花嫁衣装を奪われたけれど、私以外着られないんですが?
「そういうわけだ。君のウェディングドレスを使って彼女と式を挙げたい」
アンジェルは言われて、聞き間違いかと思った。
しかし婚約者であるフロランの隣にいるベレニスのことを見れば、彼女はうんと頷いており、間違ってはいないのだと理解することができる。
「いや、無理よ」
そしてアンジェルはすぐに答えた。
そもそもそんな提案は到底受け入れられないし、嫌だという言葉が先に出そうになったが、事実を言うことができた。
けれども彼らにとって、アンジェルの言葉は”無理”でも”嫌だ”でもその違いなど理解するつもりもないらしくフロランもベレニスも眉間にしわを寄せて口を開く。
「そんなことを言ってやるな。ベレニスは以前も式を挙げられなかったんだそうだ。かわいそうだろ?」
「そうよ。それにあなたはこれからいくらでも美しいドレスを着る機会があるでしょう? 今回ぐらい私に譲ってくれるべきよ」
「加えてお前は第一夫人、ベレニスは第二夫人、こうして明確な差をつけてやってるんだ、ここは君が我慢するべきところじゃないか」
彼らはまるで、アンジェルが気持ちだけでいやだと突っぱねたと思っているみたいにアンジェルを説得にかかる。
しかしアンジェルの言った言葉は嫌ではなく、無理である。
「それに式には君の親族はまったく来ないんだ。遠方だからと許してやったがそもそもそれがおかしい」
「そうよ。だったら私があなたの美しいドレスを使ってあげる、あなたはそのあとそれを着て、絵画にでもして実家に送ってあげたらいいのよ」
「ああ、名案だな。それなら二人とも平等だ」
フロランはそうして笑みを浮かべてベレニスの腹に目線を落とす。
彼女のお腹はポッコリとしているが、胎児のサイズはまだそれほど大きなものではない。
ただのたっぷりとした皮下脂肪があるだけだ。
それが年齢によって蓄えられたものかどうかはわからないけれど、それでも彼女が少々肥満気味なのは事実である。
それに加えて、もう二十代後半。本来ならばもうすぐ結婚する予定の若い伯爵家跡取りの第二夫人になれるような人ではない。
「でも━━━━」
彼らの言葉の間に口をはさんで、アンジェルは無理である説明をしようと試みた、しかしかぶせるようにフロランは言う。
「これで! オードラン子爵にも面目が立つ」
「ふふふっ、お父さまったらきちんとした手順を踏まなかったこととても怒っていたものね」
「ああ、まったくだ」
「でも私は、嬉しかったわ。あの日、あなたが求めてくれて……」
そう言って、ベレニスは腹を摩って笑みを浮かべた。
彼女のお腹の中にはフロランとベレニスの子供がいる。
二人はベレニスの父であり、フロランの職場の上司でもあるオードラン子爵からの紹介で出会った。
もとより彼女は、とある貴族の元に嫁に行っていたが相手の事情で出戻ることになり、仕方がないので誰かの第二夫人に考えていた。
その時点でアンジェルに相談をしてほしかったけれど、そういう事情があって付き合いで会って、そしてそのまま。
まるで運命かのように子供を授かり、結婚式を控えていたギベール伯爵家に上がり上がり込んだ。
そういう状況なのでフロランが一番気にしているのは体裁とオードラン子爵の機嫌だ。
その前にはアンジェルの機嫌などほんのちっぽけなものであり、実家が力を持たない後ろ盾もない末っ子のアンジェルでは太刀打ちすることができない。
「……」
「ベレニス、君は、若さこそないがこんなにすぐに子供を身ごもってくれるなんてすばらしい女性だ。父や母も跡取りの心配がなくなってとても喜んでいる」
「ふふふっ」
「だからこそ、これから家に入って頑張ってくれるベレニスのために、人生に一度の式を楽しませてやりたい」
「フロラン……」
「幸い、ウェディングドレスはアンジェルが持っている物がある、一から作る手間もない、たった一人が着るだけよりも二人で着た方が元が取れるだろ」
