第二章 第一節 第五話 噛み合わない判断
港の調査は、三日目に入っていた。
何も起きていない。
少なくとも、目に見える形では。
けれど港町の空気は、日に日に重くなっていく。
漁師たちの声は小さく、子どもは海辺で遊ばない。
誰もが何かを怖がっているのに、誰もそれを口にしない。
「……今日も成果なしか」
ライナスがぽつりと言って、すぐに唇を結んだ。
この町で「何もない」と口にするのは、妙に重い。
「成果はあるでしょ」
リシアは依頼書を指で弾くようにして言った。
「異変の範囲、時間帯、場所。少しずつだけど絞れてきてる。
“何も起きない”のも情報よ」
ネレウスは会話に入らず、岸壁にしゃがみ込んで海面を見つめていた。
潮の匂いを確かめるように鼻を鳴らす。
「……潮が重い」
「重い?」
フィリアが尋ねる。
「深いところが沈んでいる。水が引かれてる」
「危険?」
ドゥリアが不安そうに聞く。
「まだ分からない」
ネレウスは短く答え、それ以上は言わなかった。
倉庫街へ向かう道は、湿った木の匂いがした。
霧は薄いのに、視界が悪い。
港の灯りが、どこか頼りない。
「港の奥まで行くの?」
ドゥリアが小さな声で言う。
「行かない。外縁だけ」
リシアが即答する。
「調査は調査。深入りしない。
……この町の“言ってないこと”が多すぎる」
「言ってないこと?」
フィリアが眉を寄せる。
リシアは答えず、歩幅を少しだけ速めた。
その時、倉庫と倉庫の間で木箱が倒れる音がした。
全員が一斉に足を止める。
濡れた床を引きずるような音。
水滴の落ちる不規則なリズム。
霧の向こうから現れたのは、海棲生物だった。
港では見慣れたはずの姿なのに、動きだけが異様だった。
ぎこちなく、速く、まるで何かに急き立てられている。
「……魔物化しかけてる」
リシアが低く言った。
ネレウスが槍を構え、フィリアが弓に手をかける。
ドゥリアは指輪に触れ、迷うように息を呑んだ。
ライナスだけが一歩、前に出かける。
「止める。今なら――」
「待て」
ネレウスが短く止めた。
「港の奥に誘導される」
「誘導? ただ逃げてるだけだろ!」
「逃げてるなら、なおさら追うな」
ネレウスの声は硬かった。
「追えば“奥”へ入る。霧の中で分断される」
リシアが続ける。
「倒すのは最終手段。今は動きを見る。
この段階で“追って解決”はしない」
「……じゃあ、見送るのかよ」
ライナスの言葉には棘が混じった。
フィリアが小さく言う。
「嫌な感じがする。……逃げてるだけじゃない」
「だから追うんだろ」
「追うことで、もっと悪くなるかもしれない」
視線が交錯する。
正しさが噛み合わない。
魔物は一度こちらを見て、霧の奥へ走った。
「待て!」
ライナスが踏み出す。
「追うな」
今度はリシアが鋭く言った。
その声に、ライナスの足が止まる。
止まってしまった自分に、苛立ちが湧く。
魔物の気配は、霧に溶けて消えた。
しばらく誰も動かなかった。
ただ、遠くで波が立つ音だけが聞こえる。
「……逃したな」
ライナスが吐き出す。
「逃した、じゃない」
リシアは冷たいほど淡々と言う。
「今追って、私たちの誰かが倒れたら、港の被害はもっと増える。
“守るための判断”よ」
「結果が出なきゃ意味ないだろ」
言ってしまってから、ライナスは目を伏せた。
ネレウスは海を見たまま言う。
「判断は、まだ正しいか分からない」
その言葉が、妙に刺さった。
正しいか分からない判断。
それでも選ばなければならない。
「今日はここまで」
リシアが言う。
「報告して、範囲を見直す。
……次に備える」
誰も「分かった」と言わなかった。
けれど、反対する理由も見つからなかった。
港の霧は薄いのに、胸の中の霧は濃くなっていく。




