8話 向かいのおばさんはけっこう強い
8話
朝の日課であるランニングをこなしながら、俺は昨日のことを思い返していた。
昨夜、勇気を振り絞って月城さんに送ったメッセージ。――送信ボタンを押した瞬間は、正直、送ってよかったのかと悶々とした。
だが、しばらくして彼女からの返信を見たときは、少しだけ救われた気分だった。
『……うん、私も、少しずつでいいからまた話したい』
たったそれだけの短文。けれど、その一言で送って良かったと思えた。
まだ嫌われてない……いや、少なくとも拒絶されてはいない……はずだ。
「よし……ビビってたら、ダメだ」
父さんの言葉を思い出す。『少しずつ距離を縮めていけばいい』その声に背中を押されるように、ランニングのペースが自然と上がった。
約一〇キロ走り切り、汗まみれになって家に戻る。
よし、次は筋トレだ。俺は自宅のトレーニング部屋――通称『筋肉部屋』に入ると、すぐにスミスマシンの前に立った。
壁に貼られているトレーニングメニューを確認する。
「今日は胸の日だな」
鉄の匂いと汗の匂いが混ざり合った、俺にとっての戦場だ。
「……よし」
パワーベルトを腰に巻き、両手にチョークを擦り込む。
スミスマシンのバーはニ〇キロ、片側二〇キロのプレートをニ枚ずつ――合計で百〇〇キロ。
俺にとって過去最高の重量だ。
「今日は絶対に上げる……!」
息を整え、ベンチ台に横たわる。背中と肩甲骨をぎゅっと寄せて、脚を床に踏みしめた。
バーに手をかけた瞬間、緊張に包まれる。まるでこれから告白するみたいに、手汗が止まらない。
両腕に力を込める。
カチリ――とラックからバーを外す音が、静まり返った部屋に響いた。
「……ふっ!」
深く息を吸い込み、ゆっくりと胸の真上まで下ろす。プレートが唸りを上げ、全身にのしかかる圧倒的な重み。胸骨が押し潰されそうになり、視界がぐらつく。
床を蹴り、腹筋と背筋に力を集め、一気に爆発させる。
「ぉおおおおおおッッ!!」
咆哮とともに、バーがゆっくりと、しかし確実に天井へと押し上がる。腕が焼けるように熱い。肩が悲鳴をあげる。それでも――あと数センチ!
「くっ……行けぇぇぇぇ!!」
ガチャン、とラックに戻した瞬間、全身から力が抜けた。
荒い呼吸を繰り返しながら天井を見上げる。
「……っしゃあああああッ!!」
思わず叫んでしまった。
握りしめた拳が震える。俺は確かに、ひとりで百〇〇キロを上げたんだ。
「ふぅ……あとは朝飯食って、学校だな」
そう呟きながら庭を見ると――父さんは庭木にホースを縛りつけ、高圧洗浄機の水を全力で頭から浴びていた。
なにやってんだあの人……。俺は急いで庭に向かった。
「ぐおおおっ! これぞセルフ滝行ッ! 己を無にする修行だぁぁぁ!」
「いやいや、なにやってんの父さん!」
朝日の光を全身に浴びながら、父さんは目を見開き神々しく叫ぶ。
「翼。蛇口をひねるたびに水道メーターが回るだろ? その数字の重みを背負うことが、精神鍛錬なんだ!」
「どこが精神鍛錬!? 水道の請求にビビってるだけじゃないか!」
「安心しろ翼! 今月は大学の柔道部が大会で優勝した臨時ボーナスがある! 水道代で全部消えるがな!」
「水道代ごときにボーナスを当てにするなよ! 無駄遣い禁止!」
俺は慌てて蛇口を回してホースから水を止めた。父さんは眉を寄せ、口をへの字にして不服そうな顔をする。
「いい修行になると思ったんだがな……」
「本気で言ってんの?」
「本気だ! 人生とはすなわち修行だからな。翼、お前もやってみるか?」
「いや、やらないよ。だってそれ――」
俺は庭の向こうを指差した。
「……見ろよ父さん! 向かいの家のおばさん、スマホ構えてるぞ!」
「なにぃっ!?」
父さんが振り向くと、道路の向こうで近所のおばさんがスマホを掲げてニヤニヤしていた。
「これ、絶対動画撮られてるって! 拡散されたら一生の黒歴史だぞ!」
「ぐおおおぉっ! 撮るなーッ!!!」
父さんが塀に駆け寄ると、おばさんはくるりと背を向けて家に駆け込んでいく。
だが最後に玄関の隙間から、スマホを掲げて小さくピースしてみせた。
「ぬおおおぉっ!? 勝負ありだと!? くそっ、一本取られた……!」
「一本どころかネットに上がったら人生終わりだよ……」
びしょ濡れのまま膝をついてうなだれる父さんを横目に、俺は深くため息をついた。
「……修行っていうか、ただの恥さらしだからな」
俺はリビングに入り、プロテイン入り牛乳とブロッコリーをかじりながら制服に着替えた。
そこへタオルを肩にかけた父さんが戻ってくる。
「おっ! 翼! 今日は心臓の動きが違うな。月城さんからいい返事でもあったか?」
「……なんでわかるんだよ」
「心臓も筋肉だからな!」
そう言って豪快に笑う父さん。呆れ半分、でも口元が少しだけ緩んでしまう。父さんには俺の皮膚が透けて見えてるんだろうか? てか、筋肉でそんなことまでわかる父さんはもはや人外の存在としか思えない。
「うん。まぁ、良い返事はもらえたよ。」
「そうか! 恋も筋トレも一朝一夕ではダメだからな! しっかり頑張ってこいよ!」
「まぁ……自分なりに頑張ってみるよ」
父さんに背中を押されるようにして、俺は家を出た。とはいえ――どうしたもんかな。俺が気安く話しかけてもいいのか……。
学校への道は、月城さんとどう接するか考えているうちに、あっという間に到着してしまった。
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