「そうね。デザインもあまり見ない形だったけれど申し分ない輝きだったわ」
「ああ、実家のすたれた産業の産物らしい、田舎のものの服なんてと思っていたが案外悪くないものもあるんだな」
彼らは勝手に話を進めていって、アンジェルは次から次に振ってくる言葉の刃に、心臓からだらだらと血が流れ出ているように感じていた。
そもそもそれを見せたことなどないのに知っているのがまず気持ち悪い。勝手に見たのだろう。
さらに田舎者、なんて見下されて。
手間がかからないという理由で使ってやるなどと言われ。
嫁入りする前から、義母も義父もすでに子供を身ごもっている女性のことを優先する。
式を楽しませてやりたいというフロランは、アンジェルのことなど一切考えていない。
アンジェルにとってもそれが一生に一度のことだということを理解できるはずなのにしようとしない。
この状況があまりにも悲惨で、実家に帰りたくなった。
あの場所にはなにもないしお金もなくてこうして、嫁に行くしかなかったけれど人は優しくて、仲のいい幼なじみだっていて、村人たちも誰も人を馬鹿にしないいい場所だった。
それを田舎という理由だけで馬鹿にする彼らに、どうしようもなく腹が立つ。
けれどもこれまでなら何とか許せる。
今まででもそうして許してきた。
拳を握ってアンジェルは涙をこらえて押し黙って言葉を飲みこんだ。
「ただそれにしても、可笑しくない?」
「なにがだ?」
「だって、嫁入り道具も碌に持っていないくせに、ウエディングドレスだけは仕立ててあるって、ふふっ、貧乏人の見栄って変な方向に働くのね」
「っ、ああ、くくっ、ああ馬鹿にしているわけじゃないぞ、いいじゃないか役に立って、一回だけしか着ないものだが」
「そうね。あんな上等なドレスを仕立てるなら、家具ぐらい買ってもらえばよかったのに」
うふふ、くすくす。
彼らはアンジェルのことを笑った。
アンジェルは怒りで頭がくらくらした。それでもカッとなって目の前が真っ白になりそうなのをこらえて、震える声で彼らに返す。
「そ、それでも。できない。そもそもあれは━━━━」
あれは、母の最期の作品で、特別な技術で作られたドレスだ。
ほかのお金になりそうなものは全部、姉や兄が持っていくことになっていて最後に生まれたアンジェルにだけなにもないことを不憫に思った亡き母の愛情そのものと言ってもいい。
彼らにとってはたいしてお金にもならないし、片田舎のすたれた技術など何の価値も見出していない。
ただのドレスとしか思っていない。しかしそれを着ることはアンジェルの中でなにより特別な意味を持つ。
そして逆に着ないことには意味をなさない。
だからこそ自分の手から奪われそうであるこの状況に声をあげないわけにはいかなかった。
ほかのどんな侮辱よりも、母の愛情を自分の手から奪おうとする彼らに対抗しなければと思う気持ちがあった。
しかし、パンという音がして、顔がそれた。
じんとした熱い痛みが頬を覆って、耳からワーンとした音が鳴り響く。
頬を抑えて見つめると、ベレニスがとても傷つけられたみたいな顔をしてアンジェルのことを見つめていた。
「酷い! 私がこんなに楽しみにしているのに、どうして譲ることができないのかしら。私のことがそんなに嫌いなの!」
「え」
「私だって不安なのに。第二夫人としてやっていけるのかとても不安ででもフロランが気前よく貸してくれるはずだって言ってくれたから、気持ちを持ち直したのよ?」
「……」
「それなのにこんな裏切りがあるっていうの? 私が可哀想だと思わないの? っ、ううっ、もうなんだか全部嫌になってきちゃったわ」
「べ、ベレニス……」
彼女は自分がアンジェルの頬をひっぱたいたというのに、見る見るうちに瞳に涙をためて、もちぃっとしているほっぺを必死に拭う。
そして慰めようとそばに寄ったフロランに、クリームパンのような手をつきだした。
