瞬間、背中に衝撃。
影が壁のように叩きつけてきた。
「ぐ……!」
岩肌に背を打ち付け、肺から空気が抜ける。
ドゥリアが叫ぶ。
「ライナス!」
「来るな!」
ライナスは即座に叫び返す。
男が前に出る。
歩いているだけなのに、
影が地面を引き裂く。
「前に出る癖があるな」
影が伸び、
ライナスの足を絡め取る。
動きが止まる。
「……っ」
影が、胸元へ集まる。
ライナスは歯を食いしばり、
腰の袋に手を伸ばした。
小瓶を地面に叩きつける。
閃光。
坑道が一瞬、白く染まった。
「チッ」
影が揺らぎ、拘束が緩む。
ライナスは一気に踏み込み、
剣を叩き込んだ。
刃が、男の胴を裂く。
――だが、手応えが薄い。
「……再生か」
「完全ではない」
男は身を引き、裂けた外套を撫でる。
「だから、こうして“餌”を集めている」
冷気が、さらに濃くなる。
坑道の壁に霜が走り、
床の石が軋む。
ライナスの足が、沈む。
「……圧が、増してる」
「ここは俺の狩り場だ」
影が増える。
刃。鎖。槍。
形を変えながら、四方から迫る。
ライナスは防戦一方になる。
一つ弾けば、二つ来る。
剣を振るうたび、体力が削られる。
男の視線が、ふと逸れた。
ドゥリアを見ている。
「……そっちが弱点か?」
影が、ドゥリアへ向きを変える。
「ッ!」
ライナスは反射的に踏み出した。
影を斬り、間に割り込む。
同時に、別の影が胸を掠めた。
「が……っ!」
息が詰まる。
男は首を傾げた。
「そこまでして守る必要があるか?」
影が再び集まる。
「次は、骨で済まん。
肺か、心臓だ」
ライナスは剣を地面に突き立て、体を支える。
「……だからだ」
「?」
「だから、前に出る」
男の表情が、初めて歪んだ。
「理解できん。
仲間は駒だ。
貴族も、そう考えた」
その言葉に、
ライナスの脳裏に過去がよぎる。
無理に前に出た仲間。
助けられなかった背中。
残った後悔。
「……違う」
ライナスは顔を上げる。
「助けるって、決めた」
影が、牙の形を取る。
「なら――」
影が、すべて収束する。
「その選択ごと、潰す」
衝撃。
正面から叩きつけられ、
ライナスの体が宙を舞った。
「が……っ!」
壁に叩きつけられ、
肋が悲鳴を上げる。
床に落ち、
視界が白く弾けた。
それでも、立ち上がろうとする。
「……ドゥリア……」
声が、かすれる。
男が近づく。
「終わりだ」
影が、ドゥリアへ一直線に伸びる。
「――やめて!」
ドゥリアの叫び。
「行かせるかッ!」
ライナスは最後の力で踏み出した。
剣を突き出し、影を弾く。
同時に、別の影が胸を貫いた。
「……っ」
呼吸が、できない。
体が崩れ落ちる。
倒れながら、ライナスはドゥリアを見た。
無事だ。
立っている。
それを確認して、力が抜けた。
視界が暗くなる。
その端で、見えた。
ドゥリアの足元。
ゴーレムが立っている。
いつもの石の色ではない。
内部から、淡い光が溢れていた。
ゴーレムの体に刻まれた紋様が、
静かに輝く。
ドゥリアが、何かを叫んでいる。
必死に。
光が、坑道を満たす。
――眩しい。
それを最後に、
ライナスの意識は闇に沈んだ。