ドッと押しのけられてフロランは目を丸くする。
「やっぱり私って受け入れられないのね。そうよね、いいわお父さまに言うから。結婚はやめましょう」
「! ま、待ってくれ、そうじゃない。まったくそうじゃない、いいに決まってるだろ。ドレスを着よう、どうせ数日もすればこいつも落ち着く」
オードラン子爵のことを引き合いに出されるとフロランは必死になって彼女の機嫌を取ろうとする。
平手うちの跡が頬に残っている長年の婚約者を放置して必死だ。
話し合いの体を取ってこうして言葉を交わしていても、意見を聞かれることもなければ意味などない。
ただ、事実はベレニスに逆らえずに、アンジェルは大切なものを失うそれだけだった。
それは決められた事実でまごうことなき決定事項で、どうしようもない。
言葉を聞いてすら貰えない。
アンジェルは大切なものを守ることもできず、母の願ったどうか幸せに結婚してほしいという願いすら叶えることができない。
それはどうしようもない気持ちで、こらえていた涙がポロリと一粒落ちて、鼻の奥がつんとする。
そして悲しみとともにある感情は諦め……ではなかった。
失うならいっそ。
滅茶苦茶になればいい。
私から大切なものを奪う人々に、相応の報いを。
アンジェルの心の中には悪魔の声が響いていたが、悪魔の声だろうとなんだろうと奮い立つために必要な物ならなんでもよかった。
翌日、アンジェルは打って変わって、にっこり笑ってこう言った。
「年代物なので、着用は当日だけでお願いしたのよ。それなら快く貸しましょう」
すると彼らは、ありがとうと言って感動し、三人で食事会を開いた。
もちろん食事の味などしなかったが、勤めて平常を装った。
できることは多くなかったが、救いは頼れない実感の代わりに幼なじみが手を貸してくれたことだった。
ことが起こった後、一人で実家のある領地へと歩くのは大変だ。馬車を用意してもらう必要がある。
しかしその、実家に帰るための馬車を他人に頼むという行為に幼なじみのユーベルは何かを察したのか『ささやかだけど、使ってね』とそれなりの金額も送ってくれた。
なので、魔法式のコルセットを買った。
軽い砂が入っていて、ひもで固定した後に魔法具を起動すると形質が変化して体の形に添った骨組みが出来上がる土魔法を使った優れものだ。
これのおかげでとても面白いものが見られる。最高の気分だったが、なんだかハイになっていてユーベルに悪いことをしている気持ちはなかった。
そうして、変にニコニコしたままアンジェルは当日を迎えた。
よく晴れた素晴らしい日で、領地にある教会にはたくさんの貴族がおしかけた。
フロランの友人もいたし、職場である騎士団のつながりの人間も多い。
一方オードラン子爵家も負けず劣らず親戚を呼んで伯爵家に見劣りしないよう必死で着飾った姿で現れた。
領民たちには振る舞いが成されて、教会は美しく装飾されている。
そんな中、アンジェルは一番近い親族の席に座って、美しいステンドグラスを見ていた。
ざわざわと人々が新郎新婦の話題で盛り上がっているなかで一人静かに祝いごととは思えない表情をしていた。
それもそのはずだ。
アンジェルの一番大切な母が遺してくれたウェディングドレスは今、一度も袖を通すことなく他人の手に渡り、その価値もわからない人間によって利用されている。
どうすることもできない虚しさも、悲しみも体の中を跋扈しとても収拾がつくような状況ではない。
それに、母の愛ともいえる唯一の品なのに、持って一人逃げるという高潔な選択もできずに、むしろそれを利用する行動を一番最初に思いついてしまった。
それはとても醜いことで、あんなものを纏うことはとてもじゃないができない人間だ。
純白でも高潔でもないアンジェルが衣装を奪われたことは果たして必然だったのか、司会の人間が「新郎新婦入場」と短く告げた。
ざわめきは収まって、静まり返ると楽師が美しい演奏を始める。
彼らを見守る位置にいる自分に妙な違和感があって据わりが悪い。
本来であれば、かりそめであったとしても祝福される側としてこの日を心待ちにしていただろうに、今の気持ちは真っ黒でそれでも後悔することはできなかった。
「わぁ、綺麗」
「美しいわね」
近くの貴族からそんな声が上がる。
開かれた扉の向こう、背後からの陽光を受けて美しく輝くウエディングドレスはその真価を発揮して魔法の光を纏っている。
宝石などを縫い付けているわけでも金糸を使っているわけでもないのに黄金の光を纏うそれは、アンジェルの一族に代々伝わる伝統的な縫い方をされている。
フロランもベレニスもとても誇らしそうにそして嬉しそうに腕を組んで一歩一歩歩みを進めていく。
一歩進むごとにドレスは靡いて美しい光を放つ。
しかし、そのドレスは少々ベレニスには窮屈そうに見える。
入りきらなかった胸元の贅肉がはみ出ていて何とか腹回りはそれなりに取り繕うことができているが、普段の彼女のゆったりとした服装を見ているときつくコルセットで締め上げていることは想像に難くない。
ただそんな野暮なことは誰も気にしない。
仲睦まじげな彼らの様子に多くの人が見惚れていた。
「……」
そしてアンジェラだけは別の視点から物事を見ていて、舞い散る金の光によって自分が思い描いた未来の成功を悟った。
アンジェルの計画の問題は式までドレスが持つか、という点であったがそれもクリアした今、アンジェルに恐れる物はない。
本当は、準備の段階でドレスが駄目になって呼びつけた多くの人に対して恩を欠くというシナリオだったが、どうやら神様は、不運なアンジェルに味方してくれるようだ。
彼らは歩みを進めていく、結婚という素晴らしい未来に向かって一歩一歩。
歩くたびに魔力は霧散していく、母がアンジェルのために込めた祝福の祈りを込めた魔力だ。
アンジェルは母がいなくとも寂しくなかった。
病気がちで、構ってくれたことなど数えるほどしかないのに、それでもアンジェルの未来のためを思って針を動かす姿はとても愛情を感じた。
その母の気持ちとも言い換えられるそれははらはらと空気に溶けていく。
「あら?」
「それにしても、なにか……」
「ん?」
そしてそこかしこから疑問の声が小さく上がる。
あまりに溶けだす魔力の量が多いことに感のいい貴族たちは気が付いたのだろう。
その懸念は正しい。
アンジェルの持っていたウエディングドレスは、魔力縫いにて作成されたものだ。
専用の魔法具と独自の素材を使って作られた、親類にしか着用の許されない品。
魔力というのは身内であればあるほど近しいものになる。属性が違っても親戚関係があれば、魔力馴染みがいい、反発することも少なく魔石などを融通してもらうこともできる。
そして、アンジェルの魔法は水の魔法、ベレニスは魔法を持ち合わせない。まったく相反しない魔法属性という稀有な魔力を持つ者もいるがともかくベレニスはそういうわけではない。
親類関係もまったくなく、ウエディングドレスの糸に込められている魔力はアンジェルの母のものだ。
当然、その糸にまとわせている魔力は彼女の体から染み出る魔力によって均衡を崩す。
縫い付けられている祝福を与える魔法陣は崩壊するし、ドレスの形を作っている糸も魔力が無くなれば普通の素材ではないものでできた糸なのでとても弱い。
少しでもサイズの合わない人間が来たならばどうなるか。
それは簡単なことだった。
ビリ、小さく音が聞こえた気がした。
そしてもう一つ魔力縫いで作られた衣類を切るとき気をつけることがある。
衣類に密着する形の魔法具を利用しないことだ。
「あら?」
ベレニスは歩みを止めて、自分の異変に気が付いた。
しかしすでに手遅れだ。
結婚式のお祝いとして送った魔法具のコルセットは、魔力によって起動する。そして、魔力によって動作を止める。
一定以上の魔力を検知すること、それがきっかけだ。
瞬間、彼女の腹は猛烈に膨れ上がった、かのように見えたが実際は元のサイズに戻っただけである。
まるでそれは爆発したみたいな光景で、ボンッという効果音を伴った。
「きゃぁあ!!!」
甲高い女性の叫び声が響く。
奏でられていた音楽は止まって、ドレスはばらばらと崩れて落ちていく。
舞い散った光の粉は彼女を美しく装飾しているが、中から現れたのはぽってりむちっとした体躯であり、会場の誰もが彼女にくぎ付けだった。
最後に、スコーンと音を立てて外れたコルセットは落ちる。
瞬く間に、それこそ魔法のように下着姿になった彼女に、アンジェルは立ち上がって、歩みを進めた。
「ひ、ひぃ……」
ぶるぶると震えて、衝撃からなにも言えずに自分の腕を自分で押さえて震える彼女に、アンジェルは真っ向から向き合った。
「……」
「……」
「……な、なに━━━━」
「自業自得ね。私の話も聞かず、自分が大事なら他人になにをしてもいいなんて大間違いよ」
その場にいるぽかんとしている参列者にも聞かせるように言葉を紡ぐ。
「人をないがしろにしておいて、幸せな結婚式なんてあげられると思わないで、あなたたちなんて幸せを祝われるような人たちじゃないわ!」
「っ、い、今更なによ!!」
「今更? はっ、あなた達が私になにも言わせなかったんでしょう。私は無理だと言った」
信じられないものでも見るように彼らは、目を見開いてアンジェルを見つめている。
「このドレスは、っ、……このドレスはっ、」
まだまだ言いたいことが山ほどある。今までないがしろにされた分を全部吐き出すのだ。
そうしてやっと計画は完了するというのに、ドレスのことに触れると喉がぎゅっと閉まって、体が震える。
アンジェルは目をつむって涙を堪えようと顔をしかめるつつも何とか言葉を吐き出す。
「わ、私の、お母さまが用意してくれた、ウエディングドレスだったのよ。魔力縫いで祝福をもたらすっ、ぅ、素晴らしいもの、あなたに、あなたにっ、う、奪われさえ、しなければ……」
悲壮感の漂う、つまらない泣き言のようになってしまって、それでもアンジェルはなんとか切り替えた。
「こんなことにはならなかったっ、あなたたちは私から幸せな結婚も母の形見も、愛情もすべて奪った極悪人よ、こんなもの罰にならないぐらい!」
言い切ってアンジェルはそのまま顔を背けて彼女を素通りして教会を後にした。
そして後ろからものすごい喧騒が聞こえてきて、悲鳴と怒号の大合唱である。
祝福のムードなどもはやそこには存在せずベレニスが望んだものではないことは確かだった。
アンジェルが去った後「な、なんなのよぉ~」とベレニスは泣き出して、その場に蹲った。
一方フロランは顔を青ざめさせて、後ずさる。まさか強引にアンジェルの持っていたものを使ったせいでこんなことになるなんてだれが想像できただろう。
「ベレニス!」
オードラン子爵はすぐに娘の元に駆け寄ろうとしたが「どういうことなんだ!」というギーベル伯爵の怒号が響いた。
「アンジェルさんは納得して、ドレスを譲ったんじゃなかったのか!」
「そうよ、そうよっ、私、子を持つ母としてっ、こんな、こんなっ、こと取り返しがつかないわ!」
「誰かベレニスさんをお助けしろよ」
「魔力縫いって聞いたことがあるわね。たしか……」
ギーベル伯爵夫人も続いてフロランを批判する。アンジェルの姿にすっかり心を奪われて罪悪感で死にそうになっているらしい。
「いや、それは、ベレニスが勝手に……」
咄嗟にフロランが言い訳をすると、かけてきたオードラン子爵がフロランの顔面を殴りつけた。
「きゃぁ!」
騎士の本気の拳に軽くフロランは吹っ飛んで参列者の席に激突する。
急いで退室しようとするもの、戸惑うもの、将又参戦するものと様々な方向に人が動き出す。
そして一頻り泣いたベレニスは打って変わって怒りの形相で、ドレスの残骸を手が白くなるまで握りしめた。
「っ、わかったわ。あの女、あの女!! わざと黙っていたのね、わざと!! ふざけんじゃないわよ。ふざけないでよぉ!! 台無しよ、台無しぃ!!」
「うわっ」
「ちょ、妊娠しているのだから体を大事に、キャァ!!」
ベレニスを慰めに来たオードラン子爵夫人は彼女を止めようとしてベレニス自身に殴られて鼻血を吹き出す。
「誰か、誰か治癒の魔法を!」
「ど、どうしたら」
「一旦、外に出ればって、新婦はなにを……」
新郎たちが殴り合いをしているうちに、ベレニスは騎士のうちの誰かが持っていた剣を奪い去った。
それは短剣であったため誰でも扱えると考えた結果だった、ベレニスはさぁこれからアンジェルを追いかけようと、ヒールを脱ぎ捨てて豊満な肉体を揺らし下着のまま駆けだそうとした。
「あ、」
しかし短剣でも持ちなれない女性が簡単に扱えるようなものではなく、逃げ惑う参列者のうちの一人の腕に当たり、真っ赤で派手な嘘みたいな血が噴き出した。
「いやぁああ!!」
「きゃああ!」
「お、おおっ!」
「収集つかないぞこれ!」
「どうするんだよ!!」
叫ぶ声、怒号、泣き声、たくさんのものがまじりあって、人が出口に集中し、事態は混乱を極めたのだった。
アンジェルは馬車を手配してくれたユーベルの実家に身を寄せて、事務官として働かせてもらっていた。
たいした技能もないアンジェルを雇ってくれて、実家やギーベル伯爵家との折り合いをつける時間をくれてユーベルには頭が上がらない。
あの後、フロランたちはどうなったかというと、結婚式で起きた傷害事件によって慰謝料の関係でもめにもめているそうだ。
職場の上司の娘をないがしろにしたということもあってかフロランは苦労しては入った騎士団を抜けることになり、その後処理に追われている。
ただしギーベル伯爵や伯爵夫人はアンジェルに対してとても罪悪感を持っていて、婚約破棄に当たって、ただでさえ慰謝料で苦しいなかでも多大な金額を支払ってくれた。
それをそのままユーベルに渡そうかとも思ったのだが、それでは恩をきちんと返せたとは言えないだろう。
勤めて、出してもらった給料から毎月お金をためて、馬車を出してくれたのと送ってくれたお金を纏めて布袋に入れる。
それからお礼の手紙を添えて、先日彼の侍女に渡してきたところだ。
これで一段落したし、切り替えて好きなものでも買って少しは気分転換などをした方がいいと思うのだがそんな気も起きずに、自室で項垂れていた。
机に腰かけたまま呆けてなにもする気が起きない、あれ以来ずっとこうなのだ。
もしかするとこれからもずっとこうなのかもしれない。
そう思えるほどアンジェルの日々は代り映えせずにずっと薄暗い曇り空の中をどんよりとした気持ちの中で進んでいるような心地だった。
すると、控えめなノックの音が響く。「僕だよ!」とまるで少年のような声がして、アンジェルは適当に鏡の前に立って髪を整えてから、扉を開けた。
「……ユーベル」
「部屋にいるかなと思って」
「最近はずっといるわね」
「だよね」
「……」
彼はにっこりと笑みを浮かべて、アンジェルの様子を窺っている。こうして地元に出戻ってからというもの彼は良くアンジェルの様子を見に来てくれる。
それは彼の屋敷に住み込んで働いているというのももちろんあるだろうが、昔からこの人は人懐こい人ではある。
「……それで、どうかしたの? 用事?」
「あ、そうそう。これ、返却ー」
「……」
手を取って渡された布袋は重たくて中から金属のこすれ合う音がした。
これは先日侍女に渡したものだろう。それを返してくる意味が分からなかった。
「いらないよ。あげるつもりで送ったんだし」
「……」
「それに、僕は君がこうしてこっちの領地に戻ってきてくれて嬉しいんだ」
「……」
「田舎であまり面白いものがないかもしれないけど、君の地元でもあるんだし」
彼はニコニコとしたまま続ける。アンジェルの実家は土地を持たない貴族であり、彼らの領地に住まい、商いをすることによって財を成していた。
だからこそここは地元であり、王都付近のギーベル伯爵家からすると田舎の地方で辺境なのは事実だ。
けれどもこの場所はやっぱり安心して楽に暮らせる。
「……」
「だから、君がここにいるってだけで充分。僕はなにもかっこつけで言っているんじゃないよ」
「そう、なのね」
「うん。君はとても頑張っていたし、応援もしているけれどここをいつでも思いだして帰ってきてほしい、それは僕の気持ちなんだ」
「……ええ」
「よし。だから、それは自分の好きなことのために使ってよ。その方が僕も嬉しい」
彼は優しく言葉を紡ぐ、苦しい実家の為に家を出て、遠く都会の領地に出たことも認めてくれている。
そこでなにがあって戻ってきたとしても受け入れてくれる。
……。
「まだ、全然そんな元気は出なさそう?」
それでも、調子を取り戻さないアンジェルに彼は気を使いつつも聞く。
その様子に、うんと答えるのは恥ずかしくて、けれども強がる気力もわかなくて、曖昧に笑った。
「……だよね」
「ええ」
「あのさ、これを君が喜んでくれるかはわからないけれど」
すると彼はそう前置きをしながらポケットに手を入れて、手のひら大の魔法陣の刻まれたハンカチを取り出した。
「本来は自分自身や母から子に与える物だって知っているけれど、ほら僕の魔力って白魔法だから。昔さアンジェルのお母さまに二人で魔力縫いを習ったでしょ?」
「……そうね、そんなこともあったわね」
「だから、君に。あの人の遺したものが無くなってしまったことは残念だけれど、この場所では、今でも彼女が教えたものは残ってる。帰ってきた君を一目見たい人もたくさんいると思う」
アンジェルが持っているお金の入った袋の上に彼はハンカチを置いた。
ジワリと魔力を感じて、あまりうまくない刺繍だけれど、温かさを感じる。
「気が向いたら街に顔を出してあげて。僕はいつでも君が元気になるのを待ってるよ」
彼は最後に気遣いの言葉で絞めて、もう話を切り上げようとしていると思った。
アンジェルの時間を取らせないための配慮だと感じたけれど、それにアンジェルは、なんだか気持ちが抑えられなくて「なぜ?」と聞いた。
ユーベルは少し驚いてそれから、照れくさそうに笑いながら言った。
「よく、わかんない。でも好きだから」
「曖昧ね」
「うん。あ、誰にでもこんなこと言ってないからね、君にだけだよ」
「そうなの」
「うん。絶対。もう、僕はどうしようもないからって自分の大切なものを手放したりしないから」
その瞳はとても真剣で、彼の自分に対する強い恋慕を感じた。
よりいい家を求めて結婚相手を探し自分を磨いていたアンジェルを彼は止めなかった。
そして、あの時のアンジェルは失われた。
無邪気な小さい少女ではない。母の愛情の品を復讐に使うような女になった。
でも残骸は残ってる。
その残骸を彼は、もう手放さないことを決めて、思い出の刺繍を贈る。
それはアンジェルにはまったくできていないことで、そして同時にとてもそうしたいと思った。
母の愛情は失われた。でも、彼女の遺したものはまだ息づいている。とても素敵な思いの伝わる祝福の魔法を与える技術。それは母が最期まで愛したものだった。
だったらアンジェルも、それを紡ぎ直して今度こそ手放さないと言える人間になりたい。
そうやっと思えた。そういうふうに思いたいのだという指標を得ることができた。
「……ありがとう。とても大切にするわ」
「うん。よかった。ちょっと元気出た?」
「すごくでたわ。三日間寝ずに刺繍ができそうなほどね」
「そ、それは体を壊すよ」
そうしてアンジェルはやっと未来を見ることができた。
あれ以来初めての冗談を言って、彼が暇なら遊びに行こうと誘って、一歩歩みを進めることができたのだった。
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